『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【5尾目】【6尾目】【7尾目】
【5】
ジムニーのドアを開けると、地獄の匂いがした。
栗尾根は、道東の闇を二時間ドライブして川湯温泉に到着した。
この春、道東自動車道が阿寒まで開通してくれたおかげで約一時間のショートカットが可能となった。
廃業したホテルが目立つ寂れた温泉街だ。
街を横切るように硫黄臭い熱湯の川が流れている。
大横綱・大鵬幸喜の銅像と記念館がある。目につくのはそれくらいか。
外観が新しくなっているが、濱口正夫が勤務していたホテルに、栗尾根は見覚えがあった。
二年ほど前、近くの屈斜路湖に釣りに来た帰りに日帰り入浴したことがある。
名勝・硫黄山を源とするかけ流しの湯は強酸性。魚の歯で切れた指先がレモン汁でもぶっかけたように沁みたことを覚えている。
入口の歓迎プレートには、白い文字で宿泊中の二つの団体の名前が記されている。
ロビーに入ると、浴衣に丹前姿の老婆が二人、ソファーに腰かけ談笑していた。
「わたし、長イモとヨーグルト間違えちゃって」
「あらまあ大変だ」
「長イモにブルーベリーソースかけちゃって」
「あらあら大変だ」
ここにも事件が。食堂のバイキングで夕食をすませたあとのようだ。細かい点に注意が向くのは探偵モードに入っている証拠だ。
栗尾根はフロントで支配人を呼び出してもらった。
「……保安官? 警察じゃなくて?」
フロントの奥の部屋からささやく声が漏れてきた。
やがて大鵬ほどではないが、がっしりと堅太りした五十七、八歳の男性が姿を見せた。
「保安官補の栗尾根です」栗尾根は鑑札を示した。
和田と名乗った支配人は、栗尾根を喫茶コーナーへ案内した。
「亡くなった濱口さんのことで二、三お尋ねしたいことがありまして」
刑事ドラマ風の常套句に照れている場合ではなかった。
「わたくしが知っていることは、警察にすべてお話ししましたが……」
支配人は戸惑っている。
「あの、濱口は事故なんですよね? そう聞いているのですが」
「これは、道警とは別口の捜査でして。形式的なものなので、どうかご協力をお願いします」
支配人は硬い表情のまま話し始めた。
「濱口は、真面目でしたよ。仕事を覚えるのも早いほうでしたね。フロント、配膳、送迎などいろいろお願いしていました。浴室の掃除などは、誰よりも早くきれいに仕上げていましたね。若くて体力がありますから」
「先週から欠勤中だったとのことですが」
「連絡もなく休むなんて今までなかったもので心配していたんです。車で出かけたようなので、事故にでもあったんじゃないかと。これはもう警察に通報しなければと思っていたら、まさかの知らせが……」
支配人は目を閉じて首を振り、声のトーンを落とした。
「彼には期待をかけていたもので、何と言ったらいいか……残念です」
「お気持ち、お察しいたします」と栗尾根。
「確認しておきたいのですが、濱口さんが欠勤する前後に何かありませんでしたか?」
「例えば、どんなことでしょう?」
「従業員同士のいさかいとか、宿泊客とのトラブル、盗難……何でもいいのですが」
「もしそういうことがあれば、急にいなくなっても驚きはしません。過去に何人かいましたからね」
濱口正夫は昨年の暮、このホテルがリニューアルに向けて新たに従業員を募集した際に応募してきた。
三か月間の試用期間を経て一年契約の契約社員となったが、勤務態度が良好だったため次の契約も問題なく更新される予定だったという。
「言葉遣いに少し雑なところがありましたので、注意したくらいですかね」
栗尾根は、手帳に目を落とした。
山平巡査部長から聞き取った情報が箇条書きになっている。
〈左上腕 縦16センチ 横12センチ 黒いヘビのイレズミ〉とあった。
「ああ、タトゥーですね。知っていますよ」と支配人。
「長袖なら隠れるのですが、Tシャツ一枚で浴場の片づけなどをしていますと、お客様がびっくりされますので、上から湿布薬を貼らせておりました」
「どんなタトゥーでした? 何か文字は彫られていましたか?」
「いや、そんなにしっかりとは見ていません。でも、今どきの若者が好きそうな奴ですよ。ギャングか海賊のエムブレムみたいな」
〈ヘビの胴体に模様のような文字 読み取れず〉
山平の話ではそうなっていた。
「逮捕歴については、ご存知でしたか?」
「ええ、喧嘩で二度捕まったと面接時に聞きました。新しい土地で心を入れ替えて働きたいという彼の熱意を買って採用したのです。実を言えば、わたくしも昔はいわゆるツッパリという奴で、改造した単車を乗り回していた口ですので、人のことは言えません」
支配人から初めて笑みがこぼれた。
「若い時分はそれくらいのほうが、むしろ覇気があっていいんじゃないかと」
「濱口さんは、釣りのほうは? 釣りが趣味だと、聞いたことはありますか?」
「それなんですけど、警察の方から川で釣りをして溺れたと聞かされて、意外な感じがしたほどです。濱口は、本当に釣りをしていたのですか?」逆に尋ねられてしまった。
「警察はそう考えているようですが、まだわかりません。何か気になることでも?」
「濱口から釣りの話が出たこともありませんし、寮の部屋を確認しましたが、釣り道具とかアウトドア用品は見あたらなかったもので」
「あずましくないな……」
「はい? 何かおっしゃいました?」
いえ、こちらの話ですと栗尾根。
「当館には、釣りのお客様もいらっしゃいますので、それで興味を持ったんでしょうか」
栗尾根も濱口の部屋を見せてもらうことにした。令状が必要かもしれないが、見るだけなら構わないだろう。
支配人が事務室に寮のキーを取りに行っている間、栗尾根はロビーを歩きながら待っていた。
壁には祭りやイベントのポスターが貼られていた。
平机の上にも体験ツアーのリーフレットや店舗のフライヤーが置かれている。
一枚のチラシが目についた。
女性たちのアイドル然としたポージングと露骨なキャッチフレーズに眉をひそめていると、「お待たせしました」と鍵束を手に支配人が戻ってきた。
【6】
社員寮は、ホテルから歩いて数分のところにある二階建てのアパートだった。
フローリングの二間にキッチン、バス、トイレ。
栗尾根が借りている網走の集合住宅と総面積はほぼ同じだが、聞けば家賃は半額以下だ。
その上、栗尾根の部屋にはないエアコンまであって、軽いショックを受けた。
ベッド、テーブルと椅子、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ。これらは、いずれも部屋に備え付けのものだという。
不安げな支配人に見守られながら、栗尾根はコンビニで購入したばかりの薄手の白い手袋をはめて部屋を検分を始めた。
クローゼットには、衣類や下着類が詰まっていた。
何か隠していないか、衣装ケースの底まで探ってみたが何もなかった。
靴箱の中。
仕事で使うような黒い革靴が二足。踵がぺちゃんこのスニーカーが一足。冬用のブーツも一足。ウェーディングシューズは、ないようだ。
冷蔵庫の中。
飲みかけの清涼飲料水のペットボトル。レンジでチンの焼魚、ハンバーグ、ゆで卵。
テーブルの上。
筆記用具。メモ帳。目覚まし時計。未開封のスナック菓子。これを貼って左腕のタトゥーを隠していたという、大判の湿布薬もあった。
「これは?」
栗尾根は女優が表紙の週刊誌を掲げて見せた。数冊あった古雑誌にはホテル名のゴム印が押されている。
「喫茶コーナーか従業員の休憩室に置いてあったものですね。古いものは持ち帰っていいと言っています」
栗尾根がパラパラとめくると未開封の袋綴じのページが現れた。ヌードのグラビアに興味のない二十二歳、か。
「濱口さんは、ほかの従業員の方とはどうでした? 親しくしていた人とかは?」
「ちょっと年齢が離れていますからね。特に親しい者はいなかったんじゃないかな。でも、普通に接していましたよ」
トイレと洗面台を、確認。
ユニットバスの天井の点検口も開けてみたが、中に入っていたのは配管とカビ臭い空気だけだった。
テーブルに戻って、メモ帳を一枚一枚めくって、確認。
目覚まし時計の裏蓋を開けて、中に白い粉が入った小袋などないか、確認。
歯磨き粉や靴墨もキャップを開けて、中に大麻ワックスなど仕込んでいないか、確認。
つい先日、保安官に頼まれて「若者とドラッグ」というテーマで講演用の原稿を書いたばかりだった。その影響がまだ残っているらしい。
濱口が使っていた洗顔フォームやシャンプーの匂いを嗅いでいる栗尾根を、不思議そうに見ていた支配人から軽快な電子音が鳴り響いた。
「ちょっと、すいません。失礼します」
支配人は栗尾根に背を向けてスマホで話し始めた。
新聞の販売所のノベルティカレンダーも一枚ずつめくってみた。毎月決まった日に、ヤバい取引を匂わせる妙な記号などが書き込まれていないか、確認。
ゴミ箱の中も、確認。空のペットボトル。紙クズ。スーパー、コンビニ、ドラッグストアのレシート。
古雑誌も、だ。
もう一度開いて、ブツの受け渡しを匂わせる妙な書き込みなどないかを確認した。未開封の袋綴じも筒状に膨らませて、しっかりと中まで覗き込んだ。
ある週刊誌を開くと、お仕舞のページに付録のDⅤDの袋がついていた。
説明文を読むと、懐かしのアダルトビデオを再編集したものらしい。こちらは、開封ずみ。映像には興味があったということか。
だが、袋の中身はDⅤDではなく、写真だった。
安いプリンターで印刷したのかラフな画像だ。
家を写したものが十数枚。
それも古ぼけた廃屋のような家ばかりだ。
窓が全部割れた家。
老朽化が激しく、今にも倒れそうな家。
草に埋もれた小屋……濱口は廃墟マニアだったのか。
現れた写真の不可解さに唸っていると、間に挟まっていた紙切れが滑り落ちた。
開くと、A4サイズの紙に黒いマイクロSDカードが一枚、養生テープで留められていた。
紙には、小さな活字で、個人の氏名と住所が数十桁並んでいる。
息が止まった。
名簿のカ行の中に、なぜか自分の名前が入っている。
呆然としていると、電話を終えた支配人が声をかけてきた。
「あの、まだかかりますか? わたくし、ちょっと用事ができまして……」
あずましくない。まったくあずましくない。
「いいえ、もう結構です。大変、参考になりました」
栗尾根はシャツのポケットに手を突っ込んだまま、にこやかに言った。
「ご協力、ありがとうございました」
【7】
スズキ・ジムニーは、川湯温泉を逃げるようにあとにした。
黒い紙にハサミを入れたように、闇に沈んだ森がハイビームのライトに切り裂かれていく。
青白いLED電球が二つ、チカチカと路上で瞬いていた。
はっ、として、ブレーキに足をかけた。
停まった車の20メートル先で、大きなメスのエゾシカが光る眼でじっとこちらを見ていた。
鹿は特に慌てる様子もなく、ゆっくりと道路を横断してクマザサの藪へ消えた。
今度は、小鹿がちょこちょこ道路を横断し始めた。
その後ろからも、ぞろぞろと7、8頭が通りすぎていく。
栗尾根は、深く溜息を吐くと、ゆっくりと車を発進させた。
右手でハンドルを操りながら、左手をシャツの胸にあてた。
保安官補バッジの硬い感触の下に、そのもののつるっとした手触りがあった。
シャツの胸ポケットの中に入っているのは、濱口正夫の部屋で見つけた――
写真。
名簿。
マイクロSDカード。
令状なしの押収はまずいのだが、仕方がない。持ってきてしまったのだから。
車は、黄色く色づいたダケカンバの林を進んでいた。
時折、血が飛び散ったように赤いナナカマドがライトに照らし出された。
ふと、右側の視界が開けて、黒く広い湖水が現れた。
屈斜路湖だ。
営業を終えた売店と「砂湯」の看板が見える。
湖岸の砂を掘ると温泉が湧き出る砂湯は、観光客に人気のスポットだ。
川湯温泉から藻琴峠を越えて網走方面へ走るつもりだったが、気がつけば反対方向へ進んでいる。
このコースでは、周囲57キロの湖を四分の三周もして美幌峠へ抜けることになる。
自宅まで三十分は余計にかかってしまうが、仕方がない。もう逆回りしているのだから。
道道52号から右折して国道243号、別名「パイロット国道」へ入る。飛行機とは関係ない実験農場「パイロットファーム」からの命名だった。
栗尾根が、またブレーキを踏んだ。
鹿ではない。
釣具屋だ。
珍しく灯りがついている。
左折して、細長い板張りの平屋の前に車をつけた。
店名は不明。
看板の類もなかった。
釣人以外にとっては国道沿いにぽつんと建つ謎の小屋でしかない。
店舗の後ろに物干し台があり、何か大きなものが干したままになっている。
気になって近寄ると、毛足の長い敷物のようなものは、頭がついたヒグマの生皮だった。
栗尾根はドアを開けて、店内へ入った。
「おばんです(こんばんは)」
手作りの棚には、竿やリール、毛鉤用の小物類が整然と並べられている。
毛鉤作りの素材として小売りされる前の鹿や熊の毛皮が吊るされているのにぎょっとする以外は、ごく普通の毛鉤釣り専門店だ。
ただ、所在地がど田舎で営業時間が不定期なため、知る人ぞ知る幻の店だった。
栗尾根は、店の一番奥にあるキッチンまで覗いてみたが、店主の姿がない。
留守か。
水鳥の羽や獣毛が並んだ棚の奥に、前にはなかった空間があることに気づいた。
以前は不用品が押し込まれた納戸だったところが、扉が外され畳三畳ほどの小さな部屋になっている。
三方の壁は本棚だ。
狭い空間には木の香りと古本の匂いが詰まっていた。
そこに置かれたハンモックの中で、チマキのように縮まって眠りこけているのが、店主の屋山だった。
下の名前は知らない。
年齢も訊いたことはないが、五十二、三歳だろう。
「和尚、寝てるのか……」
栗尾根は、和尚と呼んでいた。
灰色の髪を短く刈り込んだ砂消しゴムのような頭からの命名で、寺や仏教は関係ない。
棚の本は、ほぼすべてが釣りに関する本だった。
ざっと見渡しても、十七世紀に書かれた世界的な釣り文学の古典、アイザック・ウォルトンの『釣魚大全』。
北海道を愛する釣人のバイブル、鍛治英介著『北海道の湖と渓流』と『続・北海道の湖と渓流』。
フライキャスティング理論の大家、シャルル・リッツ著『ア・フライフィッシャーズ・ライフ ある釣師の覚え書き』。この人は、釣竿を片手に最高級ホテルを経営し、セレブリティと交遊を重ね、世界大戦中も釣竿を手放すことはなかった。
なかなかお目にかかれない稀覯本もあった。
幻の魚イトウを追った幻の名著、八巻正宜著『魚鬼の里』。
孤高の人類学者、栗森定住郎の奇書『釣竿を持ったサル~ヒトは釣りをするために二足歩行を始めた~』は、古書市場でプレミアがついて5万円でも手に入るかどうか。栗森によれば、釣りとは水と魚と竿とウイルスが結合した一種の文化生命体であり、人類は「生きている釣り」の一器官として進化したとは、驚きの2001年宇宙の釣り。
釣りマンガもある。
釣師にとって釣りに行くだけが釣りではない。
釣りの本を読むのも、釣りだ。
ここには釣師のための本が多数集められていた。以前は店の隅のカラーボックスに雑然と置かれていたのだが、やっとコレクションらしくなった。
コの字型の本棚の下、和尚はピクリともしない。
眠るように死んでいないといいのだが。
和尚の胸の上には、読みかけの文庫本が置かれていた。
栗尾根が知る限り、和尚は釣りの本しか読まないはずだが、意外にも釣りとは関係のなさそうな小説家のエッセイ集だ。
息を吹き返すまで待つべきか。
出直すべきか。
迷っていると、いつの間にか和尚が横目でにらんでいた。
「生きていたんですか」驚く、栗尾根。
「いや、起きていたんですね」
「何だ、スズキ・ジムニー君か……」
和尚はハンモックの上でけだるそうに伸びをしながら言った。「クリオネ」という言葉の響きが和尚の美意識に反するのか、名前で呼ばれたためしがなかった。
「誰か来たのは知ってたよ。金の匂いがちっともしないから、起きるまでもないと思ったが、正解だったようだ」
「あなたがお金に興味があるとは知りませんでした」
「こんな時刻に来店するなんて、客としてちょっと非常識なんじゃないかな」
栗尾根は、黙って胸につけたバッジを示した。
「おいおい、まさかの公務かよ。冷やかしのほうがましだったな」
和尚は鬱陶しそうに灰色の頭を掻いた。
「それで、何の容疑だ? 野生動物の毛皮が猥褻物になるというなら、法廷で争うぞ」
「和尚は確か、釣りの本しか読まなかったのでは?」
栗尾根は、和尚の胸の上の文庫本を指さして言った。
「それは、有名な普通の作家ではないですか」
「東京のほうを向いて、村上龍先生に謝りなさい」
和尚が一方の壁を指さして言った。南南西。都の方角だ。
「これは、釣りについて書かれた文章の中でも、最上級のものだよ」
釣りは官能的ではない、と馬鹿にしていた作家が道南でイトウ釣りを経験し、認識を改める話だという。
「イトウという魚を『鋼鉄の鎧をつけた少年が身をくねらせ、ジャンプ……』、こんな表現をするのは村上龍だけだ」
「なかなかの比喩だと思います。一昔前の尻別川には、中学生男子くらいのイトウがいましたからね、実際」
「まさかとは思うが、村上先生の『愛と幻想のファシズム』は読了しているよな?」
村上春樹先生は何冊か読んだが、龍先生は未読だった。
「ジムニー君。不勉強にもほどがあるぞ。釣師として」
古今東西、オショロコマの卵が出てくる小説はこれだけとのこと。今度貸してください、と栗尾根は頼んでおいた。
「夜更けに文学談義をしに来たわけではあるまい。用件を聞こう」
「これなんですが……」
栗尾根はバンダナに包んでおいた毛鉤を取り出して見せた。
和尚が毛鉤に顔を近づけた。
「すっきりと巻いてあるな。悪くない仕上がりだ」
「残念ながら、わたしの作ではありません。川で拾ったんですが、どうですか? これを見て、何かわかりますか?」
「何かって言われてもな……」
和尚は毛鉤と栗尾根を見比べるようにしてから言った。「メイフライ(カゲロウ)だな。CDC(カモの尻の産毛)をポストにして巻いたパラシュートタイプのドライフライだ」
「それくらいはわたしでもわかります」
「素直に見て、コカゲロウ類のダン(亜成虫)だろう。テール(尾)は、二本か。シロハラコカゲロウか、フタバコカゲロウか。断定はできない。タイイング(毛鉤作り)とは、イミテーションとイマジネーションが融合した世界だからな」
「ほかのマテリアル(素材)は、どうです?」
「ジムニー君。おれは、まだ寝足りないんだが」
和尚は片目を閉じて言った。
「これは公務です。ご協力感謝します」
「人使いが荒いな。網走市議会へ投書するネタができた」
和尚はハンモックを離れて店のほうへ歩き出した。小柄で痩せていて、動きはきびきびしていた。
ストーブの横に、毛鉤作りに使うハサミや糸巻きや羽毛が載った作業台があった。和尚は、そこに座るとピンセットで毛鉤を摘まみ、顔より大きな拡大鏡の下で調べ始めた。
「フックはG社16番、細軸のドライフライ用だ。ハックルはライトジンジャーのコックネック。ウイングはナチュラルのCDCフェザー。ボディーは」
和尚は一呼吸おいて、栗尾根の顔を見上げて言った。
「ポーキュパインだ」
「何ですか? ポーク? パイン?」
栗尾根の脳裏を酢豚が駆け抜けた。
「ポーキュパイン。ヤマアラシだ」
薄い飴色をした毛鉤の胴に巻かれているのはヤマアラシの棘だという。
和尚は、店の棚から実物を持ってきて栗尾根に見せてくれた。
中が空洞になった細いストローのような毛だ。
先端は鋭く尖っていて、刺さると相当痛そうだ。
これを平たく潰して毛鉤の胴に巻くと、中に空気を含んでいるため毛鉤がよく浮くとのこと。
ヤマアラシが素材になるというのは知っていたが、使い方までは知らなかった。
化学繊維でできた安くて優秀な素材がいくらでも手に入る現在、あえて高価な獣毛を使う必要もない。
最後に残った毛鉤の尾の素材もテンポよく判明するかと思ったが、こちらは難航した。
「……獣毛のようだが、何だろう? 鹿や牛、山羊の類ではないな。熊、狐、ウサギ、リスでもない。アナグマ? ラッコ? ビーバー? 違うな。猿かな? ゴールデンモンキーの背中の毛に似ていなくもない。ほかに考えられるのは、レッサーパンダか、タスマニアデビルか。あ、ミユビナマケモノという線もあるか……」
「ずいぶん変わった素材もあるんですね」
「さあな。知ってる動物を並べてみただけだ」
和尚は、拡大鏡から顔を上げた。
「触ってもいいかね?」
「どうぞ」
和尚は目を閉じて、カゲロウの尻尾を指先で撫で始めた。
「……むむ、この感触は……いや、待てよ……むう、そうか……」
手触りで、何の動物かわかるというのだろうか。栗尾根は感心してその様子を見ていた。
「わからん。まったく、わからん」
目を開けて和尚が言った。
「こんなもの触っても、わかるわけがない」
身を乗り出していた栗尾根は、思わずたたらを踏んだ。
「サンプルと照合するしかないな。地道で退屈な作業になりそうだ」と和尚。
「ご協力感謝します」
「ところで毛鉤なんか調べて、これは何の公務なんだ?」
「知りたいですか?」
「一応な」
「例のアメマスの川で、水死体が上がりました。殺人事件の可能性が……」
「もういい」
和尚が手を上げて、栗尾根を制した。
「面倒そうだ。何も聞かなかったことにしておこう」
帰り際、栗尾根は念のために訊いてみた。
「そうだ。このあたりに廃屋とか廃墟はないですか?」
和尚が怪訝な表情で見返してきた。
「廃屋? 廃墟? それがどうかしたのかい」
「もしかして犯人が隠れているかもしれないので……」
「廃墟なんか、どこにでもあるさ」
和尚が呆れたように言った。
「北海道中、廃墟だらけだ」
確かに、愚問だった。
【8尾目】【9尾目】
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