ブラタモリ日記その45 「鯖街道・京都へ #254」 (2023.11.11)
今回のブラタモリは鯖街道。江戸期の物流をささえたものに舟運の北前船があるが、もうひとつに陸路の街道も重要な役割を担っていたのでは、と最近になって考えていたところに今回の鯖街道。ナイスタイミングッ。
鯖街道のスタート地点は福井県の小浜。番組では北前船というワードはでてこなかったが、調べてみるとやはりここも北前船の寄港地だ。番組内でも能登のイワシや津軽のたばこ、山形の紅花が入ってきたとあった。
それら全国の特産品が北前船によって港におろされるが、そのすべてが港町で消費されるわけではない。こんどは陸路で近隣各地へ運ばれるのだ。その重要な役割を担ったのが街道なのである。
よって街道は人の往来が多くなるため、さまざまな茶店や宿が立ち並ぶようになる。そしてそこは宿場町として栄え、人の交流や情報交換もさかんに行われるようになるのだ。街道はまさに江戸文化の基盤ともいえるんだな。
そんな街道のひとつである鯖街道。鯖街道を使うと小浜でとれたサバを新鮮なまま一日で京都まで運べたため、京都で鯖寿司が生まれたという。また室町時代には、足利将軍家への贈り物としてゾウが運ばれたとか。室町後期には相次ぐ反乱での足利将軍の避難ルートであったり、戦国時代には浅井朝倉に挟みうちにあった織田信長が逃げ道に鯖街道を使ったとか。
このように鯖街道はサバだけでなく、京都と繋がってるために、歴史的にもたいへん大きな役割を担っていたのがわかる。ではその鯖街道がどのようにしてできたのか。
それはなんとふたつの断層が交わり直角に曲がったことによってできたという。そして偶然にもその断層が、ちょうど小浜と京都をむすぶことになったとか。まさに断層による奇跡、小浜と京都のランデブーではないかッッ。
で、ここでふと疑問がわいてきた。江戸期には有名な五街道をはじめ、たくさんの街道があった。これらの街道のうち、今回の鯖街道のように断層に沿ってできた街道ってどれくらいあるんだろうか? そもそも江戸期の街道ってどれくらいあるんだろう。ちょっとググってみた。
!!
100以上かいッッ。そんなもあるんかいッ。……ちょっとおどろいた。こりゃ気が遠くなるわ。うん、五街道だけ調べてみよう。五街道の成り立ち、道のり、宿場町、地質や地形、あとエピソード的なものもふくめていろいろ調べてみたい。
このようにブラタモリを観てると、今まで知らなかったことを知れるのはいいのだが、そこからまたあらたに疑問がわいて知りたいことがどんどん増えていくのだ。それが番組をみるたびに雪だるま方式に増えていくから、おっちゃん調べようにも、もはや何から手をつければいいのかわからんわいッ。
「鯖街道は何を運んだ?」
鯖街道 → 小浜〜京都(全長72km)
サバを新鮮なまま一日で京都へ
若狭湾では江戸時代中期〜昭和にかけて大量のサバがとれた → 一大消費地の京都へ
古代から小浜近海のさまざまな魚や貝が京都・奈良へ運ばれていた
1408年の室町時代に東南アジアから大型船が来航
日本で初めてゾウが上陸した地
足利将軍家への贈り物として鯖街道をゾウが歩く
京都の日本海側の玄関口として発展
熊川宿(くまがわじゅく)→ 鯖街道最大の宿場町として栄えた
芋洗い器 → 用水路の水の流れを利用して芋の皮をむく → 30分くらいでむける
用水路は荷物を運ぶ牛馬に水を飲ませることが主な目的
お茶を入れたやかんを用水路に入れて、お茶を冷やす
人馬継立(じんばつぎたて)→ 小浜からの荷物を引き継ぎ、人や馬を交代しながらリレー方式で京都へ運んだ → 京都まで一日で運ぶ
能登のイワシ、山形の紅花、津軽のたばこなどが舟運で小浜に入って京都へ
小浜から京都までの最短距離である直線は、山が険しくて大量の荷物を運ぶのに不向き
鯖街道は起伏が少ない
熊川断層と花折断層 → 横ずれ断層 → まっすぐな谷がうまれる
東西にのびる熊川断層と南北にのびる花折断層によって開かれた道
プレートの沈み込みの影響で東と西から圧縮する力が働いている
共役断層(きょうやくだんそう)→ 断層面が交わり、ズレの向きが逆方向になるふたつの断層
ふたつの断層が小浜と京都をつないだ奇跡
朽木(くちき) 興聖寺(こうしょうじ)
室町時代に足利義晴、義輝が8年間住んでいた
武家庭園 → 豪壮な感じの石組み
室町時代後期、幕府の権威が揺らぎ、反乱などから逃れるため(避難ルート)
浅井朝倉に挟みうちにあった織田信長が逃げ道につかったのが鯖街道
出町橋 → 鯖街道の終点
鯖寿司 → 京都が発祥
若狭一汐(わかさひとしお)→ 少しの塩で運ばれた魚
魚を長持ちさせるには大量の塩が必要 → 一日で運べる鯖街道のおかげでわずかな塩で京都へ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?