【コラム これからの保育のために】第9回 学習性無気力をふせぐ
前回の続きから
保育・子育てにおける学習性無気力はほうっておけば起こるべくして起こります。
保育士資格を取ったからといって子供への対応がうまくなるわけではないですよね。子供が生まれたからといって子育てがうまくなる人がいるわけでもありませんね。
子育て支援で考えても、「親なんだからがんばるべき」「親なんだからできるでしょ」といったかつての感覚を保育士側が持っていたら、そもそも支援は始まりません。
どちらにも、「誰でもできなくて当然」のところから保育士指導・子育て支援を考える必要があります。
そこで必要なのは、「頑張りましょう」「大変ですよね」といったお気持ちレベルの応援ではありません。
具体的にどう安定化できるかという方法が伝えられることです。
かつての子育ての価値観では、そこから導き出されるのは、「大人が毅然としなさい」「叱ることも大切だ」「しっかりと言って聞かせなさい」のような、結局のところ大人が子供の支配者になることを求めるものがほとんどでした。
しかし、現代では同じように受け止められないので、それはアプローチとして適切ではありません。このギャップゆえに、こうした子供への関わりに自信が持てない人が増えているわけです。
では、このとき単なるごまかしのテクニックをその方法だと思って伝えても、実際のところあまり意味はないです。というのも、そうした学習性無気力におちいる人達は、すでにそれらもしてきています。
また、小手先のごまかしテクニックは、一見効果があるようでも多くの場合それは最初だけです。子育ての安定化がうまくいっていない人にはなおさらそうです。
関わりがうまくいっていない人がそれを使ったとき、一時的にはそれが多少の効果を発揮しても、すぐもとの思い通りにならないというところに戻ります。
すると、その人は「ああ、やっぱり私にはムリなんだ」「他の人はきっとこれでできるのだろうけど私ではだめなんだ」とより無力感をつのらせます。
さらに子供への関わりをテクニックやごまかしなのだと理解していくと、子供の成長につれてそれを強めなければならなくなります。
最初はかわいらしいごまかしのテクニックも、やがては声をあらげたりする圧迫的な対応へと変化せざるをえなくなります。
そしてそれは、同時に「大人にコントロールされないと動かない子供の姿」を作り出すことになっています。これでは負のスパイラルを生むばかりです。
なので、保育者が子育てで行き詰まる人にごまかしや小手先の技を伝えるのはかえってよくないと考えるのが妥当です。(状況に応じ配慮を踏まえた上で限定的に伝えるのは場合によりありうる)
さて、保育は専門的な営みですので、もう少し根っこを見ていきましょう。
◆そこで引き起こされている問題はなにか?
「大人が毅然としていないから」といった、見る人の主観の入ったものではなく、そこにある状況を客観的に見てみます。
大人が子供にアプローチしてもそれが通じない。安全危険に関することですら通じない。
そうした場面にあるものはなんでしょう?
いろいろ考えられます。
ひとつには、子供の個性に類するもの。多動的だったり、こだわりが強い場合、注意欠陥によるもの、言葉のアプローチが通じにくい個性などなど。
ただ個別ではなく、保育で一様に起こっている場合は、必ずしもこれではないでしょう。
すると、そこにある問題として客観的に存在しているものは、「子供が大人を信頼していない」というものです。
・そこでの保育者が過干渉すぎて、子供達が信頼しなくなっている
・否定の関わりが多いゆえに信頼できなくなっている
・支配、コントロールの関わりが多く信頼しなくなっている
・表情がとぼしい、普段から不機嫌さを出しているなど、子供達が安心感をその人に感じられないがゆえに信頼関係が構築できなくなっている
などなど。
理由はさまざまありますが、集約される問題は「子供が大人を信頼できていない」ですね。
しかし、保育は組織で行うものですから、その責任を当の保育者に課すのは最後の最後にしたいものです。
まず考えなければならないのは、なぜその保育の力量の人に大きな責任を課してしまったのかということです。一緒に組んでいるもうひとりの担任が信頼関係が構築できる人、かつその人が指導できる立場や、クラスリーダーという状況ならばそうした判断はありですが、信頼関係構築のスキルが低い人と経験が少ない人と組ませていたり、その人にクラスリーダーを任せているといった状況では、学習性無気力にいたるのは時間の問題とすら言えます。
つまりは園の人事上、指導上の責任の方が個人の力量による責任の問題よりも大きく存在しています。
これは当人の努力や頑張りで解決できない部類の問題です。
適切な保育指導が必要です。
◆原因を探るには前をみる
この保育者が子供へのアプローチをあきらめてしまっている状態の前の段階では、しばしば、むしろ過干渉の関わりが起こっています。
また、やる気のない人ではなく、まじめで一生懸命な人であることも多いです。だからこそこの問題が起きやすいとすら言えます。
まじめで一生懸命な人が、「ちゃんと、きちんと、しっかり」という規範意識ゆえに、過干渉に注意や制止のアプローチを頑張り続けた結果、子供がその大人の言葉を聴くのがしんどくなって、ある段階から大人に従わないという姿が慢性化するようになります。
このとき、子供に威圧的に対応できる人が出ていって「ほら、こうすれば言うこと聞くでしょ」という指導になるのはいまでもしばしば聞きますが、これをすればその組織全体の保育が子供の威圧になっていきます。
それは本来の保育が目指すところではありません。
(もしくは、前年度の保育が子供の威圧が慢性化していた場合もこうした状況が起きます。
威圧が通常だった状態から、威圧をしない保育士に切り替わった場合、ほとんどの場合子供は逸脱した姿を出すようになります。それは引き継いだ保育士がよくないのではなく、そもそも威圧の保育が慢性化していたことが問題です)
さて、ここで課題が見えてきます。
・過干渉
・制止、注意など否定のアプローチの多発
・規範意識で子供を束縛する保育のあり方
・大人の情感的余裕のなさ
・子供の安心感の欠如
・支配的アプローチを乗り越えたスキル
子供を「ちゃんとさせなければ」と頑張り続けている保育者は一日の中で笑顔ひとつ出す余裕すらなくなります。
そもそも、笑顔や肯定的、共感的な感情が出せない人が保育者になっていることもあります。
そして、これらの集約されるところが「信頼関係」です。
学習性無気力の状態が引き起こされる前の段階で、保育者に子供への適切な関わり方を伝える必要があったわけです。
そうなってからの解決ではなく、誰しもがそうなる可能性を持っているという理解の上に未然にそれを防ぐ視点が重要なのですね。
それは、保育者にも保護者にも同様です。
また、保育の中で信頼関係の構築はスキルとして理解し、それを各職員に意図的に持たせていくことが欠かせません。
信頼関係は「お気持ち」の問題ではないのです。
しかし、しばしば信頼関係は、「私がいかに子供を大切に思っているか」「子供をかわいいと思っているか」「愛情をもっているか」のような「お気持ち」問題として理解されており、それは保育界の大きな足かせになっているように感じます。
この過干渉から学習性無気力に至るケースでも、そこにあるのは、しばしば保育におけるお気持ち論的理解です。
「私がこの子達をちゃんとさせなければ」
「ダメな保育士と見られないようにしなければ」
「子供達をかわいいと思わなければ」
方法論や専門性としての理解よりも、こうした気持ちのあり方によった認識が不安定な保育をもたらしています。
このお気持ち主義、お気持ち思考は、もういい加減保育界は乗り越えなければならないでしょう。なぜなら、お気持ち主義では専門職になりえないからです。次回はそこを見ていきます。
(無気力になってしまった状態の乗り越え方は、コラムの大きなテーマである保育界のあり方とずれてしまうので、それはいずれ機会があれば保護者支援のテーマの中で解説していきます)
2024/06/13追記
上記の続きを「保育界のお気持ち主義を乗り越える」テーマとして書いてみましたが、ニュアンスの微妙な機微が、文章としてはまだうまくまとめられそうにないので保留にします。
差し替えて、次は「学習性無気力」を乗り越えるアプローチについて見ていこうと思います。