『Medical×「?」の可能性~意義のある人生とは?~』【#在宅医療研究会 オンライン|4月度開催レポート】
本日は、表参道にあるアフロードクリニックの代表医師であられる道下将太郎先生にお話をいただきます。今回は、いつもと少し趣向が異なっているのではないかと思います。道下先生は、最先端の医療の現場におられた先生ですが、最先端の世界を見て感じたものがどのようなものであったのか、そのことをお聞きすることで、在宅医療を行う私たちが、立ち止まって考えるきっかけになるのではないかと考えています。
ご紹介いただきました、道下です。
本日のタイトルは、Medical×「?」の可能性 ~意義のある人生とは?~としています。医療には、病院のなかだけではなく、いろんな可能性があるということで、「Medical×「?」の可能性」というタイトルにさせていただきました。またそこから、私たちにとって意義のある人生とはどのようなものであるか、一緒に考えていけたらと思っています。
こちらが本日のアジェンダです。
1. 自己紹介
まず自己紹介です。
私は神奈川県出身で、東京慈恵会医科大学の出身です。もともとは脳神経外科医です。同時に、宇宙航空環境医学認定医でもあり、現在複数の株式会社の取締役を務めています。
学生時代はアメリカンフットボール部に所属し、毎日のように厳しい練習をしていました。非常に強い部でしたので、「優勝するか死か」というほど、そして勉強する時間が幸せに感じるくらい、非常に激しい練習をしていました。
4年生の時にはキャプテンを務めました。しかし左足に大怪我をしてしまい、一ヶ月半もの間、足の指を一本も動かせない状態が続いたこともあります。当時は身障者手帳を申請する一歩手前の状態になったのですが、この時に「医療を学べばすごいことができるようになる」と思っていたのに、「最先端の医療をもってしてもこんなものか、自分の足は動くようにはならないのか」と考えるようになりました。同時に、毎日回診にくる医師たちは、「実はたいしたことができない。自分の抱える課題には向き合ってくれない」と感じるようにもなりました。
そのような時、心の支えになってくれたのは、毎日何気ない言葉をかけてくれる看護師さん、動かない足を毎日動かそうとしてくれるリハビリの方達、そして部屋のゴミを片付けに来てくださる清掃業の方たちでした。この経験を通し、私は実は医療において技術は必要最低限であり、それよりも患者さんの心に寄り添い、患者さんを安心させること、これこそが本当の医療に必要なものなのではないかと感じるようになりました。
その後私は脳神経外科医になり、最先端の医療施設で研鑽を積みました。特に私は脳の血管をつなぐバイパス術というものを得意にしていました。神奈川県内の病院で一時期この手術を行っていましたが、とても多くの手術をさせていただき、事実県内で一番多くバイパス術をしていました。その頃、「たくさん手術をして技術を身につけたら、何か見える世界が変わってくるのではないか」と考えており、日々邁進していました。しかし次第に「10時間もかけて手術をし、患者さんの命を救うことに意義はあるが、自分の見える世界は変わらない」と感じるようになりました。また10時間以上の時間をかけて患者さんを救ったとしても、自分が一生かけて救うことができる患者さんは200人もいないことにも気付きました。そして「より多くの人を救うためには、さらに医療のベースのところに関わる必要があるのではないか」と考えるようになり、その考えを実現させるために、いろんな事業をさせていただくようになりました。
そのきっかけは、大学にいた頃にハーバード大学に留学させていただいた時に感じたことにあります。ハーバード大学では、iPS細胞を用いて猿の肺を作り、それを猿に移植することを現実化させようとしていた研究室にいました。その研究室で実験していた時、「医療は行き着くところまで行き着いたのではないか」と感じるようになりました。それは研究室で取り組んでいるように、臓器を作ることができるようになると、もう人は死ねなくなると感じたからです。
また同時に急性期医療が進歩してしまったがために、「ぽっくり死にたい」とおっしゃっている方を救命することができるようになりました。しかし実際は救命したために、その人は障害を抱えながら生きなければならない、そのような状況を作り出していることに、責務を感じるようになりました。そして「自分たちのように急性期医療をやっているものが、人の最期の死に向き合わなければならない、そのことに人生をかけて取り組まなければならない」と考えるようになりました。
2. 死への向かい方
では次に、死への向かい方についてお話しします。
ハーバード大学で感じたことを通し、私は大枠として「死への向かい方(Being Mortal)」と「予防医療(Preventive Medicine)」の2つについて取り組むようになりました。今日は、主に「死への向かい方(Being Mortal)」について、皆さんと考えてみたいと思います。
さて大学病院の急性期医療では、「生かし方」を学びます。しかし「死への向かい方」は一切学びません。「死を前に人の心はどう動くのか」「ご家族にどのように接すると良いのか」「そもそも死とは何か」ということについて、学ぶことはありません。私たちはどうしても技術に溺れがちで、命を救えたことに注目しがちですが、その影には救うことができずに亡くなられた方がおられます。したがって、死への向かい方を学ぶことも大切です。先ほどご紹介したハーバード大学では、毎日のように死について学ぶ授業がありました。しかも急性期医療の外科のトップの先生が、その講師を務めていました。
まず「現実の死」について。皆さんは、身内や患者さんの死を経験したことがあるのではないかと思います。まず「死」をイメージしてみてください。ここは病院の一室です。病床であるベッドで患者さんが亡くなったことを想像してみてください。そこには、顔を初めてみるような研修医が来たり、名前をおぼろげに覚えている看護師が来たりします。流れるように死亡確認が行われ、死亡宣告の時間が言い渡されます。病室内ですので、カーテンを仕切った横では、糞尿の臭いがしたり、子どもがいたりします。日本では、90%以上がこのような環境で看取られるのではないかと思います。しかし病院で勤務していた頃、私は「人の死は流れるように終わっていいのだろうか」と常に考えていました。
病院や葬式では、誰かが亡くなると、「〇〇さんかわいそうに、死んじゃったね」と言うことがあります。しかし赤ちゃんが生まれた時、「〇〇さん生まれちゃったね」とは言いません。私はこの「〜しちゃったね」というネガティブな表現を、人が亡くなった時に使うことが悲しいことではないかと思うのです。人は必ず死にます。ですから人生の終わりをネガティブな表現で扱うことがない、日本をそのような国にしたいと考えています。
では理想の死とは、どのようなものでしょうか。脳神経外科では、多い時は1週間で5人、時には毎日人が亡くなります。ときには若い人がなくなることもあります。このように多くの方の死に接していて、ある時理想の死の在り方がわからなくなってしまったことがあります。
少し話が飛躍します。日本のように孤立した島国で、特に宗教もまばらな国に、「生きるか死ぬか」というアメリカ式概念は、なかなかインストール(
導入)しても合わないのではないかと思っています。そこで古来の文化的なものが残っていて、経済的にも自立している民族はどこだろうと思った時、アフリカのマサイ族に行き着きました。ある時私は、観光地ではないところで、マサイ族と2週間ほど生活を一緒にしてみました。マサイ族は国立公園の中に住むことが許されていますが、その理由は彼らが肉食ではなく、主に家畜のミルクを含む草食だからで、彼らは公園内の動物を食べません。また彼らの生活の場のすぐ近くには、巨大な象の群れが来ることがあります。ある時、象の群の一頭が大きな音を立てて倒れました。8から10トンもある象ですから、周辺に地響きがしました。この象が倒れたところを見に行くと、おびただしい数のライオンやハイエナが群れて来ており、空を埋め尽くすほどのハゲタカが飛んできていました。正直私はこの光景を見て「怖い」と感じのですが、マサイ族の方の反応は違いました。「将太郎、違う」と。「この大きな象が亡くなり、動物たちに食べられることで、その命が多くの動物たちに受け継がれる。鳥が飛んでいくと、広い範囲で遠くまで命が運ばれる。大切な時間なので、しっかりと見なさい」と言われました。でも私は恐怖の方が勝ってしまい、しっかりと見ることはできませんでした。
それから5日ほどして、子どもの象が亡くなっていました。小さいですが1トンほどの体重です。私はまた動物たちが寄ってきて、食べていくのだろと思っていました。確かに動物や鳥たちは寄ってきましたが、今回動物たちは子象を突いては離れ、決して食べようとはしませんでした。どうして食べないのか不思議に思っていましたが、「おそらく先に亡くなった象は母親で、この象はその子どもで、母象が亡くなった後、病気になって死んでしまったのではないか」ということでした。つまり病気になった象の肉を食べると病気がうつってしまうので、他の動物たちは食べないということでした。「そういうことか」と思っていたら、マサイ族の方々が泣き出しました。「象が死んだのに、命が次につながらないことが辛いことだ」ということです。そこで彼らは子象を担いて運び、キャンプファイヤーのように火をおこし、子象を焼きました。そして同時に自分たちの家畜も焼いて、泣きながら食べたのです。そこにはいろんな世代の人たち、子どもたちもいましたが、子どもたちに命をつなぐという意味を教えていました。彼らにとっては、この象がいなくなることは、家族がいなくなることと同じであるということを、教えていたのです。死を見せないのではなく、あえて見せていました。それは、死が日々の日常の一部であるという考え方でした。子どもたちも共に、親子三世代、その時間と空間を一緒に共有していました。その時、「実はもともと日本でも、生きる死ぬというのは家族が一緒になり共有する、そのようにとらえられていたんじゃないか」と気づき、強い印象を受けました。
さて、ハーバード大学では300~400人ぐらいのいろんな方々が講堂に集まり、毎日ディベートをしていました。その内容が、答えのない「理想の死とは何か?」と言うテーマでした。そこにはアフリカの人もいるし、アメリカやイタリアなど、いろんな国や民族の人がいました。ある時の授業で、先生が「これが理想の死だよ」と言って出したのが、日本の畳のある部屋で亡くなった方の画像でした。そしてその画像には「畳の上で死ぬ」と書いてありました。私は衝撃を受けました。ハーバード大学のトップにいる先生が、畳の上で死ぬことを理想の死と言うとは、どういうことなんだろうと。これは単に畳の上で死ぬことだけを意味するのではなく、「亡くなった方を家族みんなで、しかも家で受け入れる。つまり日常のなかに亡くなった方を受け入れ、みんなが死を理解して、自分の人生の次に活かしていく。そのような考え方が根本的には日本にあって、それが大切なんだよ」と言うことでした。この話を聞いていたどの国の人たちも、この説明に納得していました。その場に日本人は私一人だけでしたので、「日本ではこのような考え方を一番大事にしているんだよね」と聞かれました。しかし、日本ではもう家族が一緒になって死についてとらえる、生活の一部として死を考えるという考え方は遠のいてしまっていますので、その質問に恥ずかしくて何も答えられなかったことを覚えています。そしてアメリカや他の国の人たちが、昔の日本が大事にしていた考え方を大切にしてくださるのに対して、日本人はそこから遠ざかっていることに危機感を感じ、何かそこに向き合うようなアプローチをしなければいけない、と思うようになりました。
ここで「死」について考えさせてください。
私は「死」を生きる方からアプローチするのが医療、死の向こう側からアプローチするのが宗教なのではないかと思っています。
日本ではなぜか死を点で捉えていて、亡くなった時間(瞬間)から先は宗教が関わってくる。その瞬間までは医療で、医者は病院で患者さんが死んだら、もうその後は診ません、と対応することに疑問を感じていました。私自身は、死はグラデーションがかかっているものではないかと思っています。これは昔の日本の考え方にもあっています。「死に目」という言葉があります。私たちは、死に目に会えなかったら、悲しむ方が多いと思います。病院の死亡宣告の時刻に立ち会えなかったりとか、心臓が止まった瞬間に立ち会えなかったりすると、「なぜこんな不幸をしたんだろう」と言う人たちを、ずっと疑問に思ってました。
私にとって「死」というのは、死を覚悟して死に向き合い始めてからが「死」で、亡くなってから、いろいろ家族がその方の話をしたり、その人との思い出が尾を引いたりするのも「死」だと思っています。「死に目」とは点ではなく、亡くなる瞬間を中心に、死に向き合い始めた時から亡くなられたあとまで、グラデーションがかかっているものです。このような考え方で、私は死に向き合い、患者さんにも家族にも接しています。私は、「何時何分に亡くなったという瞬間に立ち会えなくても、最後は落ち着いて亡くなってよかったね」とご家族にお話ししています。このようにお話しすることで、ご家族も「死んで終わり」ではなく、その後も亡くなった方との楽しい思い出を振り返る向き合い方ができるます。ぜひ皆さんもこのような形で死について考えていただけたらよいのではないかと思っています。
さて別れの言葉について、日本と海外の違いについてお話しします。英語では別れる時には”Good Bye”と言います。これは死別とは関係なく、人と別れる時は” Good Bye”と言います。この” Good Bye”の語源をご存知でしょうか?使ったこと、聞いたことがある人は多いと思いますが、” Good Bye”の語源を知っている人はあまりおられません。” Good Bye”は”God be with you”が語源です。これは、「神にあなたの無事を祈る」、つまり「私とあなただけではなく、第三者である神がいて、私たちの健康や安全を見守っていてください」との宗教観が表れています。これは理解できるのではないかと思います。
一方日本では「さようなら」と言います。この語源をご存知でしょうか?「さようなら」とは、「さよう で ある ならば」と言う接続詞です。これは「さようである」、つまり「そのようであります」と言う、現状をいったん納得して受け止め、そして次に進みましょう、というのが語源です。「さようなら」は別れの言葉のはずなのに、接続的な意味がある、このような言葉が別れの言葉に使われている国は、私の知る限り他にはありません。別れの言葉が、次につながっている。しかも理解しながら、と言うことです。
また私たち日本人は、「納得」することをとても大事にする民族だと思います。そして「はいそこで終りです」とか、「このポイントだけで考えて」と言うことに納得することが難しく、行間的な要素、人間や空間にもある「間」やこの「間」に存在するグラデーションを大切にする民族なのだと思います。色々とお話ししましたが、私はこれら全部を含めて「死のプロデュース」というものを、人生かけて取り組もうと思っています。
3. 仕事の本来の意義
私たちは医療を志した時、「自分の大切な人や周りの方を、自分たちの力で少しでも楽しくハッピーに、豊かに過ごせるような手助けをしたい」と思って始めたのではないかと思います。でも医療界はあまりにも忙しいので、医療イコール仕事になってしまい、以前とは少し違う考え方をするようになってしまったのではないかと思います。
ここで、仕事の本来の意義について考えてみたいと思います。
私たちは、とても大切な自分の時間を使って仕事をしていると思います。私たちは、生まれてから死ぬまでの時間の軸には逆らえません。もうひとつ、日本は資本主義ですので、資本の軸にも逆らえません。では仕事とは何か、というと一番大切なはずの時間をお金に交換するということ、これを私たちは仕事として捉えているのではないかと思います。私たちは生きるためにお金が必要ですから、「時間を切り売りして仕事をやらされている、仕事をやらなきゃいけない」ということではないかと思います。そのために、実は根底にある大事なこと、「本当にやりたかったことは何か」ということを忘れてしまっているのではないかと思います。
例えばみんなで一緒に病院でご飯を食べていると、「忙しすぎるよね、この忙しさでこの程度の給料かよ」とか、「いやいやこの時間に急患はないだろう」とか、いろんなことを言っています。その時に、私は「なぜ医療をやっているのか」について、自分で振り返るようにしていました。そしてある時、「私たちは生まれてから死ぬまでの時間軸は、どうしても取り払えない。では資本主義の資本の軸をなくしたらどうなるんだろう」と考えました。
また少し変わってると思うかもしれませんが、私はキューバに行ったことがあります。キューバはとても安全な国ですが、社会主義国です。社会主義の国では、どれだけ働いても全員給料は一緒です。お医者さんも警察官も絵描きもタクシー運転手も全員一緒です。そうなれば、通常人間は働かなくなるだろう、と考えると思います。でもキューバは、精神面も含めて、なぜかとても豊かな国です。そこで、その豊さの原因はどこにあるのか知りたくなり、キューバに行って、いろんな人になぜ仕事をしてるのか聞いて回りました。
ちなみにキューバでは、医療費は旅行者も含めて全員無料です。これはキューバで革命起こしたひとりであるチェ・ゲバラという方が医者だったので、医療費は全員無料にしたとのことです。それでも医療技術は結構進んでる国です。
大きな病院の救急の医師に、なぜ仕事をしてるのかお聞きしました。私と同じ脳神経外科医に、「なぜあなたはそんなに忙しく医療をやってるの?大変じゃない?しかもリスクも結構多いでしょう」と話をしたら、「いや、あなたはかわいそうだね、自分の価値がお金で計られて」と言われました。どういうことなのか改めて質問したところ、「私はこの時代にこの国に生まれてきて、この国の為とか、他の人のためにできることが、たまたま医療だったんです。手先が少し器用で、医療技術を学んで知識をつけられたから、私はそれを使っているだけなんです」と返答がありました。「あなたは自分の時間を仕事に捧げているんだね。あなたはそれを仕事って呼ぶんだね。だったらそれが仕事なんだと思うよ」とも言われました。
私がもともと医者になりたいと思った時は、自分の家族、おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなるときに、「自分だったら、このように向き合ってあげれたのに、最後の苦しみを取り除けられたのに」という思いが根底にあったはずなのに、あまりにも仕事に邁進していたために、その思いを見失っていたことを、その時に気づかされました。
でも例えば絵描きの人など、他の仕事では、そんな深い思いを持っている人はいないだろうと勝手に思い込んでいました。そこで、街中で絵を描いていた絵描きの人に話をしてみました。その方は、もともとキューバの銀行で働いていた人でした。キューバでは、みなさん給料は同じですが、地位のようなものがあり、銀行員は結構地位が高い職業だそうです。その方が趣味で、夕方5時以降に街中で絵を描いていたそうです。ある時中学3年生の女の子が、この方に対して「絵を頂戴」と言ってお金を出したそうです。この方は女の子に対し、「キューバはそんなに豊かな国ではないから、お金は出さなくてもいいよ。でも、なぜそんなに絵が欲しんだい?」と聞いたそうです。そうするとその女の子は、「私、実は学校でいじめられていたんです。けれど、学校から帰るときにあなたが絵を描いていて、そのキラキラした目とか、あなたの描いた絵を見て、明日も学校に来て頑張ろうと思えたんです。私、今日が卒業式なんだけど、あなたへの感謝の気持ちがあるから、あなたの絵をずっと手元に置いておきたいんです」と答えたそうです。その時にこの絵描きのお兄さんは、「僕が絵を描くことは、明日亡くなるかもしれない、自殺しようとする人の一歩を止める力があるかもしれない」と思うようになり、銀行を辞めて、絵描きを仕事にしたとのことでした。
この話をお聞きして、仕事はお金を稼ぐ手段ではなくて、自分の時間を使って人のためにできることをする、それが「仕事をしています」というのではないかと思いました。皆さんも毎日忙しく過ごしていると思います。そして例えば認知症の年配の方との会話が通じなかったり、わがまま言う患者さんがいたりすると、「なぜこんなことを言うんだよ」と思うことがよくあると思います。その時、「なぜ、私は時間を使ってこれをしてるのか」と、少し立ち返ってみてください。そして自分が医療を志した根底のところ、最初に芽吹いた思いを振り返り続ける必要があるのではないかと考えています。
4. 行動変容
少し話題を変え、行動変容についてお話をします。
私たちが人と付き合う時、あるいは患者さんと向き合う時、またチームメートとの話し合いの時などで、うまくいかない時やストレスを感じる時はどのような時でしょうか?自分の考えている通り、自分の思い通りにいかないときに、一番ストレスを感じるのではないかと思います。
私たちが感じるストレスは、自分の内部だけではなく、外部のことによるものが8割位を占めていると言われています。そもそも私が脳の中で考えている考えと、他人が脳の中で考えている考えは、全く別のものです。考えているものが別ですから、自分が言った通りに他の人が動くことは難しい。ではどのような時に、私たちはストレスを感じないのか。それは患者さんでも自分の家族でも、あるいは同僚でも、「こうして欲しいな」と言ったことを相手がしてくれる時ではないかと思います。もしそのような関係ができると、私たちは本当に幸せになるではないかと思います。
では、どうしてうまくいかないのか。
出来事が発生してから、行動を起こすまでのプロセスを考えてみました。ある出来事が起こった時、その出来事に遭遇した人のなかに、「ふっ」と思い浮かぶ感情(自動思考)があります。この感情は、その人のそれまでの経験など(スキーマ)が影響しています。例えばある仕事を頼まれた時、「あ、嫌だな」という感情が起きるとします。それは「昔同じ仕事を頼まれた時、嫌な経験をしたから嫌だ」と感じる、そのような状況です。その後続けて、「やりたくない、行きたくない」という感情が生まれ、「やらない、行かない」という行動につながります。
ところが、私たちは人に「〜してください」とお願いします。いわゆる”do”をお願いすることがあります。例えば患者さんに、「薬を飲んでください、飲まなきゃダメだよ」と言うことがあります。ただその時に患者さんの心のなかでは、「嫌だな」という自動思考が芽生えているわけです。さらにいうと、この自動思考に影響を与えた、患者さん個人の独特の経験やしがらみ(スキーマ)がある。私たちは、その深いところにまでアプローチをすることがないため、なかなか患者さんの行動につながっていないのが現状です。
私たちが日々やっている医療では、「〇〇さん血圧高いね。これは放置すると危険ですよ。脳卒中になりますよ、だから薬を飲まなきゃダメですよ」と言って薬を出します。ところが患者さんは次に受診した時に、「すみません、薬を飲むことができませんでした」と言われることがあります。これを聞いた医者は、「ダメだよ飲まないと。飲まないと、あと知らないよ」と言うことがあります。でも本当は患者さんが悪くなると、医者が困るわけではなく、患者さんが困るわけです。したがって、患者さん自身が、自分で「薬を飲まなきゃいけない」と考えることができるように、教育をする必要があるわけです。つまり、「すみません、薬を飲めませんでした。飲まないと自分の体に悪いので、自分のためにも次は絶対忘れないで飲むようにします」とか、あるいは逆に「前回1回忘れてしまいましたが、今回は忘れないで来れました」と話していただけるようにすることです。私はそのような考え方になっていただくために、「あなたの主治医は、私ではなく、あなたですよ」と言うようにしています。
このように相手の人に、自分の考え方を変え、動いてもらうようにするために必要となるのが、認知行動療法と呼ばれる方法です。聞いたことがある方もいらっしゃると思います。認知行動療法は精神科領域のもので、うつ病の患者さんが自殺しないようになるため、もしくは社会復帰するために使われていた精神的な療法です。
認知行動療法では認知、つまり「なぜ必要なのか」という、”think”のところを深く掘り下げます。「この人には、このようなことを考えてものを伝えると、行動が変わるでしょう」というところに注目する治療法です。日本でも認知行動療法という言葉を知っていて、実践しようとする方もおられますが、私がこれまでみてきた医師を含む医療従事者で、認知行動療法をうまくできている人をほとんど見たことがありません。皆、難しく考えすぎていると思います。
わかりやすくいうと、自分のなかの100ある思いのコアな部分である10%くらいのもの、この程度であれば相手は必ず拾えるでしょう、という程度のボールをコロコロと転がすようなものです。わかりやすく伝えてあげる。そうすると、100あるうちの10%程度しか通じていませんが、自分から相手に対しては、「自分の思いを受け取ってくれた」と感じ、相手は「取りやすいボールを取れた」と感じます。その結果、相手側からすると、「この人は私の気持ちを考えてくれて、この発言をしてくれているんだ」と考えるようになります。また自分側からすると、相手が思うように動いてくれる、そして相手側からすると、「この人は私ことを考えてくれてこの発言をし、行動してくれている」と感じ、良好な人間関係を築いていけるようになります。
これを実践するためには、コミュニケーションをとる時にワンクッション入れて考える癖をつけていただくのがいいと思っています。それは家庭でも、自分の会社やコミュニティ、また患者さんが相手でも同じです。例えば医療の現場でよくあることですが、「リスク」と「伝えたい想い」を天秤にかけることがあります。医療現場では、「絶対にできます、完全に100%〇〇できます」と絶対に言ってはいけないと習います。それは「医療では100%はないので、もしうまくいかなかったら訴訟になるから」というのが理由です。例えば手術をするときに、「手術の合併症の可能性は〇〇%です、感染症が発生するリスクは〇〇%です、傷が開く可能性が〇〇%です」と長々と説明をすることがあります。そしてその説明の後で、「手術を受けますか?」「でも手術は受けなきゃいけないですね、受けます」といった会話をしていると思います。
例えば私が比較的難しい手術、自分の経験からすると、まず100%大丈夫だろうと思う手術をすることを想定します。通常私たちは、そのような状況でも「〇〇の合併症のリスクが5%くらいある」などなど、延々に話をします。もちろん私も話をします。もしそれを話すことで、問題が生じる可能性が減るのであれば、私はずっと説明をします。しかしいくら説明しても、問題が生じる可能性が減ることはありません。そこで私は一通り合併症の説明を詳しくしますが、その後に、「私は100%この手術を成功させます。完全に大丈夫です。ただもし合併症があった場合は、一緒に向き合うようにさせていただきますので、その時はまた一緒に頑張りましょう」とお伝えさせていただいています。
実際患者さんは、いくら説明を受けても合併症のリスクが何%なのかなど、覚えていません。それよりも、「リスクがあることは分りました、でも任せていいですか」と、この最後の一言が言いたいのです。
その時に、私たちはなぜか「リスク」と「伝えたい想い」を天秤にかけてしまうので、信頼関係を築くことができなくなってしまいます。その状況で発言した1つの言葉が、「この医者はリスクを気にしているな、そのために色々と説明しているんだ」と感じられてしまうと、人間対人間で向き合いきれなくなってしまいます。リスクがあるのは当たり前です。そしてリスクに対して善処するのも当たり前です。でも私たちは医療職として、その時に「伝えたい想い」を絶対に忘れてはいけません。それは「リスク」と天秤にかけるのではなく、人間関係を築くことを優先すべきなのではないか、そのように思っています。
5. 高齢者・障がい者の本当の希望・期待は?
アジェンダの最後です。
私が、最初に病院以外で医療のことをするようになった会社の活動について、ご紹介します。
人が亡くなる、そのことを幸せな、ハッピーなものにしたいと思った時に、その前の段階にある高齢者や障害を持った方達が持っておられる本当の希望、やりたいことに向き合って対応しないと、最期の時を幸せに迎えることはできないのではないかと考え、色々と調べてみました。
高齢者や障害を持った方がやりたいことについては、いろんなアンケートがあります。例えば「老後にやってみたいこと」についてのアンケートでは、7割くらいの方が国内旅行や世界一周旅行を挙げておられます。この国内旅行は、お孫さんに会いに行く、墓参りをする、実家に帰るなどの旅行も含めた、すべての国内旅行です。
次に旅行の市場について調べた調査があります。60歳代くらいになると、多くの方が貯金もでき、時間の余裕もあるので、旅行に行くことができるようになっています。しかし70~80歳代になると、その数が40分の1まで減っています。これは70~80歳代の方々は、旅行には行きたいけれど、ほぼ行くことができていないという現状を表しています。一方高齢者に対し、お金を何に使いたいかと聞いた調査では、上位に健康と旅行が来ています。旅行に行きたい人はやはり多い。ではなぜ行けないのか。この疑問に対しては、どの調査を見ても「健康に不安があるから」と答える人が多くおられます。
「体に不安を抱えているために行けない、でも行きたい」というのであれば、それこそがやりたいことなのではないか、と考えました。
私たちは、日々の診療の現場で高齢の患者さんに出会います。在宅やリハビリでも同じかと思います。その方々が、スーパーに買い物に行ったり階段をのぼったりする練習をする、小豆を箸でつまむ練習をする、そのようなことを本当にやりたいのでしょうか?
私たちは患者さんに対し、「〇〇さん本当は何をしたいの」と聞くべきだと思います。でも実際に聞いたとして、「実はわたし旅行に行きたい。来月孫の成人式があって、遠いけど行きたい」と言われたら、「そうなんですね、いつか行けるといいですね」とか、「写真見て楽しもうね」とか、絶対に答えになっていない、的を外した回答をしているのではないかと思います。
私は、自分が関わっている方のしたいことが本当にできているのか、そのことを聞くことができているのか、常々疑問に思っていました。
例えば「半年後にお孫さんの結婚式がある」と言われたら、「じゃあ頑張ろう。結婚式に行こうよ。結婚式に行くことを目指して、ご飯食べないといけないね、スーパーまで行けるようにならないといけないよね、やりたくないけど階段を登ろうよ、運動をしようよ」と励ますべきだと思います。人は目標があると、頑張れるようになれます。
先ほど資本と時間の話をしましたが、私たちはなぜ時間を使ってお金を稼いでいるのか、それは何かにお金を使いたいからです。来年家族旅行に行きたい、何か買いたいものがある、など目標があってお金を稼いでいます。それが当たり前なのに、なぜか高齢の方には目標を与えずに行動させています。これは相当無理があると思います。
この辺りの課題の解決を全部医療の力を使って具現化するために、”Re・habilitation”という活動をしていますので、ご紹介します (https://re-habilitation.jp)。
「病院の中でのリハビリテーションは治すためのリハビリテーション。でも病院の外に出たら、楽しむためのリハビリテーション」
このような概念の転換が、これからの時代に必要になると思って始めた活動です。リハビリテーションの語源は、”Re”と”Habilitation”です。これは元の状態に戻るという意味ではなく、再び心地よい状態になるという意味です。大自然のなかで行う「里リハ」と街を楽しむ「街リハ」という2つの形態がありますが、いずれにしても楽しむためのリハビリテーションを実践するためのプロジェクトです。
私たちは、障害を持つ方の旅行の支援も行ってます。例えば脳梗塞後で片麻痺のある方が、杖をつきながら旅行される傍に、理学療法士が付き添っています。階段の昇り降り、旅館での入浴などでも、障害を持った方が助けを必要とするときに、専門的知識と技術を持つ医療スタッフが、すぐに介助できるような体制を作っています。また医師も何名かおり、医師が安心安全を確実に担保することで、自由に行動していただけるようにできること、これが最大の強みでもありす。そして、これは利用される方には何よりもの安心です。
外に出て、いろんな人といろんなところでリハビリをすると、ご本人の表情が全然違い、楽しんでおられることがわかります。これは対応するスタッフにとってもやりがいになっています。
ある利用者は、「自分一人では絶対にいけないところにも、みんなで行くことができる、これが最高。絶えず隣でサポートしてもらえることが、何よりもの安心です。リハビリをしている感覚は全くなくて、知らない間にリハビリをしている感じです」とおっしゃっていました。ご家族は、「いつも眉間にシワを寄せていた人が、旅行に行くことができて本当に優しい顔になった。皆さんのおかげで、今は本当に幸せです。ありがとうございます」とお礼を述べてくださいました。
明日からの一歩が踏み出せる、明日から楽しんで生きていこうと思っていただける、そのような場を提供させていただきたいと思っています。
既存のサービスでも、大手の旅行会社が介護ヘルパー付きの旅行を提供しています。しかしサポートの際、「身体に触れません」「車椅子は押しません」となっていて、サポートがついている意味があるのか疑問です。これでは本当に障害を持っている方や高齢の方は、やりたいことを叶えることができない。私たちは医師が24時間体制でサポートしています、旅行中に何かがあれば、また日本中のあらゆるところに、私たちの研修を受けた医療従事者がおられますので、どのような地域にも対応ができます。
この研修では、医療従事者の方達に、私たちが金沢に持っている山や民宿に、実際に障害を持った方と旅行に行っていただいています。そのなかで、具体的に行動面と精神面のサポートをしていただきます。具体的には、麻痺のある方が公共交通機関を利用される際のサポートや不整地、つまり階段の昇り降りを介助してもらいます。観光地を一緒に歩き、温泉へ入る際もサポートをしてもらいます。
病院内に止まらず、医療の可能性はいろんなところにありますので、その可能性を追求しています。
とは言っても、これまでにない医療の形を提供させていただいていますので、不安を感じたり、壁にぶち当たったりすることがよくあります。その時に私が大切にしている、励みになる言葉を最後にご紹介します。
これは、私が留学していたハーバード大学の研究室が入っている研究棟の壁に書かれていた言葉です。
その当時、この研究棟で働いていた人たちは、まだまだ若い学生たちでしたが、その人たちが、今はノーベル賞を取ったり、ある国の副大統領なったりしています。その当時はまだ芽がでていない人たちですが、その学生たちが壁に書きました。
「これは小さなプロジェクトではないよ。だって自分たちがやっているんだから」
私はこの言葉を励みに、様々なプロジェクトに取り組んでいます。以上になります。ありがとうございました。
Q & A
今後の予定につきましては下記リンクよりご確認ください。
医療職・介護職・福祉職の方であればどなたでもご参加いただけます。
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