掌編小説『三月九日』(※BL)
カラオケを出ると、すっかり日は傾いていた。
それはそうだ。卒業式が終わってからクラスみんなでファミレスになだれ込んで二時間、そのままカラオケに流れてフリータイムで四時間。それでもまだ俺たちは雑居ビルの前でだらだらとたむろしている。みんなで集まるのも、制服を着るのもこれが最後だと思うと、皆ここを離れがたいのだ。
「ていうかお前、全然歌ってなかったじゃん。矢沢栄吉はどうしたよ? 十八番の『十五の夜』は? ぜってえ歌うと思ってたのによ」
ツレの坂下に背中からのしかかられ、俺はうっせえよと悪態をついた。 呑気にそんな歌を歌えるわけがない。ほとんど八つ当たりで坂下の腕を振り払ってそっぽ向くと、賑やかな俺たちのグループから少し離れて立っている藤堂と目が合った。彼はわずかに目を柔らかく細める。
それはよく見ていないとわからないくらい小さな微笑だ。でも俺は、それが藤堂の最大限の笑顔だと知っている。その内側の繊細で柔らかくて、でも絶対に折れない鉄骨のように固い精神が隠れていることも知っている。この一年、それを良く知るくらいに俺は彼の隣にいた。だけどそんな日々も今日で最後だ。俺はぐっと奥歯を噛み締めた。
今日いちにち、藤堂と一言も言葉を交わさなかった。正確に言えば交わせなかった。 ずっと迷っていたのだ。彼に好きだという気持ちを伝えるかどうか。
男が男に告白するなんて、相当なリスクだ。あっちがなんとも思っていなければ友人関係はジ・エンド。
だけど告白しなければ友人のままで疎遠になるのは目に見えていた。藤堂は医者になるために東京の大学にいくし、俺はこの東北の田舎町に残って小さな植木屋で働く。たいした共通項もなく、これから向かう方向も飛距離も違う俺たちの道が交わるとはどうしても思えない。このまま別れれば、そっちはそっちで恋愛的にジ・エンドだ。わかっているのにその一歩を踏み出せない自分が情けなくてしょうがない。
はあと小さくため息をついてもう一度藤堂の方に目をやると、そこに彼の姿はなかった。慌てて隣にいたクラスメイトの肩を揺さぶる。
「なあ、藤堂は? さっきまでそこにいたよな?」
「ああ、帰ったんじゃね?」
帰った? 冗談だろ? 急激な焦りが足元からよじ登ってきた。今日は卒業式で明日から学校はない。だからこそ今日絶対に伝えなければならなかったというのに。
「藤堂家のお坊ちゃんは門限があるだろうし?」
「それにあいつはゲーセンなんて行かないだろ」
「だな」
はははと盛り上がる友人たちを押しのけるようにして、俺は駅前通りを駆けだした。
「え、おい、森! どうしたんだよ!」
「ゲーセン行かねえの⁉」
背中にかかるクラスメイトたちの慌てたいくつもの声に「わるい! また今度!」と返す。雑居ビルが並ぶ通りをひた走りながら、俺は目の前の通りに目を走らせた。この先は丁字路になっていて、二手に分かれている。
駅に続く道なら左だ。帰るつもりなら左。でも右に行けば商店街で、藤堂と何度も行った公園がある。どっちだ。
うぬぼれているわけじゃない。だけど俺の足は勝手に右の通りへと動いていた。
西日が差し込む商店街は、買い物客と学校帰りの学生が入り混じっていた。そんなゆるい空気の中で、一人だけぴんと張った背中が見える。
「藤堂!」
俺の声が通りに響き、細い彼の背中が立ち止まった。そしてゆっくりと振り返る。
「……森か」
向き合った藤堂に、驚きの表情はなかった。でも笑顔もない。どちらかと言えば無表情に近い固い顔で、さっきまで奮い立っていた気持ちが徐々にしぼんでいく。
「どうしたの? 何か用事だった?」
「いや、何か用事っていうか」
俺は言葉の続きを捕まえ損ねて、地面に目を落とした。しんと静まり返った二人のそばを、チリンチリンと音をたててママチャリがすり抜けていく。オレンジ色の西日に包まれた商店街は過不足なく平和で、余計に焦りがつのっていく。ぐっと拳を握りしめた。
言え。言うんだ。好きだって。
これを逃したらきっと一生言えない。俺は息を吸い込んで顔を上げた。
「あの、俺――」
「またメールくれる?」
被さるように掛けられた言葉に、胸から空気がわずかに漏れて「は」という音になった。
「手紙でもいいよ。あ、でも君は筆不精そうだね」
メール? 手紙? なんのことだ?
俺は呆気に取られながら目の前の藤堂を凝視した。伏せられた黒く長いまつげが細かく震えている。何かを耐えるような表情にはっとした。
「違うんだ、藤堂。俺は……」
ふいに藤堂が顔を上げた。
一度も染めたことのない彼の真っ黒な髪の輪郭が、西日で赤銅色に透けていた。綺麗に切りそろえられた前髪の下で、薄茶色の瞳がまっすぐにこちらを見る。
信じられないくらいきれいで、思わず息がとまった。
「なかなか会えなくなるけど、元気でね」
藤堂はそう言うとくっきり笑った。
無理やり膨らませた気力が、胸の中でしぼんでいくのがわかった。それどころか自分の芯のようなものががりがりと削られていく。そして削り過ぎたえんぴつの芯みたいに、ぽきりと音を立てて折れた。
俺の気持ちはとっくにばれていたのだ。今俺が「好きだ」と言おうとしていたことも予想していたに違いない。全部わかったうえで、藤堂は俺の言葉を遮った。
俺が傷つかないように。細い線でもいいから、これからも俺たち繋がっていけるように。
完敗だった。わかっていたはずなのに、彼は俺なんかよりもずっと聡く、優しくて強い。そして泣きたくなるくらい遠くて手が届かない。
はあ、と小さく息を吐き出して、それから腹に力を込めて口を開いた。
「こっちに帰ってくるときは連絡くれよな。みんなで飲みに行こうぜ」
「何言ってるの。未成年のうちはお酒はだめだよ」
あははと笑う彼に、俺は「じゃあまたカラオケでも行こう」と言った。それがだめならボウリング行こ。ごめん、僕ボウリング好きじゃない。それなら釣り。釣りはやったことないな。え、いいじゃん、海釣り行こうぜ。
考えつく限りあらゆる場所を挙げながら、同時に俺はわかっていた。
カラオケにもボウリングにも釣りにも、俺たち行かない。メールも手紙もすぐに出さなくなる。藤堂はこれから東京の大学に行って彼自身のように選ばれた人たちと出会い、俺のことなんてすぐ忘れる。澄んだ水槽の中をそれなりに泳ぎ、あのきれいで清潔な顔で少しだけ笑うのだろう。そして何年もあとに、あんな奴もいたな、なんて俺のことを思い出す。なんて残酷なんだろう。でも時の流れを止めることはきっとできない。
「じゃあ、またね」
藤堂が右手を差し出した。さよならの挨拶が握手だなんて藤堂らしいな、なんて思ったらおもわず笑ってしまった。
「ああ、またな」
右手を差しだして彼の手を握った。初めて触れる彼の手のひらは冷たかった。慎重な握手は一呼吸ほどでほどかれ、指が離れていく。
もう一度小さな声で「じゃあ」と言うと、藤堂は踵を返して歩き出した。もう俺の方を振り向いたりはしない。まるでずっと向こうへ伸びていく一本の線の上を辿るように、藤堂は几帳面なほどにまっすぐ歩いていく。
『お前のことがずっと好きだった』
伝えたかった言葉は吐き出すことができずに、喉のまんなかあたりに引っかかったままだ。喉を掻きむしりたくなるほどに苦しい。でも同時にずっと引っかかっていて欲しいと願ってしまう。すとんと腹の中に落ちていってしまったら、きっと消化してしまう。分解して再構築して、そしてまったく違うものとして俺の中に残ってしまう。そして本当の藤堂の姿ではない、俺が作り出した偽りの藤堂が、俺の中に残る。
そんなのは嫌だ。俺は彼の声も姿も眼差しも、そっくりそのまま残しておきたい。たとえその残骸が喉に詰まって息が出来なくなってもいい。だって死にそうなくらい好きだった。
西日がゆっくりと傾いて、じわじわと背後から夜が迫ってくる。俺は馬鹿みたいに突っ立ったまま、藤堂のまっすぐな後姿を見つめ続けた。金色の光の中で細い背中はゆらゆら揺れて、やがて溶けて消えた。
(了)