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『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【10尾目】【11尾目】【12尾目】
【10】
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おい。
声に気づいて目を開くと、栗尾根の鼻先まで熊が大口を開けて迫っていた。
栗尾根はハンモックの上で、思わずのけ反った。
和尚が熊の毛皮を抱えて、栗尾根を見下ろしていた。
外の物干しに干してあった熊の毛皮だ。
クリーニングとブラッシングを経て、毛鉤の素材として店頭に並ぶ手前まで処理が進んでいた。
「人の寝床で何をしている?」
「すいません。気持ちがよくて、つい居眠りを……」
栗尾根はハンモックから降りた。
「これ、いいですね。うちにも欲しいな」
釧路署での大立ち回り。少々やりすぎた。
和尚の店で無人のハンモックを見て、緊張が解けたのだろう。どっと疲れが出て睡魔に襲われた。
「もう、閉店なんだが」
和尚が疑り深い目を栗尾根へ向けた。
「まあ、今日は開店もしてないが。何しに来た?」
「そろそろ例の調査結果が出るころかなと思って」
「あれから、まだ二日しか経っていないというのに」
和尚は呆れ顔で言った。
「早くも無償労働の催促かね」
「恐れ入ります」
じっと連絡を待っていたら、絶対忘れられそうなので勝手に来たのだった。二人は、和尚が淹れた紅茶を飲みながら話し始めた。
「で、わかりましたか?」
「カゲロウの尻尾は」紅茶をすすりながら和尚は言った。
「マングースだった。わかってみれば、何のことはない」
栗尾根はマングースの毛で毛鉤を巻いたことはないが、業界的には特に珍しい素材ではないようだ。
「あの手の毛鉤なら、おれはディアヘアーを使うがな」
「理由は?」
「エゾシカが好きだから」
「好みの問題ですか」
「素材は対象魚、釣り方、釣場の状況によって使い分けるものだが、最終的には趣味の、いや信念の問題だろうな。おれが鹿や熊の毛を好んで使うのは、その土地に棲んでいる鳥獣の毛で作った毛鉤が一番だと思っているからだ」
栗尾根が化学繊維をよく使うのは安いからだった。
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左・ディアヘアー(鹿の毛) 右・エルクヘアー(ヘラジカの毛)
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左・ブラウンベアー(ヒグマの毛) 右・フォックステール(キタキツネの尾)
「この毛鉤の作り手にも拘りはあるのだろう。見たところ、伝統的な天然素材で実戦的な毛鉤を作るタイプのようだ」
和尚が、預かっていた毛鉤を栗尾根に手渡した。
河原へ舞い降りてきたカゲロウは、優雅なプロポーションとは裏腹にヤマアラシとマングースの毛で武装した業物だった。
作り手は、防御と攻撃の両面に長けた兵だろうか。
銀英伝にたとえると芸術家提督メックリンガーのような。三国志なら……。
「毛鉤一個からわかるのは、このくらいだ。飽くまでおれの個人的な意見にすぎないので、そのつもりで。あと、これも言っておく。おれは警察、検察、裁判所、その他で証言する気は、まったくない」
「いや、大変参考になりました。ありがとうございます」
「待て」踵を返した栗尾根を、和尚が呼び止めた。
「これも、だ」和尚がもう一つの毛鉤を、栗尾根のてのひらへ落した
「これは」栗尾根は毛鉤を見て言った。
「そっくりだ。さすがはプロ。同じものを作ったんですね」
「おい、わざとらしいぞ」と和尚。
「今朝、毛皮を処理しようとして気づいた。ヒグマの鼻に、こいつが引っかかっていた。君がやったのだろう?」
あずましくない感じがMAXに達して、栗尾根は身震いした。
「何だ、ジムニー君ではないのか」和尚が首をひねる。
「では、昨日訪ねてきたあの男だな」
「和尚」
栗尾根はてのひらでペアになったカゲロウを見つめて言った。
「その話、詳しく聞かせてもらいましょうか」
何とも芝居がかったセリフだが、ほかに言葉が思いつかない。
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【11】
早朝の露天風呂からもうもうと湯気が立っていた。
湯気の向こうには、広大な湖面が広がり、その果てには湖の西岸から北岸にかけての山々がうっすらと見えた。
左手の森の中に小さく見える建物は、大手私鉄系のホテルだ。
栗尾根のジムニーは、屈斜路湖の東岸の岸際に掘られた無料露天風呂のそばに停められていた。
車中泊も三日目となると、体の節々が強張ってくる。
栗尾根は車から出て大きく伸びをすると、近隣の川湯温泉とは異なる泉質の肌に優しい湯で顔を洗った。
朝食代わりのデンプンせんべいをパリパリかじりながら、手帳を開いた。
これまでの情報を少し整理してから、本日の捜査を進めようと思った。
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まずは、濱口正夫。
釧路署から押収した所持品の中にスマホがあった。
濱口のスマホが見つからないのが気になっていたのだが、釧路署はその存在を、連絡係の山平にも告げずに隠していた。
捜査資料によれば、このスマホは廃線の脇に乗り捨てられていた濱口の車のダッシュボードから発見されたという。
栗尾根は、昨夜一晩かかってメールの履歴などをたどってみた。結論から言うと徒労だった。
内部ストレージの画像と動画、各種SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)、メール、メモ帳アプリなど、あちこち掘ってみたが、事件に繋がるようなものがまるでないのだ。
濱口の慎重さは本物だ。
スマホの中から、廃屋の写真と同じものが見つかると踏んでいたので、またしても肩透かしを食らってしまった。
このスマホを濱口は職場関係の連絡と動画サイトや音楽アプリの視聴に使っていたようだ。
濱口のアパートを調べた際、別のスマホやパソコン、タブレットの類は見あたらなかった。
証拠となるものを、すべて消去した可能性はあるが、どこかに、濱口が裏の顔で使っていた情報端末が隠してあるのかもしれない。
栗尾根も名を連ねている、例の名簿。
上から順に名前を検索してみた。
二名のSNSが引っかかった。
両名とも、釣師にありがちな魚と一緒の記念写真がネットに上がっていた。
名簿にある電話番号、メールアドレスに直接問い合わせれば何かわかるだろうが、自分も関係していると思うと、そこまで踏み切れなかった。
怪奇シマフクロウ男。
栗尾根は手帳に挟んであったスクラップブックの切れ端を開いた。
和尚に男の似顔絵を描いてもらったのだ。
この、白いスーツの唐揚げ魔人か、ポニョポニョした千とハヤオの動く城みたいな奴が、昨日店を訪れた男だった。
男は物珍しそうに店内を一通り見回したのち、和尚にこう言ったという。
「この店に、チク・ザンのバンブーロッドはありませんか?」
和尚は言葉を失った。
一言、「ありません」と答えるのがやっとだったという。
「何ですか? チク・ザンて」
栗尾根が訊くと、和尚は苦い顔で答えた。
「あまり言いたくないが、おれが昔作っていた竹竿だよ」
和尚は北海道へ移住する前、茨城県水戸市の工房で「CHIKU‐ZAN」と銘打って竹製のフライロッドを作っていたのだという。
竹竿の「竹」に苗字の屋山の「山」でチク・ザン。
竿作りは商売になりそうもないと、早々に足を洗ったとのこと。
「和尚って、バンブーロッドのビルダーだったの?」初耳だった。
「ていうか、前に竿の修理、頼みませんでしたか?」
以前、折れた竹竿の穂先を直せないかと相談して断られていた。
「おれが竿を作っていたのは、もう二十年も前の話だ」と和尚。
「しかも四本しか売れなかった、ヘボ竿師だった。あの男は、なぜそれを知っていたのか……ありえないことだ」
「で、その男はどうなったんですか?」
「気を取り直して、呼び止めようとしたときには、奴はもう店を出ていた」
「車は何に乗ってましたか?」
「店の前に、車はなかった」
特定されることを恐れて、どこか違う場所に停めたのだろうか。
「外に出て見回したが、もういなかった。風のような奴だ」
逃げ足が速い。
鉄橋でもあっという間に消えた。
和尚の話では「60代半ば」「身長180センチ」「がっちりした体型 胸板が厚い」「標準語のイントネーション 内地人(東京?)」「カントリー・ジェントルマン風の物腰」「ハリスツイードのジャケット(ヘリンボーン織り ※ニシンの骨)」とのことだ。
絵心はともかく、さすがは和尚。
動揺した割には、細かいところまでよく覚えている。
ただ背の高さについては、あてにならない。
小柄な和尚は、自分より大きい人間はみんな180センチに見えるようだ。
魚の大きさは、パッと見でミリ単位であてられるのに不思議なことだった。
濱口との関係はよくわからないが、この男に自分が目をつけられているのは間違いなさそうだ。
大変、気になるが、今はここまでだった。
廃墟、廃屋の写真。
これはもう、写真の建物を探し出すしかない。
とりあえず、足寄だ。
栗尾根は、手帳を閉じた。
ジムニーに乗り込むと、静かに発進させた。
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職人が作るバンブーロッド
【12】
前方で、交通誘導員が赤旗を振っていた。
栗尾根はアクセルから足を離し、エンジンブレーキを効かせて接近していった。
この工事は、間もなくやってくる冬に備えた防雪柵のメンテナンスのようだ。
停止位置の直前で、赤旗から白旗に切り替わった。
ジムニーは、作業員たちが並ぶ片側通行の工事現場をそろそろと抜けて、再加速していった。
阿寒横断道路(国道241号)から、まりも国道(国道240号)へ入り、再び足寄国道と名前の変わった国道241号へ合流。
畑地の中に家屋が点在する単調な風景の中を西へ進んでいった。
大人の背丈を越えるラワンブキで有名な足寄町螺湾をすぎて、右折。
道道621号を北上する。
真っすぐ進めば足寄町の中心街だったが、室田姉妹の話では濱口正夫を目撃したのは、ずっと北の陸別国道(国道242号)のほうだという。
足寄の森の中を飛ばす。
時折、視界が開けて、牧草地や畑が現れる以外はずっと森だ。
ここは東京二十三区が余裕で二つ入る日本で一番広い町。気がつけば、この20キロ余りで擦れ違った車両といえば、トラックが一台だけだ。
陸別国道へ出た。対向車が一気に増えた。
小さな集落を通り抜ける。
栗尾根は、牧草地のトラクターの出入り口でジムニーを方向転換。集落の中へ戻って、徐行した。
気になる建物が目についたのだ。
適当な空地へ車を停め、人気のない集落を歩く。官舎のような二軒繋がった平家の前に立った。
モルタルの壁にコウモリが潜めるほど深い亀裂のある長屋には、『キケン 立入禁止 KEEP ОUT キケン……』の文字が入った黄色いテープがぐるりと巻かれている。
栗尾根は、胸ポケットから写真を取り出し、目の前の建物と見比べた。錆だらけのトタン屋根と、一部レンガが使われているところなど、よく似ているが違った。周りの風景も異なっている。
長屋を離れ、集落の中を歩いた。
ドアや窓に板が打ちつけられた青い屋根の平屋の住宅がある。
傾いで崩れかけた二階建ての木造住宅がある。
店舗と住宅が一体化した建物には、『立入厳禁』の赤い札が貼られていた。看板が取り外されているが、元は食料品店か酒屋だろう。
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一口に廃墟と言っても、直近まで人が住んでいたものから、十年前、二十年前に捨てられたものまで、壊れ方、風化の具合も様々だ。
写真を片手に確認しながら歩いたが、同じ家はなかった。
栗尾根は車に戻って、エンジンをかけた。
その後も集落があれば、車を停めて廃屋がないかチェックした。
***
十勝川水系に架かる橋を渡った。
支流の、そのまた支流だが、水量はある。
川沿いにしばらく走ると、森の向こうに、色褪せた赤い屋根が見えた。栗尾根は、横道へハンドルを切った。
公道なのか私道なのか、よくわからない道だった。
道幅は狭く、対向車があれば待避所までバックするしかない。
路面は舗装されているものの傷みが激しい。室田姉妹が濱口正夫の車を見かけたのは砂利道だというから、ここではないのだろう。
と思ったら、アスファルトが途切れて、砂利に変わった。栗尾根はスピードを落として土埃の中を進んだ。
赤い屋根が近づいてきた。
細長いサイロの屋根だった。
あたりには一面、背の高い雑草が茂っている。
室田姉妹の話では濱口を目撃した道路のどん詰まりには、「農家みたいな家」があったとのことだから、だいたい合っている。
ブレーキを踏んだ。
農家の手前で、道路は柵で封鎖されていた。
栗尾根は路上に車を停め、柵の脇から雑草が伸び放題の敷地内へ入っていった。
母屋と牛舎。
サイロ。
それにかまぼこ型の倉庫「D型ハウス」が二棟。
離農してずいぶん経つようだ。奥の牧草地は深い草原と化している。
細長いトンネルのような牛舎に入ってみた。
蜘蛛の巣だらけの鉄柵の向こうに牛たちの姿はない。
じっと佇んでいるとコンクリートの床に染み込んだのどかな唸り声が蘇ってきそうだ。
D型ハウスの一棟は、雪の重みで凹んだのか屋根が歪んでいた。
中にはトラクターはなかったが、雪掻き用の「ママさんダンプ」が一台立てかけてあった。
サイロの中も見た。
一見灯台のような円筒形の建物は、干し草など牛の飼料の貯蔵庫。暗い内部にはすえた空気が詰まっていた。
サイロの底には、雨が吹き込んだのか、水が溜まっていて黒い藻のようなものが浮かんでいる。よく見ると、カブトムシや、ミヤマクワガタ、ノコギリクワガタなど甲虫類の死骸だ。
サイロを離れ、母屋のほうへ歩き出した。
母屋の横に、死角で見えなかった建物があった。先にそちらを調べた。
掘っ立て小屋というか、板張りのガレージといった感じだ。
扉は外れて、内側へ倒れている。中を覗くと、大鋸屑が山になっていた。牛の寝床に使っていたものだろう。牛舎の床にも大鋸屑が散らばっていた。
栗尾根は、大鋸屑小屋を離れ、母屋へ歩きかけた。
ふと立ち止まり、小屋の裏へ回り、全景がよく見えるように距離を置いた。
胸ポケットから、写真を取り出し、見比べた。
見つけた。これだ。
一枚の写真に同じものが写っている。
板張りのボロい一軒家に見えたものは、この大鋸屑小屋を裏から写したものだった。
写真には、母屋も牛舎もサイロも写っていない。小屋だけをアップで撮っており、これだけだと確かに平屋の家に見える。想像していた建物とサイズが違った。
もう一度、小屋の中をよく見た。多少は日が差し込むのか、大鋸屑の上にまばらに草が生えている。
灰色にくすんだ大鋸屑の色が若干新しい部分がある。掘り返された跡だ。
まさか、死体は埋まっていないとは思うが――。
栗尾根はあたりを見回し、そばに落ちていた扉の閂に使っていたらしいぼっこ(棒切れ)を拾い上げ、大鋸屑の山を崩し始めた。
山に刺した棒の先が、何かにあたった。
掘り起こすと、プチプチした梱包材に包まれた物体が出てきた。栗尾根は手袋をはめ、それを慎重に取り出した。
中身は、自転車でも有名な日本の釣具メーカーのスピニングリール。新品なら10万円近い高級品。
ほかにも、埋まっている。
大鋸屑の山を崩してなおも掘ると、釣り文明の遺跡のようにプチプチで包まれた竿やリールや小物が次々と出土した。
ざっと見積もっても30万円は下らない。まさに宝の山だった。
栗尾根は、バンダナをマスク代わりに口元へ縛りつけ、埃舞い散る小屋の中で発掘作業を続けた。
倒れていた扉を退けて、その下も探った。プチプチの切れ端が覗いている。
摘まんで引き抜くと、それは梱包材ではなくヘビの抜け殻だった。
下を掘ると、白い塊も出てきた。ゴルフボールを楕円形に潰したくらいの大きさの卵が5、6個くっついた卵塊だ。
卵が一つ、動いている。掘り出したショックで、今にも孵りそうだった。
じっと見ていると、殻が割れて滑りのあるヘビの頭が飛び出してきた。
やがて卵から、全長4、50センチもあるアオダイショウの子ヘビが現れた。
羽毛布団を圧縮袋に詰め込んだように、コンパクトにヘビが納まっている。
大自然の収納術に栗尾根は感心していた。
そのせいで、車のエンジン音に気づくのが遅れた。
小屋の陰から外を覗くと、ジムニーの後ろに黒い車が停まっている。
札幌ナンバーのトヨタ・アルファード。
ドアが開いて、三人出てきた。
男たちはジムニーの中をじろじろと覗いている。酪農の未来を担う青年団ではなさそうだ。
男たちは牛舎へ向かった。
「誰もいないぞ。そっちはどうだ?」
逃げるなら、今だ。
いや、令状を出して話を訊くべきだ。
逃げるか、訊くか。
どっちだ。
どっち。
「あ。いた、いた」
小屋の裏へ回りかけたところで、あっけなく見つかった。
「おい、待てよ。おまえだ、おまえ」
すぐに、二人が栗尾根の前まで、走り込んできた。
もう一人はゆっくり歩いてきた。こいつがデカい。190センチぐらいもあって、たっぷり太っている。
「おまえ、ここで何してるんだ?」一人が尋ねた。
笑顔が想像できない青年だった。顎に蓄えた短いヒゲとメッシュの入った髪がいい感じに悪そうだ。
「おまえ、マサオのビジパーだな」
「ビジ……?」
「おい、こらぁ。とぼけてんじゃねえぞ、こらぁ」悪そうな男が凄んだ。
「マサオのビジネスパートナーかって訊いてるんだ」
「難しい言葉を知っているな。『財界さっぽろ』で読んだのか?」
ピンチになると思わず軽口が出るのは悪い癖だった。
「何だと。おい、こらぁ」
悪そうな顔が一層悪くなった。
「おまえ、ふざけてんのか」
道東ではあまり見ない柄の悪さだ。
「あった、あった」
栗尾根の後ろに回りこんで、小屋を覗いていたもう一人が言った。
似顔絵が難しそうな、すぐに忘れそうな顔の男だった。
「ほら、見ろよ。あったぞ!」
忘れそうな顔をした男が、梱包された竿とリールを持ってきた。栗尾根が先ほど掘り出したものだ。
「マサオの野郎、こんなところに隠してたか……」悪そうな男が舌打ちした。
「君たちは札幌から来たのか? その釣具は盗品だな?」
「おまえ、マサオのビジパーじゃないのか?」
ビジネスに熱心な若者たちだ。
お陰で背景が見えてきた。
「なるほど。君たちが盗んだ品を濱口が持ち逃げしたわけか」
「こいつ、何者?」
忘れそうな顔の男は両手に竿とリールを持ったまま、栗尾根を不思議そうに眺めている。
「マサオの仲間じゃないの?」
「おまえ、なぜここを知っている?」と悪そうな男。
「てか、おまえ、誰?」
「申し遅れたが、わたしは保安官代理の栗尾根天士だ。質問に答えろ」
栗尾根はバッジをつけた胸を張って見せた。
「濱口正夫を殺したのは、君たちか?」
「保安官? ……何それ? 知ってるか? 何の代理だよ」
「知らねえ。クリオネがどうしたって?」
「マサオは勝手に橋から落ちたんだ」
ゆっくりと歩いてきて、その場に立ち尽くしていた男が言った。
そばで見ると、さらにデカい。
威圧感は十二分だが、動きは鈍そうだ。
「勝手に?」
「そうだよ。自分で落ちて溺れ死んだんだから、おれらのせいじゃないっしょ」デカい男は言った。
「だったら、あの偽装工作は何だ? おまえらが、濱口を追い詰めたんじゃないのか?」
「それはそうだけど」とデカい男。
「別に突き落としたわけじゃないから」
「ケンジ!」悪そうな男が険しい顔で言った。
「余計なこと言うなって」
「でも、この人、道警の人でしょ? 正直に言ったほうがよくない?」
「こんな警察いるわけねえべや」
悪そうな男が、栗尾根をにらみつけて凄んだ。
「あっ? 保安官だっ? おい、おまえ。アメリカ人でもないのに適当なこと言ってんじゃねえぞ。舐めてんのか、こらぁ」
悪そうな男のダウンジャケットの首筋から黒い鎌首がちろりと覗いて見えた。
コブラだ。こいつは胸に彫ったらしい。
「濱口の件が事故だったとしても、君たちには窃盗、盗品の売買などの疑いがある」
栗尾根は令状を取り出した。くしゃくしゃなので様にならないが、きれいに開いている暇はない。
「保安官代理として、君たちを逮捕する」
「何が逮捕するだ。ホラ吹いてんじゃねえぞ、こらぁ」
「おとなしく従いなさい。ブラック・ストーン・コブラの諸君」
「こいつ……」悪そうな男の顔が歪んだ。
ちょっと驚いたようだ。
「黒石毒蛇会を知ってるってことは……そうか、わかった。小樽だ。おまえ、小樽だな」
「小樽は、関係ないかな。わたしは、網走の保安官補だ」栗尾根は嘆息した。
「マサオに持ち逃げさせたのは、おまえだったのか……」
悪そうな男の鋭い目がぐわっと開いた。
「くそ。バックに小樽がいたのかよ……くそ」
若者とのコミュニケーションは難しい。
「くそ。マサオの野郎、小樽とビジネスしていやがった」
「網走だって言ってるのに……」
「そうか、この野郎。小樽か……畜生」
忘れそうな顔の男も、よほど小樽に恨みがあるのか危険ないい顔になってきた。
「くそ。舐めやがって。くそ。銭函ボブキャッツめ……許さねえ」
銭函は、小樽の地名だ。
ブラック・ストーン・コブラ改め黒石毒蛇会と、小樽の銭函ボブキャッツの関係が、最悪なことまでは理解した。
「おい。これを見ろ。保安官補の鑑札だ」
栗尾根は右手に鑑札、左手に令状を持って突きつけた。
「もう一度言うが、わたしは保安官代理だ。明治以来、北海道の治安は、道警と保安官事務所がだな……アメリカじゃなくてもいるんだぞ、保安官は。社会科で習わなかったか? 小学校でも中学校でも高校でもやったはずだぞ。思い出せ。道民なら必ず一度は聞いているはずだから」
「ケンジ。こいつ、ボブキャだ。やっちまうぞ」
悪そうな男が、じっと趨勢を見守っていたデカい男に呼びかけた。話の意味がわからず、ただ立っていただけかもしれない。
「おう。わかった」
ケンジと呼ばれたデカい男が、両手を広げて近寄ってくる。
「おい。君たち、いいのか? 本物の令状だぞ、これ」
栗尾根は令状を持ったまま、じりじりとあとずさった。
「わかってるよな? 保安官補に手なんか出したらどうなるか……くそ、わかってないのか」
悪そうな男がデニムの腰から、何か抜き出した。
赤い警棒。
いや、赤い金属バットだ。
全長三、四十センチほどで、子供用よりまだ短いおもちゃのような金属バットだ。
「それも、盗んだのか? 君たち、それが何だか知ってるのか?」
「うるせえんだよ。おまえも川に沈めるぞ、こらぁ」
これは、釣具だ。
サケバットと言って、釣り上げたサケが暴れないように頭を叩いておとなしくさせる道具だった。もちろんサケ以外もおとなしくさせることができる。
「しつこいようだが、わたしは保安官代理だ。保安官への暴行は重罪だ。初犯でも懲役。罰金ではすまんぞ。傷害罪だと最低五年……」
走り出した青春に法の盾は効かないようだ。危険なドラマの始まりらしい。
「テッペイ。そっちだ。逃がすなよ」
テッペイと呼ばれた忘れそうな顔の男が、左手に回り込んできた。
栗尾根は若者たちに囲まれた。
「参ったね。やるしかないのかい。こんなときに何だけど、一分だけいいかな? ちょっと気になったんだが……」
十分に間を持たせながら、栗尾根はウィンドブレーカーのポケットのジッパーを引き下げ、手を突っ込んだ。
「君たちのライバル団体、小樽の銭函ボブキャッツだっけ? たぶん、テレビドラマ『木更津キャッツアイ』からのインスパイアだと思うが、君たちは何だろう? 黒石毒蛇会か……もしかして黒石は白石、札幌市白石区が本拠地だとか? おっ、その顔はアタリか! 白い石、ホワイト・ストーンじゃ、いい人っぽくて、ちょっと締まらないものな。それで黒い石、ブラック・ストーンか。意外とセンスがあるじゃないか、君たち」
「ふざけてんじゃねえぞ、こらぁ」
「ふざけてはいないよ。真面目に分析してるんだ」栗尾根は続けた。
「すると毒蛇会は、コブラ会からだろうか。だとしたら、君たち、本当にセンスがいいね」
「おい、テッペイ、ケンジ。突っ立てないで、いいからやっちまえ」
栗尾根のよくわからない話で、動きが止まっていた二人に、悪そうな男が檄を飛ばす。
「そちらはテッペイ君とケンジ君か。覚えておこう。で、君は、何君だ?」栗尾根は話し続けた。
「コブラ会のリーダー格だから、ド根性ノ助君かな? あれ、知らないの? 大阪でコブラ会という名前の総合格闘技の道場を主宰している人なんだけど……」
「何度も何度もふざけてんじゃねえぞ、こらぁ」
「現役時代は軽量級のファイターで修斗やDEEP、PRIDE武士道、アメリカのUFCでも活躍したよ。プロレスラーとしてUのリングにも上がった。得意技はコブラ固め。入場テーマ曲が『福岡市ゴジラ』。参ったな。知らないのかよ。三島☆ド根性ノ助を……」
栗尾根は、東京での探偵時代、ある格闘家の身辺調査を依頼されたことがあり、多少その世界に詳しいのだった。
「それじゃまさかとは思うが、映画『ベスト・キッド』に出てくる極悪空手道場からのインスパイア?」
「舐めてんのか、こらぁ。わけわかんねえことえんえんと言ってんじゃねえぞ、こらぁ」
「それはないか。何しろわたしも生まれる前の作品だからな。君たちが知ってるわけがない」
この時点で、『ベスト・キッド』の三十四年後を描いた続編『Cobra Kai』が公開されることは、まだ誰も知らなかった。
栗尾根は、ポケットから右手を出した。
「では、そんな札幌市白石区コブラ会の諸君に、プレゼントだ」
ほいっ、とアンダースローで投げつけた。
「うわっ」悪そうな男が仰け反った。
ぴょんぴょんと器用に後ろ向きに跳び退いていった。運動神経はかなりいいようだ。
「テッペイ君。わかるかい? ほら、これはニホンマムシだ。噛まれるとヤバいぞ」
栗尾根はポケットからもう一匹、アオダイショウの子を引っ張り出した。ポケットで温めておいた卵塊から、子ヘビが続々と誕生している。
「わたしは抗血清を射っているから平気だが、君らはただではすまないぞ。ほらほら。毒蛇会がヘビの毒でお陀仏なんて格好悪いぞ。ほら」
「おい、や、やめれ(ろ)……危ねえから、やめれ(ろ)って」
「ほらほらほら」
栗尾根は、生まれたての子ヘビの尻尾を摘まんで、テッペイの前でブラブラさせた。
「ほらほら」
「やべぇって、やめれっ。やべぇって……」
粋がっていても所詮は札幌の都会っ子。ゴムホースの切れ端でも飛び上がって逃げるだろう。
「そら、行くぞ。ほいっ」
「やめっ……」
テッペイは仰け反りすぎて、尻もちをついていた。
栗尾根は、ダッシュした。
スピードに自信はないが、スタミナはある。
ジムニーは後ろにつけられたアルファードのせいで出せない。ならば、このまま農道を突っ切って、国道まで走るのみ。
「ケンジ!」
悪そうな男の声が飛ぶ。
「そいつを、逃がすな」
「おう。わかった」
農道の手前にはゴールキーパーのようにデカいケンジが立っていた。
栗尾根はポケットから残りのヘビを卵塊ごとワシ掴みにして、巨体へ向かって思い切り投げつけようとした。
その瞬間、何かが心をよぎった。
拳の中でうごめいている、これはヘビだ。生きものだ。
こんなときに、動物愛護の精神を思い出してしまった。
子ヘビたちが、放物線を描いて、ケンジの足元へ、ぱらぱらぱらっと着地していた。速球を待っていた打者なら、空振りは必至のスローボールだった。
ケンジは首をすくめただけであまり驚かない。
「これ、アオダイショウのこっこ(子供)だべや」
ケンジがSの字を描いて草むらへ消えていく子ヘビたちを見ながら言った。
「マムシはもっとマムシみたいに胴が太くて頭がマムシっぽい」
「ケンジ。いいから、捕まえろ」
「おう」
ケンジが長い腕を栗尾根に向かって伸ばしてきた。
もうこの勢いのまま逃げ切るしかない。
栗尾根は内野手のタッチを避けるように体を傾けながら、ケンジの横を走り抜けた。
しかし、左腕にビーンっと衝撃が来て、引き戻された。袖を掴まれてしまった。
栗尾根はその反動を利用して、ケンジの懐へ飛び込むように巨体の脇の下へ右フックを打ち込んだ。
効いた。巨体が、怯んだ。
デカい相手は顔なんか狙わず、ここ打ちなさい、ここ。
東京時代、高田馬場の飲み屋で会った護身術の達人と称する人から聞いた話だ。
脇の下は皮下脂肪も薄く鍛えようがない。パンチ力が足りなくても相手の心肺機能にダイレクトに衝撃が伝わりダメージを与えられるというのだが、やってみるものだ。
栗尾根はケンジの腕を振り解き、走り去ろうとした。ところが、その腕が解けない。ケンジの握力が恐ろしく強いのだ。
「よし。絶対、逃がすんじゃねえぞ」
しゃにむに腕を引き抜こうともがいていると、後頭部が、コンっと鳴った。
カンっ、と脳天にもう一発。
感触と音からいって、あのサケバットに違いない。
「もういい、わかった、わかったから、それくらいにしておくんだ……」
そう訴える栗尾根の頭のどこかがまた、ゴーンっと鳴った。
額が何かに、ジャジャっとぶつかった。
感触と音からいって、砂利道に頭から倒れ込んだようだ。
【13尾目】【14尾目】【15尾目】【16尾目】