
『アメ釣りだから鱒テリーでも勉強しよう』フライフィッシャー・栗尾根天士の事件簿【8尾目】【9尾目】
【8】
赤く色づいたミズナラの樹影が、鏡のように静まった湖面を同じ色に染めていた。
紅葉の先から、ポトッと小さなものが落ちた。
ちょうどコーヒー豆くらいの大きさ。
水面に短い足を広げ、漂流する落葉へたどりつこうともがいているのは、黒地に赤い星が二つのナミテントウだ。

もじもじと水の上を這っていた虫が、ジャバっと激しい飛沫に飲み込まれ湖面から消えた。
栗尾根はフライボックスを開いた。魚が何を食べているのかわかったが、肝腎のそれがない。
背中がターコイズブルーにきらめく五十センチ近いニジマスは、岸近い浅場を泳ぎ回り、枝から落ちてくるテントウムシを探している。
カゲロウやトビケラの毛鉤をいくら投げ込んでも見向きもしないわけだ。
ニジマスがまたテントウムシを見つけたらしく、痛快な水音が朝の湖水に響き渡った。
栗尾根は、フライボックスの中を覗き込んだまま「くそー」とつぶやくことしかできない。




※北海道は全域がエキノコックス(寄生虫)の汚染地域。
感染の恐れがあるため野外で釣竿を咥えての撮影はお勧めできない。
***
昨夜、和尚の店を出てから美幌峠を越えて網走へ戻ろうと思ったが気が変わった。
保安官への報告は電話で短くすませて、屈斜路湖畔の空地で仮眠をとることにした。
栗尾根はスズキ・ジムニーの狭い車内で、マグライトの灯りの下、ポケットから取り出した押収品の検分を始めた。
廃墟、廃屋の写真と謎のリスト。
それに、マイクロSDカード。
何か決定的なものが見つかるに違いない、と思ったマイクロSDカードには肩透かしを食らってしまった。
車に積んであったタブレット端末で中身を開いてみたが、写真と同じ画像と、紙と同じリストが入っていただけだったのだ。
バックアップのために、データをわざわざプリントしておいたわけか。
濱口正夫の慎重な性格が窺えた。少なくとも、釣具を抱えて鉄橋から落っこちるタイプではないだろう。
リストにあった自分の名前と住所は、何度見直しても見間違えではなかった。
考えられるのは、何かの顧客リストだ。
東京都と関西方面の住所が多い。
その中で一番北に住んでいるのが「栗尾根天士」。
栗尾根は、自分が過去に通販、ネットオークションで買ったものの中に怪しいものがないか調べ始めた。
グローバル企業から自宅営業の零細業者まで、ネットでいろいろ買いまくっていた。
購入履歴をさかのぼり、リストをにらんでいるうちに夜が明けた。
早朝、湖を渡る風で頭を冷やそうとしたのだが、運悪く岸近くを泳ぐニジマスを見つけてしまった。
気分転換のつもりで、ちょっとだけちょっとだけと、竿を出したのが運の尽き。
それから一時間、頭に血を上らせて一匹の魚を釣ろうと格闘し続けているのだから、釣師とは因果なものだった。
手持ちの毛鉤の中で、あと試していないのはウレタンフォームで作ったこのカメムシだ。
テントウムシより一回り大きく、形も円ではなくホームベース型だが、今はこれしかない。
釣糸の先に結びつけ、湖岸にしゃがむと、栗尾根は静かに竿を振った。
岸からほんの数メートル先、木の枝が覆いかぶさった湖面にカメムシが、ポンッと落ちた。
ターコイズブルーの背中がスーッと近寄ってきた。
その尖った鼻先が毛鉤に向かった瞬間、魚体は、くの字に反転。
ニジマスはゆらゆらと尾びれを振って、左の木陰へ泳いでいった。
この時期、秋が旬のカメムシを好んで食べる魚もいるのに、こいつは何が何でもテントウムシじゃないと納得しないようだ。おまえは、魚界の海原雄山か。
ニジマスが去ったほうへもう一度、毛鉤を打ち返した。
水面に浮いたカメムシをじっと見つめていると、背後から鼻息荒い何かが迫ってきて、栗尾根の背中に、どんっとぶつかった。
しゃがんだ股の間に入り込もうとする茶色い毛の塊を、片手で押さえつけて、栗尾根は毛鉤を見続けた。
狙っていたニジマスが、またこちらへ泳いでくる。
しかし、魚は栗尾根のカメムシの真下を潜って、右の木陰で落下した本物の虫にまたバシャッと食いついた。
ハサミでテントウムシサイズに丸く刈り込めば釣れるのかもしれないが、時間切れだ。
「こら、エゾタヌキ。おまえのせいだぞ。と思ったら、何だ。キッドか……」
足元にじゃれつくトイ・プードルを見下ろしながら、栗尾根は釣糸をリールへ巻き戻した。
振り向くと、空地の一番奥に停めた栗尾根のスズキ・ジムニーから数メートル離れて、ワインレッドのトヨタ・ハイエースが停まっていた。
女性が二人で、車の屋根に積んだ四人乗りカナディアンカヌーを降ろして川のほうへ運んでいる。
栗尾根も竿を片手にそちらへ向かった。トイ・プードルも舌を出してはあはあ言いながら、栗尾根を見上げ、とことこついてきた。
栗尾根が今釣っていた湖が、屈斜路湖。
女性たちがカヌーを浮かべている川は、釧路川。
ここは、屈斜路湖の南岸にあたる、釧路川への流れ出し。日本最大のカルデラ湖の圧倒的な水量が、ここでぎゅーっと一本の川へ絞り込まれ、広大な釧路湿原を潤し、150キロ先の釧路市を貫いて太平洋へ流れ込むのだ。








トイ・プードルが吠えながらカヌーのほうへ駆け出していった。
女性たちが、こちらを向いた。
「あれ、クリオネ~じゃん」
右の女性が、両手をパタパタさせながら言った。
巻貝の一種であるクリオネ(ハダカカメガイ)が翼足をひらひら動かして泳ぐ姿をやってみせたようだ。
「その、氷の妖精ダンス、やめてくれないか。気味が悪いから」
「あ、これ。流氷の天使ダンス、だけど」
「どっちでもいいから、やめなさい」
「クリオネ、しけた面で、何やってるの?」
女性は、まだ手をパタパタさせたままだ。
「見ればわかるだろう」
栗尾根は、釣竿を振って見せた。
「仕事だよ」
「栗尾根さん、おはようございます」
左の女性が言った。
「ここ、けっこう釣れるんですよね。釣れました?」
こちらは、両手パタパタはしなかった。
「汚ったねー車が停まってるから、もしかしてと思ったら、やっぱり、あんただったか」
右の女性が言った。
「あーあ、朝っぱらから不景気な顔を見せられて、さわやかな気分が台無しだ」
口が悪いほうが妹の室田蘭で、丁寧なほうが姉の室田凛。
二人が同じ顔をしているのは、双子の姉妹だからだ。
妹は目つきがややシャープで、姉はややマイルドな感じがするが、それは言葉遣いから来る印象の違いなのかもしれなかった。
姉妹の間をトイ・プードルのキッドが尾を振りながら行ったり来たりしていた。

二人の事務所まで出向いて話を聞く手間が省けた。
広大な道東と言えども、人が集まる場所はだいたい決まっている。
この流れ出しは、カヌーによる釧路川下りのスタート地点。室田姉妹のほかにも、客を乗せて漕ぎ出しているカヌーもあった。
栗尾根は、川湯のホテルで見つけて思わず持ってきたチラシを掲げて見せた。
「何だよ、このグッドルッキングって」
栗尾根は良識にのっとった意見を述べた。
「こんな煽情的な表現は今どきありえない」
「別に、いいしょや(いいでしょう)。グッドなルッキングの当事者が言ってんだから」と室田妹。
「民間のビジネスにいちいち口出しすんなっていうか、おまえさ、バタ6みたいなこと言うなよ」
バタ6とは、網走の高校で英語を教えている田畑六助教諭のことだ。演劇部の顧問で前衛的な政治的に正しい英語劇をやることで有名だった。革新的な政治的に正しい先生で、栗尾根の在学時には「6教組」とも呼ばれていた。
栗尾根と室田姉妹は同じ高校の同窓生。栗尾根は8年も先輩なのだが、室田妹はタメ口だった。
「わたしも、どうかと思ったんですけど」
室田姉は笑っている。
「蘭が、これくらい派手に売り込まないとライバル業者に勝てないんじゃないかって」
「まるで怪しいアイドルイベントのポスターみたいじゃないか。雄大な釧路湿原のイメージが台無しだ」
「どっかの探偵事務所の『したっけ割』よりましだろ」と室田妹。
したっけ割ではなく、なまら割だった。
東京で栗尾根が開業していた「クリオネ・リサーチ&インベスティゲイション・オフィス」では、北海道出身者の依頼は成功報酬を二十五パーセント値引きしていた。
といっても、その契約で請け負った唯一の仕事が、当時地下アイドルをしていた室田妹の身辺調査。
室田姉が、単身上京した妹を心配して頼んだものだ。
探偵は、彼女のバイト先の居酒屋に潜入したり、都内謀会議室で開催されたステージも見物した。
都会では雑草を鉢に植えて駅前に並べても買っていく人がいる、という中学校の社会科教師の冗談を思い出すくらいレベルの低いステージだった。それでも現場ではけっこう受けていたので、あれは冗談じゃなかったのかもしれない。
ともかく栗尾根が書き送った報告書は、姉妹の家族を安心させたのだった。
「そうだ、栗尾根。あんたの事務所があったビル、今どうなってるか知ってる?」
杉並区の甲州街道沿いに立つ煤ぼけた雑居ビルのことだろうか。
「一階に汚い中華料理屋が入ってたじゃない。あそこ、ネットで見たら『髭眼鏡喫茶』になってた」
栗尾根が持つ釣竿の穂先が、ぴくっと反応した。丸眼鏡をかけたヒゲ面のフクロウが頭に浮かんでいた。
「ヒゲでメガネの兄ちゃんがやってるただのカフェだよ。何か知らんけど、繁盛してるみたいよ。あんたもさ、ヒゲメガネで探偵やってたら、バカなファンがついて成功してたかもね」
興味を失った途端、栗尾根の口からあくびが出た。
室田妹は、双子の姉妹のデキの悪いほう、と言われ続けるのが嫌になって、アイドルを目指した。
アイドルとしての活動期間は、一年と十か月。
彼女に言わせると、アイドルの世界とは、病気の人間が別の病気に罹る場所。アイドルをやっている限り前の病気は忘れていられる。
間近で見た重病人たちに比べれば、彼女の病気は軽かったようだ。
東京でアイドルを続けるには健康的すぎる自分に気づいて北海道へUターン。
札幌の大手アウトドアショップの店員だった姉を誘って、地元道東でネイチャーガイドの仕事を始めた。
「どうでもいいけどさ」
室田妹がキッドに服を着せながら言った。どうも犬用の救命胴衣のようだ。
「その電車のシートみたいに色褪せたネルシャツとかどうなの? いつも似た感じだけど、そんなのしか持ってないのか?」
「ちょっと、蘭。釣りの人はそれがいいのよ。魚に目立たないように迷彩服的なあれですよね? ね?」
健康的な雑談をしている場合ではなかった。
「君たちに訊きたいことがある。川湯のホテルにいた濱口正夫さんは知っているよな?」
栗尾根は事の次第を説明した。
「え……マジ?」と室田妹。
撮影会のときよりも目を大きく見開いて驚いている。
「あの人、亡くなったの?」
姉のほうは絶句して、手で口を押えている。
キッドも二人の主人を交互に見上げて何か察したのか一声、ぅわんっと鳴いた。
「ハキハキした元気な人だったよ。仕事の段取りとかもテキパキしてた」と室田妹。
「栗尾根が釣りに行く川で溺れたの? 何でそんなところで……」
「廃線の鉄橋から落ちたみたいなんだ」
自分が釣り上げたことは触れずにおいた。
「鉄道とか好きだったのかな、濱口さん」
「お客さんの送迎のとき、ホテルのロビーでちょっと話すくらいだったけど」
室田姉は手で口を押えたまま言った。
「わたしたちと話したのって、ほとんど音楽の話とかだよね」
「そうそう。フェスの会場で小樽ともめて警察来て逃げた、とか。小樽って何だよ、って思ったけど」
室田妹は片手でキッドをあやしながら言った。
「でも、鉄オタとかじゃないよ。そういうのとかからは、一番遠いタイプ。だいたい元ヤンでしょう、あの人」
「鉄道より廃線とか廃墟に興味があったのかな。濱口さん、廃墟の話とかしていなかった? 廃屋が好きだとか?」
「廃線?」
「廃墟?」
「廃屋?」
姉妹は顔を見合わせて、二人同時に首を傾げた。
「いや、何でもいいんだ。濱口さんを見ていて、何か気づいた点はなかったかい」
「気づいた点て……栗尾根、あんた、もしかして探偵ごっこでもしてるの?」
「ごっこって言うな。これは公務だよ、公務」
栗尾根は、むっとして言った。
「だって、事故死なんでしょう。あんた、無理やり殺人事件にしようとしてない?」
「疑問があるから捜査しているだけだ。保安官補として」
「ふーん」室田妹は冷めた目で栗尾根を見返した。
「どうだかね」
妹の蘭の手で頭の毛をくしゃくしゃにされたキッドは、身震いして離れると、今度は姉の凛のほうへとことこと歩いて行った。
「でも、蘭。濱口さんて、たまにイライラしているときがあったよね」
キッドの背中を撫でながら室田姉が言った。
「お客さんが集合時間になっても集まらないときとか、機嫌悪かったかも」
「短気なんだよね。気が短いっていうか。あ、同じか」と室田妹
「ほら、子供が水が怖いからカヌーは嫌だってキャンセルした家族連れがいたじゃない」
「いたいた。キャンセル料もらったし、こっちは全然オッケーだったのに、濱口さんだけ急に不機嫌になって、ずっとぶつぶつ言ってたじゃん。あれはヤバかった」
栗尾根は、テニスの観客のように途中まで姉妹を交互に見ていたが、疲れたので止めた。
「ちょっと、いいかな。濱口さんの印象が、最初と変わってきたんだが。どっちなんだよ。感じがいい人なのか、悪い人なのか」
「栗尾根って、単純」
室田妹が呆れたように言う。
「人には二面性があるってことでしょうよ。あんた、探偵だったくせにそんなこともわからないってか」
栗尾根は何か言い返したかったが、ぐっと抑えて手帳を取り出し、濱口正夫の個人情報のところへ「性格が豹変するタイプ?」と書き足した。「豹」の字はたぶん間違っている。
「それより、蘭。あのときの」
姉にそう言われて、妹はすぐに気がついたようだ。
「ああ。あれはちょっとびっくりした」
「そう。あんなところで」
「うん。何でって」
姉妹は顔を見合わせて、何事かうなずき合っている。
「あの、テレパシーで会話しないでくれるかな。そのあれについて、わたしにもわかる言葉で頼む」
「一度、変な場所で会ったんです。濱口さんと」と室田姉。
「変な場所?」
「足寄のほうなんです」
ここからだと、阿寒湖経由で100キロあまり。車で一時間四十分ほどかかる。
「擦れ違ったんだよ、車で」と室田妹。
「すんごい田舎の砂利道でさ」
姉妹は、カヌーで下れそうな新たな川を探していた。
足寄まで足を延ばし、十勝川の支流を調べていたとき、濱口が運転する車に出くわしたのだ。
「手を振ったけど、無視された」と室田妹。
「気がつかなかったのかもしれないけど」
濱口の車は農道のような狭い道から幹線道路へ出てきたところだったという。
「そのあたりに、廃墟はなかった?」
「廃墟ですか……」姉は小首を傾げて、妹と顔を見合わせた。
「さっきから何なの、廃墟廃墟って? ボロ家に何かあるの?」
栗尾根は二人の記憶を頼りに、スマホの地図を広げて濱口と擦れ違った地点を特定しようとしたが、似たような場所がいくつもあった。
「斎場はホテルに訊けばわかるかな」室田姉が言った。
「一応、お世話になった人だし、顔だけ出しとくか」と室田妹。
「ありがとう。かなり参考になったよ」
栗尾根は手帳を閉じた。
室田姉妹は、今日は客は乗せずに犬の特訓をするとのこと。そのうち、「グッドルッキングなツインシスターズに調教されたカヌー犬と下る釧路川」になるのだろうか。
キッドは自分が着せられた服がライフジャケットだと気づいて不安になったのか、帰ろうとする栗尾根の足元にくっついて悲しげにくんくん鳴き始めた。
「ほら、キッド。もう諦めな、行くよ」と室田妹。
「じゃあな、クリオネ~。へっぽこ探偵もほどほどにな」
また手をパタパタしている。
キッドは栗尾根を何度も振り返りつつ、川に浮かんだカナディアンカヌーのほうへずるずると引っ張られていった。

【9】
「困りましたな……」
栗尾根は年配の警官と向かい合っていた。
二人とも、腕組みをして眉間にしわを寄せている。
「あれは、そんなことはありえないという、たとえのつもりだったんですが」
栗尾根は足元の石を蹴ろうとしたが、アリがいたのでやめた。
山平巡査部長の肩越しにふと建物を見上げると、二階建ての駐在所の窓から、若手の警官がこちらをちらちらと見下ろしているのが見えた。
川で溺れかけた木村巡査だ。
木村巡査は、栗尾根と目が合うと(あっ)という顔をして壁の陰に隠れてしまった。
「単なる嫌がらせですので、気にせんでください」と山平。
「あなたが来たら見張れと釧路に命じられているんですわ。横に張りついて見張れと言われたのに木村の奴、あんなところから。ふがいないったらありゃしない」
ここは、閑散とした阿寒の街のメインストリートにある駐在所――その裏だった。
室田姉妹と別れ、彼女たちから聞き出した情報を確かめるため足寄へ向かって走り出したところで、山平から連絡が入った。
C川で上がったフライリールの持ち主が判明したというのだ。
永久保証の高級リールには、シリアルナンバーが振られている。
輸入代理店に購入者名が登録されているかもしれないと、昨日の電話で問い合わせを頼んでおいた。
リールは二年前に盗まれたもので、盗難届も出ていた。
場所は、道央の支笏湖。北広島市在住の釣人が、湖水に立ち込んで釣っているうちに、岸に置いたバッグごと盗まれていた。
二年前と言えば、濱口正夫がまだ道東へやって来る前のことだ。支笏湖は、濱口が住んでいた札幌や出身地の江別から車で一時間の場所。
捜査の糸口が見つかった。さすがの道警も重い腰を上げるはずだと思ったのだが――。
窓から木村巡査がまた覗いている。
「支笏湖は何が釣れるんですか?」と山平。
「主にニジマスとブラウンですね」
「ブラウン?」
「ブラウントラウト。ヨーロッパから来た魚です」
「ああ、外来魚ですか。ニジマスも確か北米産でしたかね。魚の世界も欧米が強いようですな」
交番の裏で、なぜか山平と釣り談義になっている。
「支笏湖には、日本固有のアメマスもいますよ。あとは、チップ」
「チップ?」
「ヒメマスのことですよ」
アイヌ語でヒメマスはカパチェップ、またはカバチェッポ。略してチップ。
薄い魚、または平べったい魚という意味だった。原産地は、道東の阿寒湖とチミケップ湖。
海に下るのをやめたベニザケのことだが、阿寒湖のヒメマスは支笏湖へ移植され、さらに支笏湖から青森の十和田湖、栃木県日光の中禅寺湖などへ移植された。
「ほう、それはおもしろい。道産子のヒメマスは各地で活躍中ですか。そういや、阿寒湖もチミケップ湖も紅葉が見ごろですな。今日なんか絶好の行楽日和というか……」
ヒメマスは今ちょうど産卵期。湖の浅瀬も魚たちの婚姻色で赤く染まっているだろう。









「……それはそうと、困りましたな」
山平が、また眉間にしわを寄せた。
本題に戻るようだ。
「さて、どうしますか。栗尾根さん」
北海道警察釧路署は事故は事故、盗難は盗難と別々に処理するつもりらしい。
水死体と釣具は無関係。
栗尾根が河原で口走った「たまたま同じ場所に沈んでいた」説が、皮肉にも採用されようとしている。
「濱口さんのご遺体は明日、荼毘にふされます」と山平。
「リールは持ち主に送り返され、それで幕引きですわ」
「濱口さんのご遺族は? もうこちらへ?」
「それがですね、誰も来ません」
濱口は施設育ちだった。戸籍の父親は、空欄。
母親は、小学四年生のときに出ていったまま行方知れずだという。祖母と暮らしていた時期もあるようだが、祖母の死後また施設へ戻されている。
叔父が一人、秋田県仙北市角館町に在住していた。
「連絡は取れましたが、甥の記憶はほとんどないそうで。濱口さんより、濱口さんの預金通帳のお話ばかりで。ホテルの給料の未払い分についても熱心にお尋ねでしたね」
「そうですか……」
「溺れた川も冷たけりゃ、身内もえらく冷たい仕打ちで。これから所用で釧路へ向かいますが、哀れな青年にもう一度手を合わせてこようと思います。栗尾根さんも、いかがですか」
「そうさせていただきます」
栗尾根は、濱口正夫と面会することにした。
***
「だから、ダメなんですって……山平巡査部長、お願いしますよ。これは、佐々木係長のご指示で……」
釧路署の入り口で警杖を構えたガタイのいい警察官と山平が押し問答を続けている。
「栗尾根保安官補が仏さんの冥福を祈りに来てくださったんだ。それがいけないってのかい?」
言い争う相手からは見えないように(入れ入れ)と、山平が後ろ手で合図を送っている。栗尾根は隙を見て署内へ踏み込もうとした。
「こら、待て。待つんだ」
身長は同じくらいだが太さは二倍近い警官が、栗尾根の前に警杖を突き出してきた。
「あんたはダメだ。入っちゃいかん。こら」
「騒がしいですね。近隣の方々のご迷惑ですよ」
佐々木係長が廊下の奥からゆっくりと歩いてくる。
「おや、保安官補じゃないですか。今日はどういったご用向きで?」
「近くまで参りましたので、ご挨拶に伺いました」
栗尾根は笑顔で言った。
「ついでといっては何ですが、濱口さんの亡骸に捜査状況のご報告もさせていただこうかと思いまして」
「ああ、一足違いでしたね」佐々木係長も笑顔で言った。
「事故死された濱口さんですが、ご遺体はすでにご遺族の方にお引き渡しいたしました」
「ご遺族は叔父が一人とお聞きしましたが。秋田におられて、釧路へは来られないと」
佐々木係長の顔から笑いが消え、その細い目が栗尾根の隣をにらんだ。そこには山平がいて目を合わせないようにしている。
栗尾根は、黙って前を向いたままピクリともしない佐々木係長の横を擦り抜けて釧路署の内部へ入っていった。
「ご案内しましょう」と山平。
「霊安室はこちらになります」
困惑。
嫌悪。
好奇。
敵意。
栗尾根は、警官たちの視線がぴゅんぴゅん飛んでくる署内の廊下を山平の先導で歩いていった。
霊安室。
山平がドアノブを握ったが回らない。施錠されているようだ。
「鍵」と、山平がつぶやいた。
「鍵っ!」もう一度、強く言った。
栗尾根の背後から、にゅっと鍵束を持つ腕が伸びてきた。
一人、後ろからつけていたのだ。
警官は、能面のように無表情のままドアを開けた。
眼鏡を外した佐々木係長かと思ったが別人だ。
白い部屋の中はよく冷えていた。
栗尾根は淀んだ冷気を漕ぐようにして中へ入っていった。
栗尾根から離れるなと命令されいているのか、能面の警官もぴったりとついてきた。
濱口が白いベッドに寝かされていた。
あたりには遺体が発する濁った成分と消毒液の匂いが漂っている。
二日ぶりに再会した濱口正夫は川で会ったときより、顔色がいい。
聞いたところによると性格に難がありそうだが、今は穏やかな青年だ。
司法解剖では、「死因は溺死」以外の情報は出なかった。
釧路署は事件性なしとして検視のみで終わらせようとしていた。保安官事務所からの申し入れで解剖までもっていったのだが、立ち会うことまではできなかった。どうせ嘱託の医師が、おざなりに切って開いて縫って終わらせたのだろう。
濱口の左肩から、青黒いものがと覗いている。
「山平さん」
「はい。何でしょう?」
山平が、能面の警官の後ろから顔を覗かせた。
「肩のタトゥーは見ましたか?」
「ええ、見ましたが」
二人は佐々木係長のコピーのような能面の警官を挟んで話し始めた。
「ヘビに文字みたいのが書かれているんですが、アルファベットなのか何なのか字体が独特で読めないんですわ。ただの模様かもしれません」
「ちょっと、見せてもらっていいですか」
「待ちなさい」
能面の警官が初めて口を開いた。
「許可はできません」
「北林。まあ、いいじゃないか」山平が言った。
「ほかに誰も見ていないし」
「ダメです」と能面。
「係長の命令です。ご遺体に触れさせるわけにはいきません」
「これは、捜査の一環ですので」栗尾根が言った。
能面が、こちらを向いた。
何か言うのかと思って待ったが、何もなかった。
「あの、捜査の一環……」
「もういいでしょう」能面が唐突に言った。
「ご焼香の時間は終わりです。速やかにここから出てください」
タトゥーを確認したいが、無理に見ようとすると無表情のまま飛びかかってきそうな雰囲気だ。
「ああ、思い出したよ」
能面の背後から山平がすっと顔を出して、片目を閉じた。
「麻雀のつけがまだだよ、北林」
「何の話ですか?」
「危ねえ危ねえ。忘れるとこだった。ほら、手帳にもちゃんと書いてあるべさ。1万2千5百円。おれにとっちゃ大金だわ」
「あなたに金を借りた覚えはないですけど。誰かの間違いでしょう」
栗尾根は能面が目を離した隙に、遺体の襟に手をかけ左肩をずり下げた。
「いやいや、ちゃんとここにあるべさ。ほら、見ろよ。麻雀、北林、1万2千5百円、て」
これは、ヘビというよりコブラだ。
三匹の黒いコブラが絡まっているのだが、曲がりくねったコブラの体が文字になっている。
一番上の一匹は「b」。
その下は「s」。
最後は「c」。
b・s・c。そう読めた。
ビー・エス・シー。何のことだろう?
それぞれの胴体に白抜きの文様が浮き出ている。
これも凝った字体だがアルファベット。
何とか読める。
「そんな馬鹿な……あっ、何をしている。やめなさい」
能面が栗尾根の肩を掴んで、棺から引き剥がそうとした。
「あれ? あー、ごめんごめん。これ、北林じゃなくて北森。木が一本多かった」と言いながら能面の腰に腕を回して押さえ込む山平。
「ちなみに、賭け麻雀ではないからな。雀荘の忘年会の飲み代だわ」
「山平さん。これは、何のつもりですか? ちょっと、やめてくれませんか」
山平のお陰で最後まで読めた。
black stone cobra
なるほど、三匹のコブラがそれぞれ、三つの単語の頭文字b・s・cにもなっている。
ブラック・ストーン・コブラ。
黒い石のコブラ。何のことやらだが、こんなものをでかでかと腕に彫る気が知れない。
やめてください、おい、やめろ、誰か、誰かー、と北林が能面のまま叫び出した。
警官たちが霊安室になだれ込んできたときには、山平はもう北林から離れていた。
「なんもない、なんもない。ただの勘違いだわ」
霊安室の外では、佐々木係長が待っていた。
「お帰りいただけ。丁重にだ」
栗尾根は、二人の警官に両サイドからサポートされ、もう一人に背中を押されて廊下を歩き始めた。
出口の手前で、首を無理に捩じって振り返ると、廊下の奥で佐々木係長に叱責されている山平が見えた。
山平が背中に回した右手の親指が、ぴんと上を向いている。
栗尾根は、頭を下げたまま釧路署から押し出されていった。
駐車場へ青いバイクが入ってきた。
スズキGSX-R1000は、シルバーメタリックのスズキ・ジムニーの隣に停まった。
「クリオネタカシさんですか? 網走保安官事務所よりお届けものです」
バイク便のライダーが荷物を受け渡してくれた。
A4の茶封筒が一通。中身を確認。
「ありがとう」栗尾根は、伝票にサインした。
爆音を上げて去っていく青いスズキ。
ここは、釧路署から500メートルほど離れたコンビニの駐車場だ。
栗尾根も、銀色のスズキに乗り込み出発することにした。
「あんた、また来たのか……」
釧路署の出入り口には先ほどと同じ警官が立っていた。
「何を考えているんだか。何度来たって、ダメなものはダメだよ。帰った帰った」
山平が阿寒から乗ってきたパトカーが消えている。帰ったあとらしい。
「捜査に来ました」栗尾根が言った。
「そこをどきなさい」
「勘弁してくれよ」警官が呆れたように言った。
「あんたさ。もう、網走へ帰りな」
栗尾根は、茶封筒から書類を取り出した。
「これを見なさい」
「何だ? その紙は」
「そこを通しなさい」
栗尾根が強引に入ろうとすると、警官は大きな手を広げて突っ張るように押し返した。
「今、触りましたね。よし。現行犯だ」
栗尾根は書類を両手でぴんと広げ、警官の前に再度突き出した。
「あなたを保安官代理への暴行罪及び公務執行妨害罪の現行犯で逮捕します」
「はあ? 逮捕ってか……冗談はよせって」
ガタイのいい警官がせせら笑っていた。
スズメバチが巣穴から順に出てくるように警官たちが次々と表へ出てきた。
「何ですか? この騒ぎは……」佐々木係長も現れた。
「あなた、警察署の前で何をしている?」
「たった今、この男を逮捕しました」
栗尾根は書類を掲げて言った。
「保安官代理の捜査を妨害する者は全員逮捕します」
「佐々木係長、助けてください」
警備の警官はスズキ・ジムニーの脇で栗尾根に腕を掴まれていた。
「この人、おかしいんです」
ジムニーのボディには、破いたノートが六枚貼られていた。
黒いマジックペンで、それぞれに大きく『走』『網』『用』『代』『獄』『監』と書かれている。
網、走。
代、用。
監、獄。
この車が、監獄なのだった。
「こ、これは、何の冗談ですか?」
佐々木は引き攣った笑顔で言った。
「北海道保安官法に基づいた代用監獄です」
栗尾根は《北海道保安官心得帖》を掲げて、警官たちの前で条文を音読した。
第十九條
保安官及ビ保安官代理ハ保安官及ビ保安官代理ノ職務執行ヲ暴行又ハ脅迫ニヨリ妨害スル者ヲ其ノ者ノ公務又ハ其ノ者ノ職務ニ関ラズ逮捕拘禁スル権限ヲ有ス
「北海道では公務において保安官優先の原則があることはご存知かと思います」
「は?」
「裁判所職員を除くすべての公務員が対象となります。国会議員などの公職も例外にはあたりません」
「へ?」
第二十四條
保安官及ビ保安官代理ハ保安官事務所ニ附属スル留置場ヲ刑事施設ニ代用スル権限ヲ有ス
但シ懲役又ハ禁錮ニ処セラレタル者ヲ四十日以上継続シテ拘禁スルコトヲ得ズ
「この車は保安官事務所の附属物として登録されていますので、これは保安官事務所の正式な代用監獄となります。この車の中で、最大三十九日間拘留できます」
「……うー……」
佐々木係長は、もうどう反応していいかわからない様子だ。ほかの警官たちも困惑している。
「野外での公務を想定した臨時の代用監獄の具体的な仕様については、こちらの第二十五条に……」
「もういい」と佐々木係長。
「で、あなたはここへ何をしに来た? そんなカビ臭い条文を振り回して、警察に嫌がらせをしに来たのか?」
「とんでもありません。わたしは保安官代理として捜査に来ました」
栗尾根は佐々木係長の目の前で、書類を広げた。
「裁判所が発行した保安官令状です。釧路署は、入手した証拠品を隠匿、隠滅するおそれがあります。わたしは保安官代理として、これより濱口正夫の所持品の差し押さえを執行します」
「差し押さえ? 警察から?」
佐々木係長は、警官たちのほうを向いて言った。
「この人は、何を言っているんだ?」
保安官令状――栗尾根も実物を見るのは今回が初めてだった。
保安官及び保安官代理の管轄区とそれに隣接する総合振興局内に効力を持つ、強制捜索、強制差し押さえ、強制その他諸々が可能となる言わば保安官事務所のガサ状だ。
この紙切れ一枚で、保安官は取り調べ中の警察署だろうが診察中の病院だろうが堂々と入っていける。
実際、汚職の追及を逃れて入院した政治家を病室のベッドから引きずり出した保安官がいた。昭和三十年代のことだ。
聞いた話では、道路封鎖や物資の徴発も可能だという。
無法は恐ろしいが、法はもっと恐ろしい。
これは、蝦夷地開拓の乱暴な一面が凝縮された血塗れの紙切れなのだが、意外と簡単に下りたものだ。
令状請求書に追記された「本件において北海道警察釧路署との見解の相違が重大なレベルに達したため……」の一文も効いたのだろうか。
「わたしに触れた者は、捜査妨害とみなします。現行犯として、この監獄へ入ってもらいますが、よろしいですか?」
警備の警官が騒ぎに乗じて栗尾根の腕を振り払おうとした。
「その行為は、脱獄になりますよ。かなりの重罪ですが、よろしいですか?」
「何だ、この馬鹿げた事態は……」佐々木係長は絶句した。
「……誰か、法務に詳しい者は? 北林!」
「はい」能面の警官が、出入り口に立ち尽くす警官たちの中から一歩前へ出た。
「どうなんだ? これは、適法なのか? 本当にこんなめちゃくちゃが許されるのか?」
能面の北林は、無言のまま無表情で立ち尽くしている。
「おい、どうなんだ?」
「大変申し上げにくいのですが」
北林が口を開いた。無表情のまま考え中だったらしい。
「保安官代理のおっしゃるとおりです。保安官令状の効力はすべての警察権より上位になります」
「何だと……」また絶句する佐々木係長。
「戦前の留萌の事例があります。昭和十二年、留萌署と留萌保安官事務所が捜査権を巡って争いました。留萌署の刑事が親族に関する事件で捜査資料を改竄した疑いが内部告発され、留萌の保安官が令状を持って警察署へ乗り込んだのです」
「それで?」佐々木係長が北林に詰め寄った。
「どうなったんだ?」
「抵抗した留萌署の署員八名が、豚小屋に収監されました」
「豚小屋? 豚箱だろう?」
「いいえ。そのときは、本物の豚小屋が代用監獄に指定されたようです。記録では三日後に解放されました」
その事件は、栗尾根も初めて聞いた。
昔の保安官は強かった。
あとでわかったことだが、ご当地の留萌、増毛、小平では、長いこと署内でカツ丼、豚丼がタブーだったようだ。
「しかし、戦前の話だろう。今は……」
「保安官法の条文は明治から改正されていませんので、現在も同じことが可能です」
「豚小屋に豚と一緒に三日間……」
佐々木係長の肩が、カクっと一段下がったように見えた。
開墾のはじめは豚とひとつ鍋……。十勝開拓の父、依田勉三の言葉だが、佐々木係長の脳裏にそれが浮かんだかどうかは定かではない。
「あの、お話し中のところすいません」と栗尾根。
「捜査資料を提出していただければ、令状は取り下げます。代用監獄も撤去いたしますが、いかがなさいますか?」
佐々木係長が、こちらを向いた。
蒼ざめた顔で何か言いかけたが、黙って顔を背けてしまった。
「わたしも、できれば令状は使わないほうが、報告書が簡単になるので助かるのですが」
警察署で何やら起きていると、立ち止まる釧路市民も増えてきた。
「全部持ってきてくれ」
佐々木係長が署員たちに向かって言った。
「全部だ全部」
たちまちダンボール二箱分の遺留品と資料が出てきた。別所に保管されていた濱口の車の中も確認させてもらった。
「ご協力、大変ありがとうございました」
栗尾根は、釧路署をあとにする。
二度と来るな、このくそが、とはっきり聞こえたが気のせいだろう。

【10尾目】【11尾目】【12尾目】