わし流にいがたブラタモリの旅 その9 「古津八幡山遺跡 ① 〜環壕集落編〜」
先日、たまたま車で秋葉区を通ったので、ついでに以前から行きたかった「古津八幡山古墳」に寄ってきた。
この周辺なんて何度も通っているし、何度も看板見てるのに、興味がないとまったく目に留まらない。ところが遺跡に興味が出てくると一転、めっちゃ気になり出すのだ。こんな近くに古墳があったのだからね。
古代の日本では弥生時代になって稲作が始まると、土地や米や水をめぐってムラどうしで争いがはじまったのだそうだ。その争いが全国的に広がったのが「倭国乱(わこくらん)」。
ここ古津八幡山遺跡はそんな争いに備えて、人びとが新津丘陵の上に集落をつくったのが始まりだそうだ。日本人どうしの大きな争いは弥生時代から始まったんだな。
ついでながら、この新津丘陵付近で争いが本当にあったのかは不明らしい。時が経ち、そんな争いが収まったのが古墳時代。丘陵の上は稲作に不向きなため、人びとの生活はまた平地に移っていったという。
そして空いた丘陵の上に古墳をつくったのが「古津八幡山古墳」だそうだ。それにしても全国的な乱はどうやって収まったんだろ? 戦争は始めるより終わらせるほうが難しいというからね。
環壕集落(かんごうしゅうらく)とは、まわりを濠(ほり)で囲んだ集落をいうそうだ。古津八幡山遺跡は新津丘陵の上、つまり高地につくられた環濠集落であるため、高地性環濠集落というのだそう。
しかも古津八幡山遺跡は濠だけでなく、土塁もつくられている。丘陵の上、濠、土塁と、外敵からの防御にたいへん優れた集落であることがわかる。ま、それほど乱が激しくて、ムラの人びとはみな恐れていたともいえるんだな。
古津八幡山遺跡は標高50mの新津丘陵の上に集落がつくられてある。稲作は不向きなので、完全に防御を重視した集落のようだ。
そのため古津八幡山遺跡が続いたのは、弥生時代後期のわずか200年の間だけである。おそらく倭国乱のあった間なのかな?
その後、乱が収まったことで人びとは平地に移り、そして空いた丘陵の上に古墳をつくるのだ。
また、古津八幡山遺跡の周りには縄文時代の遺跡も多数出土している。ここは信濃川と阿賀野川に挟まれていて丘陵もあるという恵まれた地。亀田砂丘と同様に古くから人びとが住んでいたんだな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?