ブラタモリ日記その19 「彦根 #93」 (2017.12.9放送)
始まりました、ブラタモリ。今回は彦根ッ
いや〜やっぱり歴史の深い土地は実におもしろい。このnoteに記すために彦根城を軽く調べたら、番組では触れてないことがいろいろ出てきて、実におもしろいのだ。
まず、なぜ名城といわれた佐和山城を潰して、彦根城を築城したのか。それは関ヶ原の戦いのあとに佐和山城に入城した井伊直政が、もともと佐和山城は石田三成の城だったことをきらい、豊臣の影響力を一掃したいということから彦根城に移城したそうだ。
その直政は築城の計画途中で死去。そのため、完成した彦根城の初代城主は直政の息子、井伊直継がなることに。え、いやまて。番組では彦根城の城主は井伊直孝となってたぞ、と不思議に思ったら、どうやら直継は病弱なため、その後に弟の直孝が家督をついで2代目城主となったそうだ。ゆえに直継は初代としない考え方もあるらしい。
城主となった直孝。大坂の陣ではおおいに武功をあげ、のちの江戸幕府の確立でも大きく貢献するのだ。幕府はその直孝の功績をたたえ、彦根藩を3回も加増する。そして「彦根三十五万石」と呼ばれるようになったそうな。
いやはや、こうしてブラタモリがきっかけでいろんなことを知る。またnoteへのアウトプットで、自分でいろいろと調べる。実におもしろいッ
ところで、番組にあった鐘の丸の仕掛け。江戸時代という太平の世で、あの数々の仕掛けが実際に使われたことってあったんだろか??
「なぜ家康は“彦根がイイ”と思った?」
石田三成、文禄4(1595)年に佐和山城主となる
佐和山城と彦根城、1kmくらいしか離れていない
織田信長 → 丹羽長秀
豊臣秀吉 → 石田三成
徳川家康 → 井伊直孝
信頼の厚い家臣に彦根の地をまかせる
鐘の丸 → 石垣が二重 → 100mな坂、じわ〜っと疲れる → 登ったさきには四方八方から弓や鉄砲 → 橋を落とす仕掛け
破風(はふ)に狭間(さま)がある → 鉄砲などで城内から攻撃するための穴 → 70以上、蜂の巣のようにある
琵琶湖と鈴鹿山脈に挟まれた狭い場所に彦根城
中山道や北国街道の通り道 → 交通の要衝
北側に内湖が広がる → 東京ドーム15個ぶん → 北側の防御、城のすぐ下まで物資が運べる → 彦根藩の繁栄を支えた年貢米
南側に芹川(せりかわ)→ 人工的に流路をまっすぐに変えた川
南側はもともと川がいくつも流れる湿地帯 → 1本の川にまとめたのが芹川
足軽 → 鉄砲などで戦う下級武士
彦根の足軽は一戸建てに住む → 通常、足軽は集合住宅の長屋に住む
彦根の足軽屋敷 → 広さ50〜70坪
彦根藩には京都の天皇を警護する役割 → 家康は彦根の足軽を大切にした
戦乱のない江戸時代、足軽は地域のガードマン
24時間の交代制で監視
彦根仏壇 → 井伊の赤備えとして有名だった武具つくりの技を仏壇つくりに活かしたと伝わる
武具の技術を仏壇へ → 漆、金具、金箔、宮殿、木地、蒔絵、彫刻
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