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Trái đất này nhỏ bé!  1周回って2周目のベトナム(前編)

 こんにちは!
 12期生(1992年卒)の櫻井理恵と申します。本当は山本です。現役生の皆様「柿の人」でございます。結婚して20年以上経ちましたが、今でも旧姓の「櫻井」で呼ばれております。困ったもんです。現在は佛教大学の非常勤講師としてベトナム語の会話と文化講義の授業を担当しております。
 今回、何度も何度も断ったのに超超超強制的に今田さんから原稿の執筆を依頼されました。この私に歯向かえるのは彼女くらいですな。おほほ。。。
こちらには沢山の現役生の皆さんが素敵な投稿をされていますね。私が学部生の頃、こんな立派な文章が書けただろうか?そもそも、こんな考えを持って学生生活を送っていただろうかと思うと、もう一度学生時代をやり直したいと反省しきりです。
 どの記事も素晴らしいのですが、特に何度も読み返してしまうのが、2020/11/18付の高野さんの記事です。これは正に「言葉」は単なる伝達のツールではなく、「(相手に)自分の考えを分かってもらいたい」という気持ち、「(相手を)理解したい」「心を通わせたい」という気持ちを持って初めて「言葉」が生き、生きたコミュニケーションが成立するのだということを語ってくれています。まだ読まれていない方は是非、私の記事なぞブッ飛ばして高野さんの記事を読んでみてください。

 ブッ飛ばさなかった方、仕方ありませんね。私のことを読んでいただきましょう。…言っとくけど、長いよ。

 私の幼少期は所謂「ボートピープル」の時代。連日、ベトナムからの難民船が海を渡ってくる様子がニュースで流れていましたので、私の潜在意識の中には「ベトナム」という言葉がシレ~~っと入っていました。
 その頃の私は「言葉」について考えることが大好きで、五十音表の「あ」の字を眺めて「誰がこの字を『あ』って読むって決めたんだろう?」と考えたりしていました。文字の形なども好きでしたね~。中学生くらいからは自然と外国語にも興味を持つようになっていました(学びたいとは思っていないんですよね~(;^ω^))。
 ただ、適性検査を受けると、結果は語学が8位で、最も嫌いな教育が1位。高校時代の3年間、この順位が変わることはありませんでした。でも、私は適性検査の結果をガン無視。語学をやるんだ!と突き進みました。偶然、その時期に「枯葉剤」の影響で結合双生児として生まれた「ベトくん、ドクくん」のベトくんが急性脳症を発症し、日本で緊急手術が行われるという報道がありました。日本では「ベトくん、ドクくん」のことは出生時より度々日本で報道されていましたので、私の脳ミソの片隅に保存されていた「ベトナム」が自然と再浮上してきて「よし!ベトナム語だ!」と決断しました。高校の先生方は「大阪外大は今の成績では厳しいし、語学は君の適性ではないから」と、地元大学の教育学部を進めてきましたが、「人に教えるなんて絶対に嫌!」と、これまたガン無視!大阪外大ベトナム語を第1志望として強行しました。

 このサイトには何名かのOB・OGの方々が寄稿なさっていて、皆さん「自分は劣等生」と書かれていますが、私は彼らを知る先輩として「そんなことはない!」と断言できます。「劣等生」は紛れもなく私。いや、もう、ホンマに!マジで!ヤバいよ?例えば、自信満々に書いた答案用紙でも、声調の間違いが異常に多く、同期生と比べても倍以上の量。1ミスで-1点の減点法で採点していた冨田先生も私の答案は1ミス-0.5点という温情。介母音の上に声調を打った友人が✕なのに、同じミスをした私は◯。理由を聞いた友人に先生は「そうしないと櫻井は点数がなくなるんだよぉ~~。」つまり、厳しい先生方に慈愛の精神さえ芽生えさせてしまうくらいの悲惨さだったんですよ。。。
 小説を翻訳したら、登場人物が増える、死んだ人が生き返る、好青年がストーカーになる等々、もはや「翻訳」ではなく別の作品。頑張っても、頑張っても、単語を正しく覚えられない。ただ書き写すという作業ですら、ちゃんと見ながら書いても、何度見直しても、沢山間違っている…。ここまでくるとイリュージョンですね~。ある時、冨田先生に「君は語学に向いていないねぇ。人の10倍頑張って、やっと人並みになれるかどうかくらいだよぉ。」と言われ、「適性」というものを悟りました。とほほ…(;^ω^)

 ベトナム語専攻は小さな学科ですから学年の垣根がなく、先生も学生もみんながまるで大家族。これは今も昔も変わっていない特徴であり、誇りでもあります。
 劣等生の私は2年から3年に上がる時に留年。それでも留年当日に「よし!飲もう!」と先生や友人たちと北千里の「まござ」(もうないみたいですね~)で「残念会」をやったり、経済的に困窮している私に「櫻井!ちゃんと食べてるか?」と先輩方が学食を奢ってくださったり、先生方がお弁当のオカズを分けてくださったりで、勉学の辛さも貧乏も楽しさに変えられる世界がベトナム語学科にはありました。今もあるよね!あ~~!貧乏と言えば、客員教授のフン先生に研究室に呼び出されて、何事かと訪ねてみると、いきなり「サクライ~アナタ~~ビンボ~。Nghèo lắm!! フンセンセ~、サクライサンニ、オコズカイ、アゲマ~~ス!」と言って、1000円もらったことがあります。わざわざベトナム語でNghèo lắm!!(とっても貧乏)って念押しすな!!(;^ω^) 

 劣等生ではありましたが、「ベトナム語」は大好き。寝る前にTừ điển tiếng Việt(越越辞書)を捲って眺めるのが好きでした(読んではいないんですよね~ (;^ω^))。子音や母音の組み合わせの偏りが気になり、その中で卒論のテーマとして「表象現象」というものを取り上げました。難しい文法の論文も意味が分かると楽しいですし、面白い表現を見つけると嬉しくなって、実際にどんな風に使うのか、当時はまだまだベトナム人も少なかったので、ツテを頼りにベトナム人の先生方を訪ねて質問攻めしまくりました。今考えると恐ろしく失礼な学生だったと思いますが、どの先生方も親切に丁寧に教えてくださいました。人によって組み合わせや声調や使い方が違うのも不思議で面白かったですし、興味のある題材でしたので卒論はワクワク楽しく書けました。勿論、卒論は一朝一夕には書けません。自分の手足を使って地道に調べて、分析や考察が上手く行かなくても、1つのアプローチがボツになっても、その過程は決して無駄ではなく「このやり方はダメということが分かった」という「発見」だと思って、別の方法で分析・考察を何度もやり直しました。あの頃、一番真面目だったかもww。

↓↓↓卒論ノートに書かれたフン先生の説明イラスト

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 そして冨田先生から「ベトナム語についての論文だけれど、ベトナムやベトナム語のことを知らない人が読んでも理解できるような文を書かなければダメ。独りよがりなものでもなく、自己満足でもなく、自分の考えを『伝えたい』『分かってもらいたい』という気持ちで書きなさい。」とアドバイスを頂きました。冒頭で紹介しました高野さんの考えにとても近いと思います。


後編はコチラ


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