見出し画像

プー太郎道からおもろい基準、もし両方とも読んでくださった人がいたら、正式に「おもろい人」認定させて頂きます!ただただ感謝です!そして、その写真のキャプションにしつこく登場してきた村瀬って一体だれ?と思った若い人がいるかもと思い、懲りずに今日も書かせて頂きます(^^;

村瀬裕、長野県の名門松本深志(ふかし)高校卒業後、1990年4月大阪外大ベトナム語科に入学。日本中にその名を轟かせる深志高校在学時、親友と日本の社会を変えようと、その親友は政治家になって上から、自分は教育者になって底から変えてゆくことを誓った。私立の最高峰早稲田大学に合格するも、なぜか大阪外大ベト語科入学を決心する。(その大切な理由の部分の記憶が…ない_| ̄|○) そして、大学入学と同時に本気でベトナム語とボランティア活動に取り組む。その出色振りは、例えば冨田先生が、同期の比留間洋一(現静岡大教員)と一緒に1年終了時の留学を可能にするべく奔走されたという前代未聞の取り計らいをされたことからも窺える。
 留学中も様々な場所で、障碍を抱える子供達、日本語を学ぶ人達のサポートに勤しんだ。プー太郎道の写真「第8区希望学校」は彼の活動拠点の一つ。また、京都室町の呉服屋に来ていたベトナム人実習生の中に、ベトナムで彼から日本語を学び、日本語・日本文化の素晴らしさに目覚めたというChi という名の女の子がいた。一眼見て村瀬に想いを寄せていることがわかった (^^)
 そんな彼が、ある日突然、来世に旅立って行った。1993年4月29日、新家寮を引き払っていざプー太郎生活開始!という矢先、比留間から京都の自宅に電話があり「村瀬が…交通事故で…」と声を詰まらせ、そのすぐ後に冨田先生が「そうなんだよ、清水…別れる時ってこんなもんなんだよ…」と。この時ばかりは「こんなもんってどういうことですか!僕には全然わかりません…!」と泣き叫びながら先生に喰ってかかった… (; ;) 新家寮の大家高地さんと一緒に最後のお別れに出た時、彼の棺を抱き抱えるように泣き崩れていた車椅子の男の子の慟哭の声が今でも夢に出てくる…

さて、村瀬君となぜこれだけ親しかったのかと言うと、既に何度か登場した学生ハウス新家寮という学生寮に共に住んでいたことが大きいと思います(おもろい基準掲載写真がその跡地!)。確か彼が留学から帰ってきた後だと思いますが、事あるごとに(っていうかない時の方が多かったかも)、2階の彼の部屋か1階の私の部屋で、タバコをバカスカ吸いながらなんだかんだ駄弁ったり、時々面白い本を交換したりしてました。彼が貸してくれた本で、寮を出るときにメッセージ付きでプレゼントしてくれたのは、無着成恭編の『山びこ学校』、私からどんな本を貸したか全く記憶がないのですが、唯一、成人対象娯楽書籍(当時は紙媒体でしか存在しなかった)を丁重に返しにきてくれたことだけはよく覚えてます。(ギター部の奴らに貸しても大体返ってこなかったからかも…)

村瀬君の手紙

『山びこ学校』に添えられた村瀬のメッセージ、この丁度1ヶ月後に…

丁度プー太郎生活をしていた時期と村瀬の喪失感に耐え凌いだ時期が重なっていて、正直辛かったです。でも今、ベト語共研に飾られた彼の遺影を見るたびに、その辛い思い出と清々しい奴の笑顔が交互に蘇ってきて、専攻のこととか学生さんのこととか、どうしようかって悩んだ時にはこっそり眺めに行ったりしてます (^^;
 美佳さんも共研3部作に書いてたけど、ベト語共研って我々ベト語人それぞれにとってかけがえのない思い出で溢れてるんですよね〜!そんな訳で、在校生の皆さん、他の専攻に比べてちょっと(いやだいぶ?)狭いけど、どうか許して下さい (^^;
 以上、9期卒清水でした。何度も失礼致しましたm(. .)m

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?