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初めまして、ベトナム語専攻4回生の達富穂高です。僕は去年の9月末から今年の3月頭までハノイに留学していました。ベトナム語を専攻している身でありながらお恥ずかしいことですが、この留学が初めてのベトナム渡航でした。そのため、様々なカルチャーショックを受けたことを記憶しています。今回は、ハノイ生活でも特に印象的だったベトナムの交通事情についてお話できればと思います。

ベトナムの交通事情で欠かせないのはやはりバイクですね。「バイク大国」との呼び名の付いていることから覚悟はしていたものの、市内に入るやいなや道路を埋め尽くさんばかりのバイクが走っており、衝撃を受けました。自分の乗っているタクシーの前後左右を縫うように割り込んでくるうえ、車間距離がほぼゼロであったため、後部座席でヒヤヒヤしていたことが思い出されます。これを皮切りに、日本では考えられない文化を次々と肌身で感じることになりました。
バイクの話題が続いてしまいますが、その縦横無尽さにも驚かされました。バイクは小回りが効くので、歩道に乗り上げてショートカットをしたりちょっとした逆走をしたりと、日本だったら一発アウトな光景がよく見られました。上述の通り割り込みや急な車線変更がかなりの頻度で見られるので「よく事故起きないなぁ」と思っていました。
また、二ケツどころか三ケツ四ケツをしている人が非常に多いです。一家全員が一つのバイクに跨っているのを初めて見た時は、思わず咽せてしまうほど衝撃的でした。バイク自体が資産になるという市場価値と併せ、ベトナム人とバイクは本当に切って離せない繋がりがあると改めて思えた出来事でした。
そして、最も心臓に悪かったのは道路の横断です。ベトナム経験のある人は共感していただけると思うのですが、歩行者として街に出た時の第一印象は「え、これどうやって渡るの?」でした。日本では大通りに出ると信号機付きの横断歩道が並んでいるのが当たり前ですし、なにより歩行者優先の道交法があります。しかしベトナムでは車の方が優先され、「渡りたいなぁ」という素振りを見せても止まってくれることはありません。そして教えてもらったのが、立ち止まらずゆっくり歩くという渡り方です。急な動きをすると逆に危険というのは理解できるのですが、じわじわとした恐怖感をさっさと拭いきれないというのはかなりキツいものがあり、慣れるまでは山間道路を渡るシカやタヌキへの同情の気持ちが絶えませんでした。

しかしこれらの危険そうな様子とは裏腹に、ベトナムの交通事情にはどこか「余裕」が見え隠れしているように思いました。というのも、交通のスピードが日本と比較してゆったりしているんですよね。道路が広ければ交通量も多いので、スピードを出そうにも出ない感じだと思います。ただ、これらはあくまで環境要因なので、ベトナムに限らずこういった光景は起こりえます。ではなぜベトナムの交通事情に安心感にも似たゆとりを覚えたのか。それにはベトナム人の国民性が大きく関わっているのではないかと考えました。僕がこの考察に至ったのは、音でした。

ベトナム生活にも慣れてきた頃、ふと気付いたことがありました。ベトナム人、クラクションの鳴らし方が日本人と違う、と。日本ではクラクションは無闇矢鱈と鳴らすものではなく、基本的には目の前の歩行者や車両に危険を知らせる最終手段としての役割があります。一方でベトナムでは見通しの悪い曲がり角の直前や、車線変更前にクラクションを鳴らしていることが多かったのです。ウィンカーや夜間のハイビームと似た使い方でしょうか、「そこ通りますよ」「曲がり角から自分が出てきますよ」というニュアンスで鳴らされているようでした。そのクラクションに合わせてバイクの群れが車のために道を開けていく様子に、人々の思いやりと連帯感が見出されました。日本語は読み書きへの比重が大きく視覚情報を判断基準にすることが多い(空気を読むのもその一種?)のだとすれば、ベトナムは音に比重が置かれているため聴覚情報で人の意思を察する……なんて仮説を立てて研究するのも面白そうですね。
……本筋に話を戻しましょう。
大通りに出ればあちらこちらでクラクションが鳴っており、それが日本人からすると割とうるさいくらいの量であること、そう感じている人も少なくないことも承知しています。ここで僕の思い出話にはなりますが、インドの話をさせてください。僕は以前インドに渡航したことがあり、そこでの交通事情を目の当たりにしました。大通りに出るやいなやクラクションの大合唱、常に四方八方からけたたましい音が鳴り響いており、あの国ほどクラクションの元を取りにいっているところはないと、そう刻みつけられました。個人の記憶のため説得力は無いに等しいのですが、ベトナムは比較的控えめであるように思いました。ベトナム人はそこまでせっかちではなく、たとえ渋滞に巻き込まれても他人を急かせるような空気感がないというのが強く感じられました。

こういった時間のルーズさや交通の自由奔放な振る舞いの基となる「他人に迷惑をかけない範囲だったら多少自由に振る舞っても大丈夫」というのびのびとしたスタンスと、他人を思いやるベトナム人の繋がりが、道路の上に広がる妙な安心感に作用しているのだと思います。
以前、冨田先生が著書で「日本人もベトナム人の国民性を見習った方がいい」との意見を述べられていましたが、遅ればせながら非常に共感できました。その当時とは生活様式や発展事情は大きく違いますし、かぶれのように捉えられてしまうかもしれませんが、僕の中では価値観の刷新につながるとても貴重な体験でした。

日本人には、規則を一種神のように崇めた結果「べき論」に囚われ、誰も見ていないところですら肩の力が抜けないという悪い癖があります。円安の影響もあり、最近では東南アジアに旅行する日本人が多いと聞きますが、ぜひ多くの方々にベトナムを訪れてもらって、「こういう生き方でいいんだ」と人生に余裕をもつ機会にしてほしいと思っています。

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