「死ぬ」の向こうと子育て

「自分」しか居なかった世界で生きた時代。

少しだけ大人になって一人暮らしをし始めた頃に「親」ってものの存在をある意味で初めて意識した。

それから沢山の人さまとの出会いを経て50歳にて9歳、8歳、2歳の子育てをしている。

気がつけば「自分」は少しばかり小さくなり、人生のパートナーである奥さん、子どもたちが「自分」の中に入ってきて自分という意味が変化した。

サイパンにて壊された慰霊碑の再建事業をしてみたり、色んな業態で起業した。

残念は想いは沢山したし、少しばかりは楽しいこともあった。

アラフィフあたりでふと目を上げてみると、「人生の終わり」がかすかに見える気がした。

有名人も偉人も金持ちも皆等しく死ぬ。お金持ちだから長生きできると限った話でもないようだ。

自分の在り方が変化して久しい。

でも最近は「自分が死んだ」後の世界を考える。

世界とは我が世界。世界の世界じゃない。

所謂世界なんぞ僕が死のうが一切関係ない。でも我が世界の残滓というか、共有リンクしていた者たちには少しばかり関係ある。

死ぬの向こうとは自分が居ない世界線。


相続とは違う。物の考え方や捉え方、勇気付けの仕方や自身の鍛え方。サポートが無くなる時のこと。

僕が何を伝えようが伝えまいがなるようにしかならないのはわかるが、彼らのストーリーを少し近場で眺めていたい。

何を遺すか?も大事だけど等しく、何を遺さないのか?も大事な気がする。

1番遺したいのは優しさを恥じない強い心。優しさに流されない賢さ。

メチャクチャムズイ

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