砂にはまった車から学んだ、オマーン人の「助け合い」の精神
「クルマ、スナの中。ヘルプをクダサイ。」
オマーン3週間の旅。ホテルが割高な当国で少しでも宿泊費を抑えるべく、夫とわたしはスイスからテントを持参し、各所で野宿をしていた。2週目半ばに差し掛かったこの日も、南の楽園・サララから車で40分ほど離れた真っ白な砂浜で、半分に切ったブラッドオレンジかのような太陽が沈むのを眺めながら、今晩の宿となるテントを張るところだった。そこで遠くから小走りしてきたのは、ポロシャツに短パン姿のオマーン人だ。
「クルマ、スナの中。ヘルプをクダサイ。」
片言の英語で、いかにも観光客なわたしたち二人に助けを求めてきたのだ。彼の背後に目をやると、たしかに前輪が砂にズッポリとはまっている二輪駆動車が見える。その隣には、奥さんらしき女性と幼い娘が退屈そうに砂遊びをしていた。
四輪駆動車をレンタカーしていたわたしたちは、迷うことなく彼らを助けることにした。引っ張り出す道具を持ち合わせていなかったので、彼を乗せ近くのガソリンスタンドまで運転し、ロープを購入。ビーチに戻ると、彼らの車の後部から、わたしたちの車の後部をロープで結びつけ、ゆっくりと前進させた。わたしたちの車の半分程度の大きさしかない彼らの車は、わりと簡単に、砂から引き抜くことに成功。「よかったね、これでよし」とハッピーエンド ー かと思いきや、奥さんが彼に向かって何やら威圧的に叫び始める。何事か把握できなかった夫は、思わず車を止めてしまった。
この時、わたしたちの巨大な四輪駆動車も砂にはまってしまったのだ。
アクセルを踏んでも、タイヤは地面の砂を掘り起こすばかり。試しにバックしてもその場にとどまるだけ。車体はどんどん砂の中に埋もれてしまい、トランクの縁が地面と同じ高さになるほど深く沈んでしまった。
こうなってしまったら専用業者を呼んで、車を牽引してもらおうと思うのがわたしたちスイス人と日本人の考え方。
だがオマーン人の彼は代わりに友人に電話をし、助けを求めることにしたのです。
駆けつけた友人らと試行錯誤
待つこと20分。やってきたのは、わたしたちのレンタカーと同じ四駆動輪車2台と、彼の友人ら3人。あたりが真っ暗になった夜の7時半に、友人家族を助けるために駆けつけてきたのだ。
まずは二駆動輪車の救助から手をつけることに。だが車のバッテリーが上がってしまい、エンジンが完全ストップ。四輪駆動車一つでで引っ張ろうとしても車は砂の中に埋もれたままで、微動だにしない。「やれやれ、やっぱり専門業者に電話した方がいいんじゃない?」と提案しても、彼らはからくりを紐解こうとするパブロフの犬のごとく、意地にになって救助の試行錯誤を繰り返す。
今度は、エンジンがまだ可動するわたしたちの四駆動輪車を救助しようと計画を変更。とはいえこの車はなかなかの大きさ、四駆動輪車が四駆動輪車を引っ張り出すことはやはり不可能だった。
「スナ、すこしホル」
「イワ、持ってクル」
「ロープ、長スギル」
どのような作戦を試しても、頑なに車は砂の中に居残りたい様子だった。
彼らもここでようやく諦めがつき、4時間も続いた試行錯誤はお開きとした。この時点での時間はもう夜の11時。問題を引き起こした当のオマーン人は「アシタ、また、チャレンジ。ノープロブレム!」とにこやかに言い、早朝にまたやってくると約束。信頼してもらいたいためか、彼の電話番号と駆けつけてくれた友人の四輪駆動車1台、そしてその車の鍵をわたしたちに渡し、もう1台の友人車に連れられみんな去っていった。
もともとこの砂浜で野宿する予定のわたしたちは、埋もれた車2台と、友人の車に囲まれながら、テントの中で夜を明かすこととなった。
更なる友人と更なる試行錯誤
翌朝。
強い海風と、「レンタカーを返却できなかったらどうしよう」の不安で、いい睡眠が摂れたと言いがたいわたしたちは、なかなかやってこないオマーン人の彼に苛立ちが混み上がり始めていた。
電話をかけても「イマ、ムカッテイル。マイ・フレンド、大きいクルマ!」と理解が難しいことを言い放っては電話を切られてしまう。無駄な時間が消費されているむかつきと、「何で専用業車を呼ばないの?」の疑問しか頭に浮かび上がってこない。
気長に待つこと1時間、ゆっくりとわたしたちの方向に走ってきたのは黒光りな巨大車。そこから降りてきたのは、オマーンの伝統衣装をまとったあの彼と、昨晩とは違うマスカット出身の友人だ。
「マイ・フレンド、大きいクルマ! ノープロブレム!」
どうやら彼が言いたかったのは、友人が巨大な車を持っているから大丈夫、とのことだった。わたしたちの車より1.5倍の大きさがあるこの車の持ち主は、慣れた手つきで自前の器具類を取り出し、いざ車の救助活動を再開。30分後には、呼んでいないのに昨晩手伝ってくれた友人ら2人も合流。彼とわたしたちを助けるために、業務用シャベルを持ってきて駆けつけてくれたのだ。
深く砂の中にはまってしまったわたしたちの車を囲うように眺める6人。マスカット出身の友人の指示で、車体を上げるためにまずは砂を掘ることになった。
太陽はとっくに朝を世に伝え、気温も徐々に上がる。Tシャツが汗で湿り始めたところで、車がようやく自立しているかのように見えてきた。懸命な作業を続けること1時間、いざ巨大車で牽引しようと行動に移すことにした。車内から頑丈なロープを取り出し、巨大車の前部からわたしたちの車の後部を結ぶ。後ろから引っ張りながら、はまった車を後進させようという作戦だ。
1度目の挑戦で、わたしたちの車はゆりかごのように前後に揺れたが、砂のスロープをうまく登りあがることができない。2度目では車体が明らかに後ろへ進んだが、期待通りには車が動かない。3度目の正直 ー 巨大車が引っ張った勢いで車は砂のスロープを乗り上げ、夫がアクセルを一気に踏む。敷いた木板が軋む音に不快感が渡った瞬間、車が穴から抜け出すことに成功した。思わず6人は歓喜の声。二次災害を防ぐため、夫は地盤がしっかりしているところまで車を走らせた。
「サンキュー! サンキュー! サンキュー!」
あたかも自分たちの車を自分たちで砂の中にはまらせてしまったかのように、わたしは何度も感謝の言葉を連呼をしてしまった。彼らも安堵の表情で、
「ゴー! マスカットへゴー!」
と、道路を指差す。まだ先あるオマーンの旅を続けな! と言いたいようだった。
何かお礼をしなければならないという感情を押さえつけられ、言われた通りにわたしたちはその場をあっけなく後にした。
「困った状況から抜け出してあげたい」、ただそれだけ
平らなコンクリート路を滑るように走っている最中、夫とわたしは車中で、ただひとつのお題で議論した。
なぜ赤の他人のわたしたちを、見返りなしに必死で助けてくれたのだろうか?
そもそもわたしたちは観光客で、この国ではよそ者だ。ことの発端となったオマーン人の彼をはじめ、助けにきてくれた友人ら4人とも面識があったわけではない。わたしたちは、「砂の中にはまった車を引き出す手助け」というきっかけから、芋づる式に事態が悪化した現場にいた赤の他人でしかなかった。
ところが自分の車が可動しないという困り事に直面したオマーン人の彼のために、友人らが助けに駆けつけたのだ。赤の他人のわたしたちのためにも、嫌みたらしさなしに助けの手を差し伸べてくれた。助けた代わりにお金を請求したり、物乞いをしてくる素振りも一切なかった。
彼らは「困った状況から抜け出してあげたい」、ただそのことにしか集中していなかったのです。
わたしたちがスイスからの観光客だと知っていても、彼らの態度は変わらない。
夫がスイス人で、わたしが日本人である事実も、この場では関係ない。
わたしたちが「いい人」か「悪い人」という裁判を脳内で行わず、「困っている人がいるから助ける」ということにしか専念していなかったのだ。
振り返ると、滞在していた3週間という期間でも、ローカルに助けられたことが度々あった。
レンタカーのギアが外れてしまったところを、善意で修理してくれた漁師。
物欲しそうに眺めていたら、伝統のお茶・カラックを分け与えてくれた町人。
雑談していたら、フェリーの操舵室に案内してくれた船員。
皆の心は「決めつけ」というフィルターを介さず、純粋なままであったのだ。
この「助け合い」の精神は、一体どこから来ているのだろうか?
「助け合い」の精神の生みの親はあの人物
遡ること1970年。それは、悔しくも今月11日にこの世を去ってしまった国王カブース・ビン・サイド・アル・サイドが即位したところから始まった。
当時のオマーンは、前国王の父の政権で鎖国していた。外国からの影響を受けない環境に閉ざされながら、オマーンは全国を通して中学校が存在しておらず、病院も2棟だけ、舗装された道路は1kmも満たないほどしかなく、今とは比べものにならないほど乏しい状況下にあった。教育、健康、経済、インフラ、安全 ー どの側面においても、発展が後退的な国に閉じ込められた国民の暮らしは幸せとは言い難かった。
若きカブース・ビン・サイド・アル・サイドも当時、父の命令で宮殿内に軟禁されていた。コンタクトが許される人は制限され、政策への介入は一切認められていなかった。この時に、彼は「国を変えたい」という感情が芽生えたのだそう。
いざ彼が即位すると、権力を振りかざしていた父を国外追放し、豊かな石油資源を利用して、国の発展とモダン化に勤しんだ。学校や病院はつぎつぎと建てられ、道路も徹底に舗装、奥地にある村にまで送電の普及を進めた。港や空港の建設も進み、教育費の無料化、また男尊女卑の文化が今でも色濃い中東地域において、男女平等の社会づくりに力を注いだのだ。
オマーン国が全くと言っていいほど問題がなかったわけではないが、今は亡き国王のおかげで、安全で教養のある現在のオマーンが築き上げられたのだ。彼とその功績は国民に賞賛されており、オマーンに誇りを持つ国民の多いようだ。たしかに、出会ったローカルたちは口揃えて「彼は偉大な人だ」と言っていたし、街や村のいたるところに彼の肖像画が飾られているのを見れば、国王がいかに多くの国民に讃えられているのかが頷ける。
「困っている国を助けたい」
国王がオマーンをより良い方向へ発展させたのも、目の前に積み上がった「困難」から国民を救いたいという想いがあったからこそ。国王のありがたい「助ける」精神が国民ひとりひとりの心に植えつけられ、次第に国民も、お互いに「助け合う」メンタリティーの持ち主になったのだ。
青く澄み渡るアラビア海を眺めながら、オマーン人の純粋な「助け合い」の精神を振り返ってみる ー わたしが赤の他人を助けたのはいつが最後だったのだろう。
「この人は本当に助けが必要なのだろうか?」
「また別の問題に巻き込まれるのではないだろうか?」
「この人を助けたところで、わたしに何かいいことがあるのだろうか?」
勝手な脳内裁判を繰り広げては、助けの手を差し伸べることを諦めたことは、正直何度もある。無償の善意をあげることはそう難しくはないのに、何が起こるかわからない後先を勝手な決めつけで判断し、その場を立ち去っしまっていた。なぜ今までわたしは人に優しさを与えられることができなかったのだろうか ー 情けないの一言しか思い当たらずにいた。
オマーン人の無意識な行動が、わたしにとって人生のレッスンになったとは、陽気な彼らに知られることはないでしょう。