パンデミック渦中でとらえた、赤マッターホルン
世界各国に暮らす物書き仲間で、リレーエッセイをやっています。
その名も『日本にいないエッセイストクラブ』。
東南アジア各地に拠点を置く森野バクさんよりバトンを受け継ぎ、
スイス在住・アリサが第5周目のリレーお題
「思い出の写真」の内容でお届けします。
文末に、前回走者と次回走者の紹介があります。
また過去のラインナップは、随時まとめてあるマガジンをご覧ください。
2020年5月、最後の土曜日。スイスのツェルマットには、シーズンの幕開けとなる初夏とは思えないほどまばらな人々が行き交う。やがて中央広場に掲げられているハイキングコースの看板を辿り始めると、たちまち人気は消え去り、カラマツの森に差し掛かるころには静けさが漂った。ここは世界中から毎年約200万人の観光客が訪れる人気観光地、しかしこれだけの落ち着きがあると、風情あるこの地がやっとスイスだけのものになったかような特別な気持ちがどうも湧いてしまった。
イタリアの国境に近いスイス南西部に位置するツェルマットは、絵本さながらのメルヘンチックな雰囲気を伝える村だ。村を見守るように立たずむマッターホルンも説明不要なほど有名で、周辺にはいくつものハイキングコースが設けられている。わたしたちはこの閑散としたコロナウイルスの影響をうまく使って、「マッターホルンを最も美しく鑑賞できる場所」と絶賛されているStelliseeのほとりで一泊キャンプをすることにした。5月末とはいえ湖周辺の気温は氷点下、あたりには雪がまだ残っている。
毎週末のようにキャンピングをするスイス人夫は、一度この湖を訪れたことがあるという。
「マッターホルンはどんなガイドブックにも載っている人気スポットだから、たとえ普段からハイキングをやっていない人でも絶好の写真を撮るために足を運ぶ湖だよ。ハイシーズンになるとロープウェイも運行するしね。前回は観光客でごった返しだったから、Google画像で見るあの勇ましいマッターホルンはまあ見れなかったよ。山登りは楽そうで危ない娯楽だから、コンバースとかアディダスのようなファッション系スニーカーでハイキングする観光客を見るとどうしてもイラついちゃうよ。正直心から楽しめなかった。」
でもこれだけ人のいないマッターホルンを拝められるのはまたとないチャンスだ、と彼は胸を弾ませていた。
Selliseeへと伝うハイキングは約3時間半ほど。緩やかな上り登山道を歩いていると、辺りの植物相ものっぽな樹木から低木へ、さらには草々へと遷移していくのが目に見えてわかる。パンデミック渦中、登山路中にある山小屋らはいやはや営業していない。本来家族連れでひしきめあうであろう遊び場も、廃墟目前の公園のようだった。
もちろん、わたしたちがSelliseeに到着したころには誰もいなかった。湖を独り占めといえば贅沢だが、大自然の中に取り残されていると考えると少々震え慄くだろう。日が暮れるころには水際も凍り始め、か弱い草原も霜で白く褪せる。ヒートテックにアウトドア用ダウンジャケット、ニット帽を被っても身体の感覚はひしひしと鈍くなるばかり。いち早くテントを張っては寝袋の中に身を投げ、夢の中へと陶酔した。
日の丸の国出身だからか、日本人として日の出は尊く、神聖だ。
それは翌朝5時、日本から遠く離れたSelliseeのほとりにいても変わらない。
眠こざましながらテントの帆を開けば、そこには朝焼けに赤く染まるマッターホルンがおはようとあいさつをしてくれた。
思い出の写真
昨日の曇天とは打って変わって、青空には雲の跡がない。空気が澄んでいたからか、痛烈な寒さとは裏腹に、日の光からは暖かさを覚える。まるで1歳の誕生日を迎えた赤ちゃんのために用意した、バースデーケーキに刺さっているろうそくかのようだ。
赤富士ならぬ「赤マッターホルン」は、とにかく美しかった。この写真を見せたら、「圧巻」という言葉がわからない人でも意味が伝わることだろう。
人のいないマッターホルンを拝むことは最初で最後 ーー ワクワクが止まらなかったスイス人夫の一言は正しかったかもしれない。チューリッヒから片道3時間半、さらに3時間半かけて登ったこの地で目撃した景色は、長旅に費やした時間、パンデミックによる観光客の激減、絶好の天候、そして寒さに耐えしのいだ努力が重なった幸運そのものだ。そのような貴重な体験をとらえたこの一枚の写真は、暗いこのご時世で唯一の喜しき収穫であることは間違いない。
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本日の宿と、赤マッターホルン
昨晩浸けておいた食器類も、ご覧の通りカチカチに
夜が完全に明けた勇ましいマッターホルンは、まるで絵葉書のよう
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前回走者、東南アジア各地に拠点を置く
森野バクさんの記事はこちら。
わたし自身、ミャンマーは訪れてみたい国ベスト3に入るのですが、国内の秩序が乱れている状況が続いているとどうも訪問を躊躇してしまう。国際協力の仕事でこの国に足を踏み入れた森野バクさんが目にした、メディアではみられない本物のミャンマーをお届けしてくれています。
次回走者、元イスラエル在住者の
がぅちゃんさんの前回記事はこちら。
「旅行者が見るイスラエル」ではなく、「在住者が見るイスラエル」は一体どんなものでしょう?乞うご期待!
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