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ブラタモリ日記その56 「東海道“五十七次”の旅 ▼ 第一夜 京都・三条大橋から伏見へ」 (2024.11.2)

「はじまりましたブラタモリ〜ッ(あいみょん)」。三夜連続の特番で8ヵ月ぶりの復活である。春に終了したときは「また別のたかちで…」とかなんとか言ってはいたが、もうないんだろうなと思っていたボクとしてはめっちゃうれしいッ。

今回は「東海道五十七次」。ズバリ「道」がテーマである。新潟の歴史には「川」「湊」「堀」はよく出てくるが、「道」がなかなか出てこない。その点で今回の放送はボクにあらたな視点をほどこしてくれるのではないかと期待する。

そんな三夜連続放送のブラタモリ。まず第一夜では冒頭から歌川広重。以前、少しだけ趣味で浮世絵を模写していたことがあった。しかし描いたのは主に喜多川歌麿や東洲斎写楽などの人物の画ばかり。

じつは歌川広重に挑戦しようと何度か試みようとしたのだが、なかなか手が出なかったのだ。なぜなら広重ブルーが美しすぎてハードルが高いように思えたからである。うん、また時間ができたら今度は歌川広重に挑戦しよう。ホント青がキレイなんだよなぁ……

「東海道五拾三次之内 京師 三條大橋」
歌川広重

そしてタモリさん一行は三条大橋の欄干の柱に注目する。そこには「天正十八年 豊臣」と彫られてあった。年号と豊臣の文字である。430年以上前に秀吉によって造られた日本で最初の石柱の橋だということを表している。

「天正十八年 豊臣」の文字

また大津追分の三差路の石柱には道の行き先が彫られてある。ひらがなとカタカナが混ざった文で「みきハ京ミち」「ひたりハふしミ」。江戸期ではひらがなとカタカナが混ざった文章はわりと多い。

「みきハ京ミち」
「ひたりハふしミ」

古文書を勉強するようになってからというもの、このような石に彫られた文字がめっちゃ気になるようになった。神社などに寄進された鳥居や狛犬などを見ると、ついついウラ側を見て彫られた文字を探してしまう。

そして文字を見つけたときの興奮、その文字が読めたときの感動、これがたまらないのよぉ〜。寄進物に限らずなんでもウラってホントおもしろいと思うよ。

タモリさん一行が伏見で最後に訪れたのは伏見駿河屋本店。ここで練り羊羹が紹介される。しかしじつはタモリさん、8年前にもブラタモリ伏見編で羊羹を食べていたというのだ。そのときに紹介されたのがコチラ。

蒸し羊羹

これは食べてみたいッ! てか、いや、すまぬ。今回紹介されたのは練り羊羹なのだが、ボクが個人的に食べたいッて思ったのは8年前のVTRで紹介されてた蒸し羊羹のほうだ。日持ちがしないってのがすばらしい。それに8年前のタモリさん、絶賛してたし。

いや、これまで菓子の世界でずっと仕事してきたくせに、和菓子のことはなんも知らんのだ。それに羊羹ってあまり食べたことないし。ましてや蒸し羊羹なんて……。そこで調べてみたら、え、なに、秀吉の茶会で引出物に使われたとか。うっわ、めっちゃ食べたいッ



「東海道“五十七次”の旅 〜行けばわかるさ徳川の思惑〜」

京街道の4宿


高山彦九郎

高山彦九郎 → 江戸時代の思想家。伏し拝む姿が銅像となり、今では待ち合わせ場所として親しまれている。


京都・三条大橋
擬宝珠(ぎぼし)
「天正十八年 豊臣」の文字

擬宝珠(ぎぼし)→ 「天正十八年 豊臣」の文字 → 1590(天正18)年、豊臣時代のもの。

「日城石柱 橋濫觴乎」→ 濫觴(らんしょう)……物の始まり → 日本で初めての石柱橋


「東海道五拾三次之内 京師 三條大橋」
歌川広重
「東海道五拾三次大尾」

「東海道五拾三次大尾」→ 京都の三条大橋が東海道五十三次のゴール

スタートは江戸の日本橋 → 五十三の宿場町を通って三条大橋がゴール

東海道分間延(ぶんけんのべ)絵図 → 徳川幕府が作った東海道の絵図。太い道が東海道を表す。

五十七次は大坂がゴール(京都から大坂まで全長54km)


五十三次と五十七次の分かれ道

三条大橋から6kmほど戻ったところが「五十三次」と「五十七次」の分かれる三差路

五十三番目の宿場町 大津

「みきハ京ミち」
「ひたりハふしミ(伏見)」


鬼の寒念仏(かんねんぶつ)

大津絵 → 大津街道みやげ。江戸時代にこの辺りで生まれたと伝わる民画。東海道を行く旅人から絶大な人気を集めていた。

鬼の寒念仏(かんねんぶつ)→ 大津絵の代表的な絵柄。「お守り」「魔よけ」「夜泣き止め」として
使われた。


五十七次は京を避けるように大津街道を通る

五十七次は京を避けるように大津街道を通る → 参勤交代で京都を通らせたくない → 朝廷と大名たちが接触してしまうから

反乱を防ぎ、平和な世の中をつくりたい → 徳川の思惑


伏見稲荷大社
伏見十石舟

五十四番目の宿場町 伏見 → 江戸時代は人口2万人を超えて五十七次のなかでは最大級の宿場町

伏見稲荷大社 → 千本鳥居、日本有数の酒どころ

観光船「十石舟」→ 濠川(ほりかわ)→ 伏見城の堀

東海道ができる前は秀吉がつくった城下町があった 

秀吉がつくった城下町をそのまま家康が引き継いで、東海道の宿場町にした → 徳川の思惑 

家康の晩年の25年間、伏見に多くいた


御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)
三つ葉葵 
見づらい……(滝汗)

門 → 家康十一男 徳川頼房(よりふさ)の寄進。(水戸徳川家の祖)→ 1603年、伏見で生まれる

建物 → 家康十男 徳川頼宣(よりのぶ)の寄進。(紀伊徳川家の祖)→ 1602年、伏見で生まれる

家康九男 徳川義直(尾張徳川家の祖)→ 1601年、伏見で生まれる(諸説あり)

江戸幕府を支えた御三家がぜんぶ伏見で生まれる


伏見駿河屋本店
練り羊羹

8年前のブラタモリ伏見編で紹介された「総本家駿河屋 伏見本舗」の分家が「伏見駿河屋 本店」

「蒸し羊羹」を日持ちがするようにしたのが「練り羊羹」

分家である伏見駿河屋本店が練り羊羹を開発 → 日本全国へ広がる(諸説あり)

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