先人から次世代につなぐことを残りの人生で
今から16年前。僕が30歳の時に初めて海外に行きました(だいぶ出遅れ)
最初は怖いので香港でした。そりゃ〜もう治安とか必死に調べました笑
中学校もロクに行ってない僕は英語なんぞ
「イエス!」「オッケ!」「ノー!」
くらいなもんでした(ガチ)
そこで忘れもしない国営ホテルのガンドンホテルに泊まり、受付のグレースが可愛すぎたのにも関わらず、
「びゅ、びゅーてほー」
しか言えずに戦う前に敗北したことは記憶に新しいとこですね。
それはさておき、そこから日本とはまるで違う刺激に魅せられて海外行きまくった末にお仕事までするようになり、その過程で名も知らぬ先人達の恩恵というものを感じました。
33歳から始めたダイビングのお陰と当時キレイなお姉さん達が沢山いたサイパン島に足繁く通うことになり、生々しい大戦の遺物を見て何か胸に刺さりました。
その胸に刺さった棘は、無数にあった慰霊碑が鈍器で壊された惨状を目の当たりにして大きくなり、慰霊碑の再建を思いたち、現地の日本人や現地人の協力を得て実現できました。
■1回目 中部太平洋慰霊碑裏手
アフター&ビフォー
国有地ですので勝手にも出来ませんから現地政府の許可が必要ですし、現地の協力者や主旨を踏まえて工事してくれる会社も見つけねばなりませんでしたし、なるべく数多くの方々のご寄付を募らねばなりません。また、その器も必要でした。寄付を募る意味はなるべく多くの方々に認知してもらいたかったため。
ここで平成17年に皇后さまが詠まれた歌を紹介します。
いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし
この足裏の表現はその様を想いを馳せなければ出ません。
ともあれ、第一回は88名の協力を得て何とか完遂しました。
■2回目 スーサイドクリフ
ここが個人的に本丸でした。先程の損壊が見られた場所です。場所的には「バンザイクリフ」の真上になります。
当時このようなお手製の慰霊碑が沢山ありました。
しかし、現在はほぼ全てその姿を見ることは叶いません。
我々は犯人探しではなく、大戦の善悪ではなく、そこに在った想いを次世代につなぎたいという思いでした。友人の
「100回壊されたら101回作り直してやりましょう。それが日本人じゃないでしょうか?」
という言葉は今も胸に残っています。
実は1回目の後に嬉しいニュースがあり、戦後70年間作られることがなかった法律が現地政府において制定されました。
大戦の遺物を含めて器物損壊した場合の罰金と刑事罰が課される法律が出来ました。
これは我々のアクションと無関係ではないと思います。人口5万人の小さな島ですから。
これで法的にも守りは固くなりました!
2回目は1回目よりも協力者が多く、寄付も経済評論家の上念司さん(マジ感謝です)の協力もあり、順調に集まり、合計118名の賛同者を得ることが出来ました。
そしてアメリカの地方紙とはいえ、現地紙の一面も飾らせていただきました!
日本でも産経新聞を始め、Yahooニュース、福島民友など合計5社のニュースになりました。大変有り難いことです。
これらは僕らがしなくとも、誰かがした事かもしれない。でも、誰かが僕らでもいいんじゃないか?と思い、何とか完遂できました。途中コロナもあり、日本政府の対応の鈍さなどがあり、2年足踏みを余儀なくされ、足掛け4年のプロジェクトになりました。
保育園経営もつながってくるのですが、先人から次世代へ。
意識するしないに関わらず受け取ったバトンを自分なりに形にして次の世代へ手渡す。
そうすれば僕みたいななカスでも産まれてきたことを自分が許せる気がするのです。
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