超安全な国・スイスで、はじめて詐欺に遭いそうになった話
世界各国に暮らす物書き仲間で、リレーエッセイを始めました。
その名も『日本にいないエッセイストクラブ』。
マレーシアに拠点を置く森野バクさんよりバトンを受け継ぎ、
最終リレー走者のスイス在住・アリサが
第1周目のリレーお題「はじめての」の内容でお届けします。
『日本にいないエッセイストクラブ』についてはこちら、
各国リレー走者たちのエッセイをまとめているマガジンはこちらです。
2017年5月。
1年続いた日本ースイス間の遠距離恋愛に終止符を打ち、わたしはスイス人の現夫が住むチューリッヒに引っ越すことになった。都心部の北西に位置する小高い丘の上の第10区、彼が住む2LDKのアパートに転がり込むような形で。トラム1本でチューリッヒ中央駅まで行けるし、緑が多くて静かだし、とにかく最高の立地だった。
70平米もある2LDKのアパートに住むとか、月給の低い東京の編集プロダクションで勤めていたわたしには考えられない好条件だった。コツコツと貯めた貯金は微々たるもので、すべてドイツ語学学校に投資する予定だったから、文句一つないスイス生活のスタートといっても過言ではない。ましてや年に3回程度しか会えなかった彼と同棲……「人生いい方向に向かっているじゃん!」と、鼻の穴を大きくしてウハウハしていたかもしれない。
そんなスイス生活から約2年半。
期待に胸が踊り、目がキラキラと輝いたスタートとは裏腹に、わたしはアイデンティティ・クライシス一歩手前まで差し掛かっていた。言語や文化の壁のせいで、身の周りの小さなことでも彼に頼らないといけない場面が多く、「彼に付随した自分」という構図がどうも苦しかったからだ。
それは、世界中でどこよりも好きな場所であるべき「自宅」にも現れていた。インテリアや配色は彼のテイストだし、彼にとって通勤しやすい立地で、憩いの巣である自宅までも「彼ありき」になっていた。2人で相談した上で彼のアパートに転がり込んだとはいえ、今では「わたしたち」のアパートだよーーそれなのに、わたしらしいエッセンスがまったくない。
鬱憤が溢れかえりそうな訴えを重々理解してくれた夫。わたしたちは解決案として、新しいアパートを探すになった。
わたしが彼に付随せず、2人で見つけた夢の賃貸マイ・ホームをーー。
スイスに根付きはじめ、新たな章の始まりと心機一転。これらが目の前に待ち構えていると思うと、アパート探しにモチベーションが高まるばかり。わくわくで胸が高鳴るわたしは、この先何が起こるか知るよしもなかったーースイスどころか、まさか人生ではじめての詐欺被害に遭いそうになるとは、夢にも思っていなかった。
アパート探し開始 超好条件な物件を見つけるが……
チューリッヒで、アパートへ入居するまでの契約にこぎつくのは至難の技。国民がチューリッヒ州に集中する傾向で住居不足、さらに景気向上の関係で家賃が年々高騰していて、収入と見合わない家賃相場になっているからだ。特に都心部の物件は競争率が高く、一人暮らしやカップル住まいにはちょうどいい2LDK・家賃1,500〜2,000CHF前後(≒約15〜20万円)のアパートがひとたびネットで掲載されると、おぞましいほど応募が殺到する。
連絡から入居までの流れは、
1、管理人(もしくは管理会社)に内見したいと連絡する
2、内見(オープンハウスのように、決められた日時に訪れなければならない。連絡した入居希望者が一斉に来るため、時には長蛇の列ができることも)
3、内見した上で、申し込みフォームを記入する
4、管理人(もしくは管理会社)が、もっともふさわしい入居希望者を選び、契約
といったところだ。
内見のために並ぶ入居希望者が長蛇の列を成す。
(引用:スイスラジオ局)
賃貸アパートは、いくつかの大手不動産屋のホームページで探すほか、日本でいうジモティーのような掲示板らで探すのが基本。好条件なアパートが掲載されても、翌日には過多な応募対策として取り下ろされていることが多い。
1日に3、4回、パソコンの画面上にずらっと並んだ不動産屋や掲示板のタブを一つずつクリックしては更新ボタンを押し、好条件のアパートが掲載されていないか確認する。競争や争いごとは苦手だが、ここは一踏ん張り、理想の賃貸マイ・ホームを探し求める毎日を送ることとなった。
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アパート探しをはじめて約1ヶ月。
生活情報から求人、賃貸物件など、スイスに関することなら何でも掲載する掲示板Ron Orpに、ある物件の投稿に目が奪われた。
「99平米の4LDKアパート。立地は第2地区のEnge(エンゲ)近く。ガーデンテラスとバルコニー付き。家賃:1,200CHF」
そんな、まさか。99平米とは広すぎる。それに部屋が4室も? バルコニーもあって、別に必要はないがガーデンテラスもある。そして何より、家賃が相場をはるかに下回る破格の約12万円。
間取りや各部屋の内観などの写真が丁寧にも10枚ほど掲載されていて、ひとつひとつ目を通してみることに。
建物のワンフロアまるまるがアパートになっているようで、正方形を十字に四等分したような間取りだ。観音開きのドアが各部屋を区切るが、写真上ではドアがすべて開放されていて、広々とした空間を強調しているようだった。
床は、大理石にも見える濁りかかった白色タイルで統一。それぞれ南と西に面したバルコニーとガラス張りのガーデンテラスのおかげで、アパート内は溢れるばかりの日光が差し込む。柱や暖炉がいかにもヨーロッパの古き建造物の趣を持っていて、イメージとしては、中世の宮殿を2019年仕様にモダン化したような内装だった。
長期間、毎日休むことなく各プラットフォームで見てきたから、このアパートが異常なまでの好条件であるのは間違いなかった。
約12万円という家賃設定もたしかに疑問に思ったが、「きっと訳ありなんだろうな」程度にしか見なさなく、何だったらなぜそこまで家賃が安いのかを聞いてみることにすればいいと軽い気持ちだった。
見つけた超好条件の物件内容を夫に転送。
彼は、詳しい物件情報と内見の申し込みのメールをドイツ語で打ち、さっそく連絡することにした。
管理人とのやりとり 怪しさが滲み出る
メールを送信してから約20分。
夜の22時過ぎだというのに、さっそく管理人らしき人物から返信が来た。ドイツ語で書かれたメールは、ざっくりとこのような内容が記されていた。
「この度は、このアパートへの入居に関して興味を持っていただき、ありがとうございます。
わたしはこのアパートに住んでいたのですが、あいにくドイツへの転勤が決まってしまったため、賃貸としてインターネット上に掲載しました。
家賃が安いのは、自身がこのアパートを所有しているので、必要以上の家賃を請求する理由がないのと、転勤先となるドイツ企業との契約が10年間なので、いずれはこのアパートに戻ってくることになるからです。10年後にはなりますが、定期借家という契約条件になるので、このような家賃設定にしています。
それでも入居に興味がありましたら、あなた自身の簡単な自己紹介を交えた上、再度わたしにご連絡いただけましたら幸いです。
なお、返信は英語で記していただけると助かります。」
「なるほどね、そういう訳ありか」と、夫婦ともに納得した。
夫は、文法や言葉のチョイスが丁寧すぎるドイツ語に少し違和感があったみたいだが、「きっとドイツ語が母国語じゃない人なんだろうね〜」なんて気に留めず、彼は英語で自己紹介を3文章程度にまとめて、返事を送信した。
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翌日、昼12時ごろ。
夫の仕事用メールアドレス宛に来た管理人からの返信は、望んでいた英語で書かれていた。
「早速の返信をありがとうございます。現時点でたくさんの応募をいただいているのですが、あなたの自己紹介文を見る限り、とても信頼関係が築けそうな人柄だと判断したので、あなたを入居者の候補としてセレクトしました。
まずはこのアパートを内見したいところだと思いますが、あいにくわたしは今ドイツにいるため、内見に直接立ち会うことができません。
代わりに、このプラットホームhomevacation.com(仮名)を介して鍵をお渡ししたいと思っています。大事な鍵なので、セキュリティ上このプラットホームを使っています。鍵を入手後、物件を自由にご覧いただければ幸いです。
もしこのアパートが気に入ったら、デポジットとして家賃約1ヶ月分(≒約12万円)と、鍵交換代500CHF(≒約5万円)を支払っていただくことになります。引き続き、当物件に興味がありましたらご返信ください」
この時点で夫は管理人の素性を怪んだ。今までに見たことのない鍵の渡し方、しかも聞いたこともないプラットホームを介して渡すのはおかしいという。プライドの高いスイス人らしく「こんなことはスイスではやらないよ!」と、仕事合間のWhatsapp(日本でいうLINE)上で、わたしに豪語した。
しかし彼の「スイスのこと何でも知ってるよ」な態度を踏みにじるように、わたしは引き続きこの管理人と連絡を取るべきと念押した。「鍵を受け取るのはタダだから、今のところ金銭的な害はない」と説得のチャットを送る。たしかに怪しさは滲み出ていたが、何よりもわたしは、新しい賃貸マイ・ホームに根付く日を一刻でも早く迎えたかったのだ。
わたしの意見に一理あると判断した夫は、しぶしぶながらメールを英語で返信することにした。
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ここで、わたしたちが新しい物件に求めていた条件をお伝えしよう。
チューリッヒの都心部に立地、緑が多くで静かな環境はマスト。また猫を飼っているため、愛猫が外へ自由に出入りできる階で、交通量が少ないことも必須だった。住んでいた当時のアパートの家賃2,000CHF(約20万円)より安いことも望ましい。
いいアパートをチューリッヒで見つけるのがいかに難しいのかは、よく知っている。しかし、100点満点中70点程度のアパートに申し込んで入居しても、不平不満が出てはまたアパート探しの競争に参加することになってしまう。この時点でアパート探しも1ヶ月以上経過、なかなか見つからない理想な物件を求めることに疲れ始めていたから、可能ならもう二度と、チューリッヒで新しい物件を探したくなかった。そのため、何十年先まで住める夢の賃貸・マイホーム探しに、わたしたちは妥協はしたくなかったのだ。
夫が管理人宛にメールを打っている中、プラットホーム上にこの怪しきアパートの住所が掲載されていたのを思い出し、わたしはバイト後このアパートの近所を歩くことにした。
場所は第2地区・Enge(エンゲ)。
チューリッヒ湖に接する西側を占めるこの地域はまさにチューリッヒ都心部のさらに中心で、東京でいう大手町に近いかもしれない。こんなところに、家賃1,200CHFの物件があるとは、誰も思う訳はないだろうーー本当にこの物件に入居できたら、何という宝くじを引くことになるんだろうかと、散歩ながら心積もった。
いざ訪れてみると、間違いなく物件はそこにあった。外観から判断すると、バルコニーとガーデンテラスはたしかにあるし、建物の玄関に出向けばネームプレートは空になっていた。どうやら物件は、管理人が言う通り空き家のようだった。
しかしこの怪きアパートには教会が隣接していて、毎時間響き鳴る教会の鐘がうるさい。その上車道に面していて、交通量が多すぎるーー愛猫を安心して外に出すことができない。しまいには物件は2階に位置していたので、愛猫が出入りするには少々不都合だった。
外からアパートを見た時点で、周りの環境が最適じゃないと気づいたわたしは、「このアパートは微妙かも」と呑気にジャッジ。アパート近隣から離れると、夫から電話がかかってきた。仕事中はチャットでのやりとりが主だから何事かと思うと、怪訝な声で彼は言い放った。
「あのアパート管理人、絶対詐欺だよ」と。
怪しすぎる管理人の言動 「これは詐欺だ」と判断
15時すぎ。
管理人から返信が来たらしいが、今までやりとりしていたメールアドレスとは違う連絡先から届けられていたという。
「仕事用メールアドレスでやりとりしていたんですが、何かの不具合でメールが機能しなくなってしまいました。代わりに今、私用メールアドレスでこのメールを送っています。引き続き、当アパートに興味がありますか?」
え、なんだそりゃ。そんなこと、ある?
仕事用メールアドレスが機能しなくなるとは、社会経験が短いわたしでさえ聞いたことがない。万が一そうであったら、企業のセキュリティが低すぎる。気がつけば、今までやりとりしていた仕事用メールアドレスがgmailではないかーー企業に勤めている人の仕事用メールアドレスの語尾が@gmail.comは、ありえるだろうか?
セキュリティが強化された時代だからか、gmailからも忠告のシグナルが掲載されていたーー「フィッシングの可能性があります」と。
ドイツ語で「このメッセージに注意してください」と忠告。
疑い深い夫は、独自でCIA調査をしてみたーー管理人の私用であろうメールアドレスをグーグルで検索すると、なんと数多くの激安アパートの貸し出し情報が検索結果として見つかったのだ。
主にドイツに立地する激安アパートが検索結果に。
さすがに鈍感なわたしもこれにはハッとして、詐欺の匂いを嗅ぎつけた。大金を渡しそうになった恐ろしさに、詐欺師に手玉を取られそうになる恥が混ざって、その場であたふたと動揺する。返信を打ち切り、夫はそれ以降の連絡はやめることにした。
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幸福度が高そう。治安が良さそう。犯罪率が低そう。
スイスが持たれているこれらのイメージは、あながち間違っていない。永世中立国でEU非加盟、「自分のことは自分でやる」ような態度を取っているおかげで、スイスはテロや紛争の標的にされにくく、国民が支払う高い税金は治安向上のために使われている。たしかに、スイス生活で2回財布を失くしたことがあったが、何も盗まれず落し物センターに届けられていたし、一人で深夜1時過ぎに出歩いてても何事なく帰宅できたから、世界においても平和と安全が似合う国はなかなかない。
しかし住居不足や家賃高騰が問題化しているチューリッヒを中心に、この手の詐欺が増えているとスイスの友人はいう。好条件な物件を掲載し、家賃1ヶ月分のデポジットを支払うと音信不通になるという手口だ。
tutti.chやRon Orpでは不動産を介さず、一般人が住宅情報を掲載することができてしまうため、取り締まりが難しいのが実情のよう。現に、わたしのヨガの先生の友人も同様な手口で約20万円の被害に遭ってしまったというから、ナイーブな人ならまんまと罠に引っかかってしまう悪質犯罪だ。わたちたちも罠に片足をつっこんでいるところだったから、性善説で成り立つスイスのメンタリティに加担してたのが危なかった。
夫が連絡を取りやめた以降、管理人からの連絡はまったく来なかった。きっと、わたしたちと同様に連絡を取り合っている入居希望者がたくさんいるからだろう。被害の拡大をやめたくても、「調査と追跡が難しい」と言う理由で、スイスの警察はまったく相手にしてくれないから心苦しい。
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詐欺まがいから1ヶ月後の2019年11月。
おかげさまでわたしたち夫婦は詐欺に引っかかることなく、胸を張って言える夢の物件に入居する権利を獲得することになった。都心部の第8地区、緑が多く静かな環境で、チューリッヒ州が管理会社となっているから信頼は疑いなく厚い。愛猫も喜んで、近隣の森に出かけているようだ。
いやはや、まさかスイスで、いや人生ではじめて詐欺に遭いそうになるとは夢にも思っていなかった。このはじめての体験は、最初で最後にとどめておこうーーやっとの思いで手に入れた理想の賃貸マイ・ホーム、ドラマに巻き込まれることなく末長く暮らしていきたい。
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『日本にいないエッセイストクラブ』第1周目、
9人で繋いだバトンは途切れることなく、ここにて完走いたしました。
来週からは新たなテーマで、トップバッターのネルソン水嶋さんが
第2周目を走り出します。
新テーマは、果たしてどのような内容でしょうか?
公開は4月13日ごろの予定ですので、どうぞお楽しみに!
前週8人目のエッセイスト、森野バクさんの記事はこちらです。
いまや世界中の誰もが「はじめて」体験しているコロナウイルス対策。
マレーシアに住むバクさんが目の当たりした当国のロックダウン(年封鎖)実施日前後の様子が、データを交えて端正に描かれています。
街のお店がどうなったか、街民は何を買い溜めしたのか、バクさんの生活はどのように変わったのかーー。
メディアでは報道されない、街民単位のマイクロスコープで見た実態が明らかにされています。