『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【17尾目】【18尾目】
【17】
「元プロレスラー⁉」山平巡査部長が言った。
「あの保安官が、ですか?」
「超マイナーなインディーズ団体の、ですが。昔の試合がネットに上がっていますよ」栗尾根は言った。
「見ないほうがいいかも。くそつまんないんですよ」
「どうりで大きいわけだ」山平は感心しきりだった。
「只者ではないとは思っていましたが、まさかプロレス出身とはなあ」
プロレス年鑑によると、三崎浦蓮一郎のレスラー時代のリングネームは、善玉の覆面レスラー「道道・ニ・シン」と悪役「ニトリ・ボルコフ」の二種がある。
得意技の「お値段以上ヒグマの抱き枕」は、ベアハッグのこと。ケンジを悶絶させたあの技だ。ほかに「布団も干せるネック・ハンギング・ツリー」という技もあるようだ。
「そりゃ、強いわけだ。うちの署にも、柔道や剣道の猛者がおりますが、プロレスラーには敵わないものなあ」
1960年代生まれの山平は、昭和のプロレス黄金時代を知っているようだ。ブルース・リーと極真空手、それにプロレス。この世代が過大評価しがちなものである。
「しかし、いい雰囲気ですな。わたしは初めてですよ、こんな洒落た店は……」
山平は赤ワインのグラスに口をつけると、うっとりとした表情で店内を見回して言った。
昼はイタリアンレストラン。
夜は予約制のバル。
マスターがDIYで組み上げたという山小屋風の料理店だった。
丸太を切り抜いた四角い窓に、山平の顔がぼんやりと映っている。窓の向こうは今、深い闇に包まれていた。
日中ならこの窓から青い釧路川が見えた。
屈斜路湖から流れ出して、約10キロの地点。広大な釧路湿原を蛇行する大河の趣きはまだなく、釧路川は森の中をゆるゆると流れる清流だった。
今夜は、貸し切り。
慰労と情報交換を兼ねて、栗尾根が自腹で席を予約した。
警察関係者がうようよしている街中では山平も落ちつかないだろうと、ここまで連れ出したのだ。
「取り調べのほうはどうですか。進んでますか」
「土田賢次は、割としゃべってますな。ほかの三名は、相変わらず、はぐらかしたり、だんまりを決め込んだりですが」
「ケンジ。あのデカい奴ですね」
「ナイスファイト! 保安官によろしく、とのことです。どこか抜けているというか、憎めないというか……あ、こりゃ、どうも」
栗尾根は、山平の空いたグラスにワインを注いだ。
逮捕した四名と押収した釣具など証拠品はすべて、道警に渡していた。
実際問題として、小さな保安官事務所の手に余る事件だった。公判を維持するための煩雑な作業を、保安官が嫌ったためでもある。
「黒石毒蛇会。ご推察のとおり、札幌の白石区のグループですな。盗品専門の転売屋といったところでしょうか。逮捕された奴らは主に販売と商品管理を担当していたようです。ほかに車上荒らしの実動部隊もいるようですから、思ったよりデカい山ですよ、こいつは」
栗尾根が濱口の部屋で入手した名簿も警察に渡していた。調べでは、黒石毒蛇会がネットに出品した盗品の購入者リストだということだ。
濱口はおそらく、持ち逃げした盗品を顧客との直接取引でさばこうとしていたのではないか。ビジネスを始める前に、本人死亡のため未遂に終わったようだが。
「旭川の件はお詫びしなければいけませんな」山平が頭を掻いた。
「署内に情報を止めていた人がいましたわ。まあ、佐と木のつく人ですが」
一月前、旭川署に不審車両の通報があった。
黒いトヨタ・アルファードが市内のレンタル収納庫の周辺をうろついているというものだった。栗尾根がナンバーを照会してもらったあの車だ。
濱口正夫は、持ち逃げした盗品をしばらくその収納庫に隠していた。毒蛇会が旭川までやって来たときには一足早く荷物を運び出したあとだった。
新たな隠し場所は、近隣の廃墟、廃屋。様子を見に出かけたところを発見され、濱口は追い詰められてしまった。
悪そうな顔のリーダーが持っていた濱口の二台目のスマホに、栗尾根が川湯温泉の寮から押収した写真と同じ廃墟の画像が入っていた。
「濱口は、やはり事故死ですか」栗尾根はノンアルコールビールに口をつけた。
「だとしても、リーダー格の粟村元也と望月哲平が凶器を持って追いかけていますから、濱口が勝手に橋から落ちた、という話ではすまないでしょうな。傷害致死の線もありますし、保護責任者遺棄致死罪なら三年以上二十年以下の懲役となります」
「bsc」黒石毒蛇会と抗争中の小樽のグループ「ZB」こと銭函ボブキャッツも捜査線上に浮かんでいた。
札幌にはほかに、北区を縄張りとする「G/S」臥龍/篠路という別のグループがあるという。
鷹見祥太は臥龍/篠路の所属で、盗難車のアルファードもそのグループから提供されたものだった。いわゆるビジネスパートナーという奴だ。
鷹見は、調書を取る警官に「/忘れてんじゃねえぞ、こらぁ。ちゃんとつけれ(ろ)、こらぁ」と何度も念を押したという。「/」は、重要らしい。
「毒蛇に臥龍、ボブキャッツは山猫ですか……道央のストリートカルチャーはどうなっているんですかね。今どき釧路にもあんなダサい若者はいませんよ」
山平はワイングラスに鼻を突っ込んで、うっとりと香りを嗅いでいる。
「盗品のほうは、どうでしょう」栗尾根はビールグラスに上る泡を見つめて言った。
「元の持ち主は判明しそうですか」
「まあ、これからです。買った人は、盗品とは知らずに購入したわけですから、民法上の『善意の第三者』ですな。盗難から二年以内なら、元の持ち主に返還しなければなりません。この場合、代金は元の持ち主が改めて支払うことになるのですが、何ともすっきりしない話ですよ」
「愛着のある竿やリールが返って来るだけまし、ということですか」
「押収した釣具のうちシリアルナンバーが打ってあるものは、判明しやすいでしょう。すでに売り払ってしまったものについては、購買者と連絡を取って個別に対応していくしかないですな。あとは盗難届をチェックし直したり、持ち主が名乗り出るのを待つ、くらいですかね」
窃盗団が釣具の車上荒らしに目をつけたのは、釣人たちの脇の甘さゆえと言えるかもしれない。
釣人は人気のない山奥や湖畔に車を置いて、丸一日戻って来ない。しかも釣場で使用する道具以外は、車の中に置いたままだ。
特に道外からやって来る釣人は、上等なカモだった。高価な釣具を背負って渡ってくる彼らは、毒蛇や山猫にとって栄養たっぷりの獲物なのだろう。
ようやく本気を出した道警の捜査によって、これまで実態の掴めなかった組織的な車上荒らしの全貌が明らかになるはずだ。
栗尾根は山平のグラスにワインを注いだ。
「すいませんね。わたしだけ、いい気分で」と山平。
「どうか、お気にせずに。酒と食事を楽しんでください」
この店でランチは何度か食べていたが、夜は初めてだ。
闇の中を滔々と流れる釧路川の瀬音を聞きながら、自分も一杯やりたいところだが、今夜は山平を阿寒の街まで送っていかなければならない。
「これも見る人によっては、保安官事務所と警察の癒着になるんでしょうな」と笑う山平。
「いいこと聞いた。釧路新聞と北方ジャーナルにチクってやろうかな」
いつの間にか山平の背後に立っていた店員が言った。
山平の笑顔が、苦笑いに変わった。
「あのさ。釣具泥棒より無意味な交通違反の取り締まり、あれどうにかならないの」
店員がテーブルへ料理を置きながら言った。マダコのカルパッチョと、ツブ貝のガーリックソテー。食材はすべて地元産だ。
「でっかいカヌーとか積んでるとさ、坂道の手前で踏み込まないと上れない坂ってあるんだよ。そこで待ち伏せとか、やめてくれる?」
「おいしいワインですね。ほう、『葡萄色の旦』。これ、何て読むんだろう? ぶどう、いろの、たん?」
山平がワインのボトルを見ながらとぼけた調子でつぶやいた。
ワインは、地元の農園で育てた山葡萄の系統の品種から醸造したものだった。特産品にしようと自治体が力を入れているらしいのだが、栗尾根はまだ飲めていない。
「ほえー、これで『えびいろのよあけ』と読むんですか。こりゃまた洒落たネーミングだ」
「臭い芝居でごまかしてんじゃねえよ、道警」
「いや、貴重なご意見ありがとうございます。しかし、道路行政についてのご不満でしたら、現場の警察官ではなく、国土交通省か北海道庁、または管轄の市町村のほうへお願いしたいのですが……」
そこへもう一人の店員が料理を運んで来た。
「ムール貝のワイン蒸しと、摩周ポークのスペアリブ・バルサミコソースです」店員が言った。
「蘭。やめなよ。お客様だよ」
ふてぶてしいツラと柔和な営業スマイルの違いはあるが、同じ顔が二つ並んでいる。
「でも、こいつら、道警と保安官補じゃん。あたしたちの税金で食ってる奴らだよ。こういう機会に一言、言ってやらないと」
室田姉妹は昼はネイチャーガイド、夜はこの店でアルバイトをしていた。将来的に道東の森でカフェの経営を考えていて勉強中らしい。
「濱口さんは自動車泥棒だって、あたしの言ったとおりだったっしょ」
蘭は接客を忘れて、テーブルについてしまっている。
「あの情報、役に立ったんだから、こっちにもお礼してよね」
「まあ、そのうちに」と栗尾根。
「じゃあ、この情報は知ってる?」と蘭。
「何だよ」
「保安官の秘密。いくら出す? クリオネ~」蘭が両手をパタパタさせた。
「早く言えよ」
「保安官、天然パーマって言ってるけど、この間、きっついロッド巻いてるの見た」蘭が得意げに言った。
「その情報、どうでもいい」
「そういや、栗尾根さんがC川の鉄橋で見たというフクロウ男ですが、札幌や小樽の奴らでないとすると誰なんでしょう?」山平が言った。
「通りすがりの鉄橋マニアだったんでしょうかね。あれが、まだ謎のままですな」
「そうですね」
「それから、石投げ地蔵。いや、ジジイでしたか。栗尾根さんは会っていないんですよね。石投げジジイさんには」
「ええ。目が覚めたときはもう去ったあとでした」
「謎ですな。また、通りすがりの銭形平次だったんでしょうかね」
栗尾根が気絶している間に、毒蛇会に石をぶつけて撃退してしまった謎の人物。
ケンジこと土田賢次の供述によれば、どこからともなく現れて、見事なコントロールで次々とメンバーの顔面や急所に石を命中させたという。何となく年寄りに見えたので「ジジイ」と呼んでいたが容姿ははっきり覚えていないようだ。
どこか幻のようなところが、フクロウ男と似ていると言えば似ていた。
「あとは、保安官へ通報した人も正体不明でしたか。みんな同じ人物なのか、別人なのか。いずれにしろわれわれ以外にこの事件を追っていた人間がいるってことですわ」
「そうなりますね」
「目的も不明です。栗尾根さんに張りついて、まるでボディーガードみたいな真似をして……」
山平が、栗尾根の目を覗き込んだ。
「栗尾根さん、本当に心あたりはないんですか?」
栗尾根は首を振った。和尚の店を訪れた男については話していなかった。
「例えば、探偵時代の知り合いで何か思いあたる人物とか……」
探偵仲間から仕事を回してもらったり、少額の借金に応じてもらったりはあったが、恩を売ったり、恨みを買った覚えもなかった。そもそも実績と呼べるものが乏しいのだ。
「あたしの勘だと、そいつは秘密組織のエージェントだね」蘭が言った。
「裏・保安官事務所。絶滅危惧種になった保安官の復活を目的とした秘密の団体」
「ほう、それはおもしろい」
山平が目をきらきらと輝かせた。
「大胆な発想ですな」
「栗尾根って、半グレに頭ぶっ叩かれて気を失ってたんでしょう? その間に記憶を操作されたのかもしれないね。エージェントの顔を覚えてないのはそのせいだよ」と蘭。
「異星人に拉致された人ってだいたいあとから、でっかいフクロウを見たって言うんだって。ほら、フクロウ男。そっくりじゃん」
「その裏なんとかには異星人も一枚噛んでいるのか。宇宙規模の陰謀だな」
栗尾根は横目で蘭をにらんだ。
「君さ、話に加わるのは構わないが、真面目に考えてくれないかな」
「いや、おもしろいです」と山平。
「秘密組織じゃなくても、開拓時代の保安官に郷愁を感じて保安官制度の再興を願っている道民もいますからね。だいたい警察がこの体たらくでは……いや、わたしが言うことではありませんな。失言でした」
「じゃあ、あたしの考えね。つまりさ、栗尾根みたいな元探偵とかいうわけわかんない奴が保安官補に採用されちゃったんで、組織としては要注意人物、要監視対象にしていたわけ。もしかすると、敵対する反保安官団体が送り込んきたスパイかもしれないし」
「ほう」と山平。
「ますますおもしろい」
「つまんないですよ」と栗尾根。
「低予算のB級サスペンスかよ」
「栗尾根が、仕事サボって釣りばかりしているうちはよかったの。でも何を思ったか、急に正義感に目覚めちゃって、半グレ集団と戦い始めたから組織は大慌て。ここでもし保安官補が間抜けな死に方でもしたら保安官復活プロジェクトがおじゃんになりかねない。それで、腕利きのエージェントがシークレットサービスになったってわけ」
「まるでVIP待遇だな。わたしも偉くなったもんだ」栗尾根は呆れた声で言った。
「すると、栗尾根さんは今もどこからか、その秘密組織に監視されているわけですな」山平が嬉しそうに言った。
「これは、おもしろい。双子の女性工作員が見張ってたりしてね」
「山平さん……」
「凛凛蘭蘭の、恋のカナディアンカヌーってね」
「何だそれ。おだってんじゃねえよ、道警」
おだつは、北海道弁で「調子に乗る」だ。
蘭はとにかく口が悪い。誰に対してもだ。地下アイドル時代も下手なキャラ作りなどせず素のままでやっていれば、また違った展開になっていたかもしれない。
「ちょっと、まだ営業中だよ」
姉の凛もこちらへやって来た。仕事そっちのけで盛り上がっている妹をたしなめた。
「いいじゃん。お客は、ここだけでしょ。ねえ、どう思う? 栗尾根がコードネーム・フクロウ男に追われているのよ」
「フクロウ男?」凛が首を傾げた。
「何の話?」
戸惑いながら、凛も話に入ってきた。
「それはフクロウ男さんじゃなくて、本物のフクロウだったのかもしれませんね。あの辺の森なら、シマフクロウやエゾフクロウがいてもおかしくないですから」と凛。
「ネコやエゾリスなんかも遠目だとシルエットで見間違いそうですね。小型哺乳類の耳ってシマフクロウの羽角に似てますから」
「凛。マジメか」と蘭。
「そんな話はいいの。問題は、謎の組織がなぜ栗尾根みたいな奴をわざわざ助けるのかってこと。一体この薄汚れた男にどんな価値が……」
蘭は、どうしても陰謀論に持っていきたいようだ。
「秘密の組織は、たぶんないと思いますけど」
凛が山平の空いたグラスにワインを注ぎながら言った。
「おっと、これはどうもすいません」と山平。
「すると、お姉さんは陰謀否定派ですか」
「わたしだったらもっとシンプルに考えて、栗尾根さんにストーカーがついているんじゃないかと思います」
「それってストーカーなの?」と蘭。
「体張って栗尾根を助けてるんだよ。そんなストーカー、いる?」
「まあ確かに、勇敢で親切なストーカーですな」
「訂正します。ストーカーじゃなくて、正義のボランティア活動家というのはどうでしょう」凛が微笑んだ。
「つまり、ヒーローですな」山平が笑った。
「これで事件は解決だ。多少謎は残りますが、警察としては正義の味方を捕まえるわけにもいきません」
「でもさ」蘭が片方の眉毛を釣り上げて言った。
「栗尾根、危なかったっしょ。もし保安官が駆けつけなかったら、どうなっていたと思ってんの? 半グレ集団にボコボコにされてたんじゃないの。半殺しじゃすまなかったかもよ」
「同感ですよ」山平が警官の顔に戻っていた。
「こんな怪我をされたのに、また一人で向かっていくなんて、あまりに無謀です」
「本当、危ない。一歩間違えたら、濱口さんのようになっていたかもしれないんですから」
凛も眉毛をハの字にして訴えた。
実際、危なかった。
通報を受けた三崎浦保安官が素早く道警北見方面本部と連絡を取り、栗尾根のスマホのGPSを調べて正確な位置を割り出したのは、上出来と言うしかなかった。
最近は知床のヒグマもGPS発信機で管理されているので、保安官にとっては野獣駆除活動の延長だったのかもしれないが。
「反省しています」栗尾根は頭を下げた。
栗尾根の頭の包帯はすでに取られ、額のカットバンのみとなっていた。
メーカーは関係なく絆創膏をなぜ、自分は「カットバン」と呼ぶのか栗尾根は知らなかった。周囲には、「サビオ」とか「バンドエイド」と呼ぶ奴もいたが栗尾根はカットバン派だった。同じくカットバンと呼んでいた祖父の影響なのだろうか。
「釣場で思いがけず事件に出くわして、舞い上がってしまいました。あと先を考えずに突っ走って、関係各位には大変ご迷惑をおかけしました。すいませんでした」
父は北海道の地方公務員だが、祖父は何をやっているのかわからない人だった。昭和初期、宮城県から北海道へ移住してきた祖父は若いころ、遊び人の博奕打ちだったという話だ。冗談かもしれないが、確かにそんな雰囲気はあった。
あまり似ていない祖父と父と自分。
共通点は、釣り。
普段は几帳面で退屈な父も、釣りのときは拘りと執着を見せてちょっとおもしろい人になっていた。
たかが魚を釣るために無茶をやらかす釣人は多い。
深場で溺れたり、岩から落ちたり、熊に襲われたり……魚のために命を危険にさらすなど馬鹿げている。釣りキチ、釣りバカとは、よく言ったものだ。
そして自分は、探偵バカでもあった。
釣師と探偵はよく似ている。
ターゲットを調べ上げ、追跡し、尾びれ(尻尾)を出すまでひたすら待つ。対象の生活環境の中へ潜入し、釣竿や七つ道具で探りを入れる。
違いは、釣師は基本1人だが、探偵はたいていチームで動く。あとは依頼者がいるか、いないか。それくらいか。
だから、一流の釣師なら、一流の探偵になれるはずなのだ。
探偵稼業に見切りをつけ地元へ帰ってきた。パソコンが多少使えることと、パッとしない探偵経験が評価され保安官事務所に就職。
保安官補と言えば、大層なお役目のように聞こえるが、要は事務員だった。
書類作成と電話番の日々に鬱屈としていたのも事実。
最近、あまり釣れていなかったことも関係しているかもしれない。
「栗尾根は、そのボランティア野郎に感謝状でも出して礼を言うべきだね」と蘭。
「裏・保安官事務所は表の世界には絶対出ないと思うけどさ」
「妹さんは秘密組織がお好きですな」
「でも本当に理由があって、表に出られないのかもしれませんね」と凛。
「例えば、何か別の事件に関係しているとかで」
「おもしろい。それはいい視点です。つまりフクロウ男は、別件の指名手配被疑者なので、闇に隠れているわけだ」と山平。
「もちろん無実の罪ですよ」凛がつけ加えた。
「フクロウ男さんは、自分の身の潔白を証明しようと動いているさなかに栗尾根さんの事件に遭遇したんです。もしかすると、自分が背負っている問題にも関係があるかもしれない。それで、陰ながら力を貸している……どうでしょう?」
「そうなるとさ、フクロウ男のほうが主人公ぽくない?」と蘭。
「栗尾根、脇役じゃん。シリーズもので今回だけのゲスト出演。顔は見たことあるけど名前は知らない役者がやる役」
山平が爆笑した。
「それ、最高ですな。無実の罪を背負った闇の逃亡者・フクロウ男。第二話『魚臭いエンジェルの巻』とかね」
「山平さん……」
勇敢で親切な無実のボランティアに乾杯して、バルでの慰労会は締められた。
栗尾根は勘定をすませ、上機嫌の山平をジムニーの助手席へ乗せた。
双子の姉妹と、営業中はマスターの子供たちと遊んでいたカヌー犬見習い中のトイ・プードルが二人を見送った。
釧路市阿寒町までのドライブ中、栗尾根は改めて山平の意見を訊こうと思った。
山平にまだ言えていないことがいくつかある。
だが、車内は特産ワインに酔った山平の「実は、離婚しましてね。もう、二年前のことになりますが……」から始まる長い打ち明け話の時間となり、とても相談できる雰囲気ではなくなった。
陰鬱な職場と味気ないプライベート、鬱々とした日々を送っていたところで栗尾根と出会い、捜査に協力できて本当によかったとのこと。それはよかった。
夜のドライブですっかり酔いが回ったのか、山平は助手席で寝息を立てている。
道東の闇の中、ジムニーのハンドルを握りながら考えた。
警察と保安官事務所の捜査の枠内では、事件は幕を閉じようとしている。
残った謎は、栗尾根個人に関するものだった。
濱口の寮から押収した顧客リスト――。
釧路署へ捜査資料一式を引き渡す前に見直して驚いたのだが、リストから栗尾根の名前が消えているのだ。データも栗尾根の部分だけきれいに消されていた。
フクロウ型異星人に記憶を書き換えられたのでなければ、廃屋で気絶している間にすり替えられたのだろう。
リストに栗尾根天士の名が載っていると、何かまずいことがあるのだろうか。
秘密組織かヒーローか知らないが、自分が何者かのターゲットにされていることは間違いなさそうだ。
【18】
山平を阿寒町まで送り届け、栗尾根は国道240号で津別峠を越えて網走へ帰るつもりでいた。
ところが、途中で国道は通行止めになっていた。
峠付近で、自衛隊の大型車両が横転事故を起こしたとのことだ。
仕方なく遠回りだが弟子屈町を経由して美幌峠を越えることにした。
国道243号の闇を切り裂いて屈斜路湖の南岸を舐めるように進んでいくと、和尚の店に灯がついている。
せっかくなので挨拶だけでもしておこうと、栗尾根は店の前にジムニーを停めた。
ドアは開いていた。
「おばんです(こんばんは)」
店内に和尚の姿は見えないが、ストーブの上の薬缶から湯気が出ている。
本棚に囲まれた小部屋のハンモックも空だ。
何か新刊は入っていないだろうか。
栗尾根は本棚を見回していた。
もう読み終わったのか、村上龍のエッセー集が棚に戻されている。
その両隣はノーマン・マクリーン著『マクリーンの川』とリチャード・ブローティガン著『アメリカの鱒釣り』。
前者は映画『リバー・ランズ……』の原作、後者は釣りの本だと思って読むとびっくりする。
マンガの棚。
一冊だけある『週刊少年マガジン』と、同じく一冊だけある『花とゆめ』の間に妙な隙間があった。
覗くと、小口をこちらへ向けた、一冊の文庫本が挟まっていた。
週刊少年マガジンは、1973年30号。
『釣りキチ三平』の連載は、この年の32号から始まるのだが、30号にはそれを予感させるミニスカートの山口百恵がルアーでニジマスを釣っているグラビアが載っていた。
時代を駆け抜けたアイドルは、フィッシングも最先端だった。
月二回発行の花とゆめは、1985年2号。
ここには、川原泉の短編『不思議なマリナー』が掲載されていた。
お嬢様高校生釣師と海上保安官のラブ・フィッシング。これがバブル経済に狂奔する以前の平穏で幸福な日本の風景らしい。
栗尾根は、雑誌の間から文庫本を引っ張り出した。
表紙を見ると、渡辺淳一の小説『阿寒に果つ』だった。
店舗の奥から水が流れる音がして、トイレのドアが開いた。
「お客さん、もう営業時間はすぎていますよ」
和尚こと店主の屋山がタオルで手をふきながら言った。
「和尚は釣りと関係のない本は読まないんですよね」
「君は同じことを何度も訊く。名探偵の悪い癖だ」
「渡辺淳一はどうですか? 釣りについて何か書いていますか?」
和尚は栗尾根の問いには答えず、作業台へ向かった。万力に作りかけの毛鉤が固定されている。
ドライワカサギというワカサギを模した毛鉤の作成中のようだ。
梱包に使う白いシートを小魚の形に切り抜き、マジックで色を塗るため、毛鉤を巻くというより工作に近い。
「あれ、和尚は毛鉤には天然素材しか使わなかったのでは?」
「ジムニー君。おれは石器時代の釣師ではないんだよ」
和尚は椅子に座って背中を向けたまま言った。
「おれが着ているのはアクリルとポリエステルの服だ。毎日のようにケミカルな食品添加物を食べている。毛鉤だけ天然素材というのはアホがすることだ」
「釣りアホはダメだと」
「釣りキチも釣りバカもダメだ。すべての釣師は完全な釣師を目指すべきだ」
「ザ・コンプリートアングラー。完全な釣師は存在するし、完璧なマスも存在します。村上ハルキフィールド先生に教えてあげたいですね。ところで、渡辺淳一先生は?」
「渡辺淳一は、愛欲と性欲と情欲の作家だろう」
和尚は作業を続けながら言った。
「それはまたスパイスの効いたご意見だ。ほかに何かありませんか?」
「別に、銀座と祇園の作家でもいいし、鈍感力とリラ 冷えの作家でもいい。おれが知る限り、釣りとの関係は薄いな」
同人誌時代の短編で豊平川のヤマベ(ヤマメ)釣りに軽く触れているくらいだ、と和尚はつけ加えた。
「これは和尚の本?」
和尚が、ちらりとこちらを見た。
「いや。知らんな」
「あの男はあれから来ましたか?」
「あの男?」
「ヤマアラシとマングースの毛鉤の男です」
「天然素材100パーセントのアホ釣師のことかね。あれっきりだが」
和尚が知らないうちに店に入って、本棚にこの文庫本を仕込むことは可能だろう。
「あずましくないですね」
「だろうな」
「ありがとうございました。この本はもらっていきますね」
「ジムニー君」和尚は振り向かずに言った。
「君はもう忘れているかもしれないが、うちはフライフィッシングの専門店なんだよ。ここを舞台に毛利小五郎と服部半平の知恵比べは遠慮してほしいものだな」
深町丈太郎とホームズの間違いでは? と言い返そうとしたが、やめておいた。服部半平って、知らんし。「忍者ハットリくん」の本名だろうか。
栗尾根は文庫本を持って店を出た。
***
渡辺淳一著『阿寒に果つ』。
雑誌連載が始まったのは1971年。
1975年に映画化もされている。主演は山口百恵の予定だったが、ヌードシーンがあるためキャンセルされたという。文庫本が少年マガジンの横にあったのは偶然ではないようだ。
1950年代に阿寒湖畔で自殺した、渡辺淳一の初恋の女性をモデルにした作品だとは知っていた。
本道出身の著名な作家だが、一冊も読んだことはない。和尚ではないが、夜の蝶よりバッタやカゲロウの生態に興味がある人間には遠い存在だった。
阿寒湖は網走から飛ばして約二時間の距離。
メッセージを受け取ったからには行くしかないのだろう。
久しぶりの職場で、溜まっていた事務仕事を終えた週末。
晩秋の阿寒湖には、マリモと紅葉を求めて人々が集まっていた。
マリモは年中見られるが、道東の紅葉は一瞬だ。
森が色づく前に雪景色になる年も珍しくない。冬と春と短い秋、夏はあれば儲けもの。それが道東の四季だった
栗尾根はアイヌの集落もある湖畔の温泉街に車を停めた。
温泉街には、寄せては返す波のように観光バスが行き来している。
バスから吐き出され、ホテルへ吸い込まれていく団体客は中国人が多いようだ。土産物屋、遊覧船乗り場、湖岸の遊歩道で耳に入ってくるのもほとんどが中国語。
渡辺淳一は翻訳され大陸でも読まれているというから、その影響も多少はあるのだろうか。
栗尾根は観光客たちに交じって、阿寒湖周辺を歩いてみた。
片手には釣竿でなく、和尚の店でせしめた文庫本。
どこからかフクロウ男が見ていることを意識しながら、観光スポットを巡ってみた。
阿寒岳神社。
参道の階段を上がると、落葉の境内に赤い屋根の小さな社がある。栗尾根は賽銭箱に五円玉を投じてフクロウ男との邂逅を祈願した。
阿寒湖から阿寒川が流れ出す滝口は、小説のモデルとなった少女が最後に見に行くと言って出かけた場所だ。
少女は結局、ここから湖を半周も回った林道の奥で息絶えていたという。
新進気鋭の画家であった少女は、描きかけの雄阿寒岳の風景画を残している。栗尾根は、山をスケッチしたらしい路上にも立ってみた。
前田公園。
公園と道一本隔てて釧路警察署阿寒湖畔駐在所があるため、フクロウ男との会談には向かない場所だった。
公園には元薩摩藩士・前田正名の銅像がある。坂本龍馬と交流があった人物で龍馬から短刀をもらい受けている。
明治新政府では農商務次官を務めた。その後、阿寒の大地主になり今日の阿寒摩周国立公園の礎を築いたという。
郷土の名士として義務教育の社会科で習いそうな人だが、スマホで検索して今知った。栗尾根は中学の途中まで父の仕事の都合で帯広にいたので、十勝地方の開拓の父・依田勉三なら知っている。
ボッケは、阿寒湖畔にある泥火山。観光客がひっきりなしにやって来ては、ぽこぽこ煮立った泥を見物、記念撮影していた。
その中にフクロウ男がまぎれ込んでいないか、栗尾根は注意した。
阿寒湖は、アメマス、ニジマス、イトウ、ヒメマス、サクラマスといった、北海道を代表するマス類が数多く生息する、日本有数の名釣場でもある。
特にアメマスは水質のせいなのか黄金色に輝く魚体が素晴らしい。
湖は今、ワカサギ漁のシーズン。
漁の網からこぼれたワカサギを狙って、沖のほうから流線型の食いしん坊たちがやって来る。和尚が店で巻いていたワカサギを模した毛鉤「ドライワカサギ」の出番である。
栗尾根は釣人の渡船事業も行っている湖畔の漁協に立ち寄り、最近の湖の状況について話を訊いた。アメマスとニジマスがそこそこ釣れているようだ。
湖岸の遊歩道を歩いて擦れ違う釣人に声をかけてみた。
「出ました?(釣れました?)」
「あら、クリオネさんじゃないですか」
「あー、すいません。何だ、サニーさんか」
逆光で顔が見えなかった。
偶然、顔見知りに出会った。
SNSのIDで「sunny」と呼ばれている人で、プロのガイドからも一目置かれている地元の毛鉤釣師だ。職場である中学校からの帰り道にササッと竿を出して、パパッと釣果を上げることで有名だった。
「絶好調ですよ。クリオネさん、やらないんですか? これから夕マズメのいいときなのに……」
陽気な理科の先生である。年齢は四十代前半で、毛鉤釣師の中では若手の部類だ。
興味深い話を聞くことができた。
不調が続く、例のC川のアメマスについてだった。
理科教師は、アメマス激減の下手人は「地球温暖化」とにらんでいた。太平洋側の水温が上がったせいで、アメマスたちは北のオホーツク海側へ大移動しているのではないかというのだ。
「クリオネさん、網走でしょう? 地元を攻めてみたほうがいいんじゃないですか」
鱒浦漁港赤灯台下暗し。これは、盲点だった。
大型のアメマスと言えば根釧地方、という先入観に囚われていたかもしれない。近所の川を探ってみる必要がありそうだ。
どうも釣場へ来ると、ついつい釣りの話が長くなる。
フクロウ男の手がかりのほうは、今のところゼロだった。
秋の阿寒湖の夜には「千本タイマツ」がある。
アイヌの男性を先頭に、人々が赤々と燃えるタイマツを持って温泉街を練り歩く、観光客参加型のイベントだ。
炎の隊列はアイヌコタンを出発し、民族音楽に合わせてゆっくりと街へ流れていく。外国人も多数参加しているようだ。
釣人は普通、ここにはいない。
この時間、地元の釣人は家に帰っているし、泊りの釣人は明日の早朝「朝マズメ」の釣りに備えてもう休んでいるだろう。栗尾根も見るのは初めてだ。
炎の列が去り、スマホや自撮り棒を構えて見送っていた人々も散り散りになった。
栗尾根はあてもなくアイヌコタンを歩いてみた。
土産物屋の店頭に木彫りのフクロウがいた。
アイヌにとってシマフクロウはヒグマと並ぶ神聖な存在だという。
注意して見ると村はフクロウだらけだった。
栗尾根はコタンの入口で羽を広げている一際大きなフクロウを見上げた。
フクロウ男はどこへ飛んでいったのか。
渡辺淳一って何のこと?
ライトに照らされたアイヌの神様に尋ねても、木彫りの神はホホォーゥとも答えない。
【19尾目】【20尾目】【21尾目】(了)