わし流 にいがたブラタモリの旅 その12 「古津八幡山遺跡④ 〜生活・ものづくり編〜」
弥生時代後期に起きた争乱(倭国乱)が収まったことによって、人びとは丘陵の上から低地へと集落を移した。その低地にあるのが舟戸遺跡である。
そして空いた丘陵の上につくったのが古津八幡山古墳である。時代は古墳時代へと移ってゆくのだ。
その古墳時代中期、舟戸遺跡の竪穴住居にはカマドがあった可能性が高いという。そうであればここは新潟県内でいち早くカマドを取り入れた集落といえるらしい。
また古墳時代の木製の柱や杭が残っているのにはおどろく。通常、木は空気に触れると腐敗して土にかえるからだ。
田んぼのように土が泥状だと空気が遮断されるため木製の遺跡がよく出土するようだが、この舟戸遺跡も田んぼの下だったんだろうか?? 次また来たときは舟戸遺跡の場所も要確認だな。
ほほぉ〜、こんなのもまた面白いんだよなぁ。古墳時代になるとカマドの出現によって米の作りたかに変化があったそうだ。
それまでは炉をつかって米と水をいっしょにして炊く(煮る)方法だったのが、カマドをつかって蒸す方法に変わっていったそうだ。そっちのほうが美味しくなるっちゅうことなんかな?? 知らんけど。
鉄ッ! いやね、わし個人的には、日本人が鉄を自在に操れたことは、日本の歴史において非常に重要なことだったと認識してるのじゃよ。
大航海時代の世界を見てみると、植民地にされた土地の民族の武器や生活は、だいたい木や石が主流だったようなんだな。
それゆえ、鉄製品を独自で作る技術を早くから身につけた日本人の先人たちは本当にすばらしいと思うのだ。
もし身につけていなかったら、航海時代に日本も西洋の植民地、いや、もっと前の元寇のときにモンゴルに占領されとったかもしれんからな。
ま、これは素人の見解だけどね。
へぇ〜、奈良・平安時代の新潟は、越後国(えちごのくに)と佐渡国(さどのくに)の2国に分かれてたんだな。その越後国ではさらに岩船郡・沼垂郡・蒲原郡・古志郡・三島郡・魚沼郡・頸城郡の7郡に分かれていたようだ。
個人的に思うのは、「沼垂」っていう地名は本当に古くから使われてたんだな、ということ。「古代ぬたりのき伝説」から、わし、沼垂に注目しとるからね。「古代ぬたりのき伝説」という名称も、わしが勝手につけたったわ。
(注意)ぬたりのき(渟足柵・沼垂城)とは……自分でググってね。
これもまたおもしろいのぉ〜。古津八幡山遺跡の丘陵のふもとから、製鉄炉7基、木炭窯20基以上、鉄くず約9.5トンが見つかったとか。
ということはだよ。現在は新潟のものづくりといえば燕三条だが、古くはここ新津がルーツっちゅうことなんだな。
この時代の新潟のものづくりの中心地は新津丘陵だったそうだ。丘陵の東側では器などの焼き物がさかんで、西側では鉄づくりがさかんだったようである。
そして新津の「金津」という地名は、ここからきてるのだそう。なるほどッ。
砂鉄集め → 炭焼き → 製鉄(製錬)→ 鍛冶 → 鋳造
という流れで鉄製品がつくられる。これらの技術がのちの日本の歴史を大きく変えたのかと思うと、先人たちのたゆまぬ努力とその積み重ねには、本当に頭の下がる思いだ。
へぇ〜、技術の進歩によって、使われる鉄の種類も変わるし、採れる量も変ってくるんだな。これら鉄製品をつくる職人さんの技術の進歩が、日本の文明の進歩につながっていくのである。
時代によって、製鉄炉と木炭窯の形がちがうらしい。職人さんの様々な工夫や、また他の地域の形を取り入れていくことによって、このような変化がおきたんだろうな。
こうして古津八幡山遺跡をとおして、新潟の先人たちのたゆまぬ努力と、その積み重ねの歴史に触れることができたのは、うん、とても良かったッ。
しかもそれが自分の住んでいるところの近くにあるのだから、さらにおどろく。
歴史はなにも本やドラマのなかだけでもなければ、京都や奈良に足を運ばなければならないわけでもない。
こんな身近なところにも、日本人のすばらしい歴史が潜んでいるのだ。大事なのはそれに気づくか気づかないか、ただそれだけなんだろうな。
そんなことを考えながら、この新潟の悠久の歴史に想いを馳せるのであった。
おわり。