お世話になります。第9期卒の清水政明です。いまの若い学生さんには聞き慣れない言葉かもしれませんが、我々の学生時代には「プー太郎」という言葉がありました。今でいう「フリーター」ってところでしょうか?要するにいい年して定職もなく、ユメだけを追ってバイトで食いつないでいる人らのことです。何を隠そう私清水も丸々1年間をこのプー太郎という身分で過ごしたことがあります。この前のきむすんみの「一期一会」を読んで、そして今日美佳さんと話していて、その時のことが懐かしくてたまらなくなり、今回書かせてもらっています。
まず、なんでベトナム語専攻に入ったのか?から始めないといけないのですが、高校時代からオオサカ・ガイダイへの強烈なあこがれがあって、というかありすぎて、英語しかできないのに進路相談室に行って、自分の共通一次試験(今の共通テスト)の点数で入れる語科(今の専攻)があるかと相談すると、相談員の数学の先生に「まあベトナム語くらいやったら可能性あるかもね~」と言われ、言われるがままに受験したのがきっかけでした。英語が好きな人間にとって、英語だけを勉強していてワンチャン受かるかもしれない国公立ということで、これほど素敵な大学はありませんでした。そして(たぶん)ぎりぎりで合格した時には嬉しくて嬉しくて、堂々とそびえる旧箕面キャンパスの墓石階段がまぶしくてたまりませんでした。入学当初は、やっぱり英語が好きだし仮面浪人をして1年後に英語科に挑戦しようと密かに決めていたのですが、たまたま入ったベトナム語科で冨田健次先生とレー・ヴァン・クアン先生に出会い、ベトナム語とチュノムの魅力に完全にはまってしまいました。そして、ずっとそのベトナム語とチュノムの勉強をして今に至るという感じです。これが私の大学入学時18歳から54歳の今まで36年間の人生です。一度も飽きることなく、ベトナム語とチュノムを勉強し続けて、多分これからもずっと飽きることはないと思います。
こんな風に言うと、清水の人生順風満帆、学者王道まっしぐらかー!?って感じで興醒めですが、この不器用な清水に限ってそんなことあるわけありません。学部が終わって何の迷いもなく大学院に入ったはいいものの(途中ギター部でギターにはまり3年生の時は単位ギリギリでしたが・・・)、当時ベトナム語科には修士課程までしかなくその先路頭に迷い、京都の某大学の院に入りなおそうと思ったのですがそう甘くはなく、1年間院浪人をしました。さてここが大事です。院の浪人と学部の浪人は意味が違います。要するに18、9の浪人生は世に万といますが、26の浪人って、へ?どういうこと?ってなります。こういう人間を当時の人々は「プー太郎」と呼んでいました。
ここからが本題です。その1年間一番困ったことは自己紹介するときと名刺をつくるときです。奨学金もないし、バイトするしかないのですが、自分にできることはベトナム語を使ってやること限定・・・職種は極端に限られます。その上、名刺に書ける肩書がなくて、苦し紛れに「ベトナム語学 清水政明 住所・電話」と書いたのを覚えています(この前の引っ越しで1枚見つけました!)。それまでどれだけ冨田先生や大学という組織に頼っていたのか思い知りました。それも大概辛いけど、26歳にして院浪人という、来年は受かる保証もないのにいい年して浪人していることも相当辛かったです・・・。そう、この「辛さ」って一体なんなんでしょう?当時の心の支えは、留学時代に買った何冊かのベトナム語の本と付き合っていた彼女でした。今から思えば、既に某大手銀行に勤めていた彼女はどのタイミングでこいつに別れ話を持ち出そうか考えあぐねていたかもしれません・・・
実は、私は生まれつき人の肩書と年齢が覚えられません。おもろい人かどうかしか記憶に残らないのです。ひょっとしたら家庭環境の影響かもしれません。大家族で、小さい頃からいろんな人が家に来てはおもろいことを一杯話してくれましたが、その人がどういう人か覚えられませんでした。というか訳ありの人が多くて言えなかったのかもしれません。そのおもろいというのも私の勝手な尺度で計るので、きわめて主観的で癖があります。大人になって大分ましにはなりましたが、基本そうです。ワンピースのルフィーがよく「おまえおもしれーなー俺と海賊やんねぇか?」って言うでしょ。そしてついてくる奴らはいわゆる変な「おもろい」奴ばっか。あの感覚非常にしっくりきます。ところが、日本って(というか京都?)どうもそれが通用しないんですよね。名刺になんかちゃんと書ける肩書がないと、どうも生きづらい・・・そんなことをプー太郎時代に思い知りました。
プー太郎・清水@HCM市Hy Vọng 8校
故村瀬裕君が留学時代ボランティアに勤しんだ学校です!
今思えば、あのプー太郎時代につきあっていた人たちが、いわゆる一生の友(兄弟)な気がします。肩書のない私とずっとベトナムの話で盛り上がってくれた人たち。そして、気がつけばその人たちは今、世の中的にはそれなりのカタガキを背負って生きています。中には今もそれがない奴もいます(某カナダ人とか)。そういうやつら(人ら)って20年ぶりに会っても、昨日まで一緒にサイゴンで飲んでたみたいな口調ではなしかけてきてくれます。ただ、そいつら(人達)には本当にお世話になりました。ずっと心掛けてきたのは、お互いのこだわりを理解し合って、頼まれたことはよほどのことがない限り極力断らずに手伝ってきました。お金になるときもあったし、ならなかったときもありましたが、どれもお互いにとっておもろい経験でした(と私は思っています)。
往々にして後付け的解釈ですが、そして繰り返しになりますが、そこで付き合ってきた奴ら(人ら)が今の私の仕事仲間(職場とは別)とほぼ重なっています。ベトナム、ベトナム語、チュノム、我々の時代にはどれをとっても世の中的に「それに自分の全てを賭ける意義」を説明するのが難しかったですが(チュノムは今もそうですが…)、それをとことん理解してくれた人ら。言うまでもなくその筆頭は冨田健次です。そしてとことん甘えられる冨田先生は別にして、彼らに頼まれる仕事には全力で対応してきました。おもろいからです。それが今思えば私の「プー太郎」道と言えるかもしれません。
長々と失礼しました。最後になりますが、私のおもろいことに付き合って下さった人たち皆さんに心の底からお礼を申し上げます。そして、もしここまで読んでくれた人がいたら私的に相当おもろい人かもしれません(^^;
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