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講演会日記 その4 「学芸員さんによる展示解説」

毎週土曜日の11時から学芸員さんによる展示の解説があるというので参加してきた。このような展示会はボクのようなド素人が観たって「へぇ~」って眺めるだけで、じっさいその展示物がどういうものかよくわからない場合が多い。

そういう意味でも展示会を存分に楽しむには、やはり専門家による解説は必須である。そこでさっそくその解説を聴きにみなとぴあへと足を運んだ。

11時になって学芸員さんによる解説が始まった。あいさつだの自己紹介だのはそこそこにして、そうそうに解説が始まる。いやなんだろ、みょうに聴き入ってしまうぞ。なんだかおもしろいのだ。

学芸員さんったら、ちょっと挙動不審ながら北前船の歴史を熱く語りだすのだが、熱血すぎて話が止まらない。そして途中で時間がおしてるのに気づいても、まったく動じることがない。

「あ、時間内に終わりません、すみません」とひとこと言うだけで、またマイペースに解説を続ける。けっして駆け足で早めることはない。けっきょく解説予定時間30分のところ、彼は50分しゃべりつづけたのであった。

よっぽどこういった郷土の歴史が好きなのだろう。い〜よい〜よ〜、その大好きさ加減が伝わってきてめっちゃおもしろかったぞ。毎週土曜日にあるから、もう一回くらい参加してみようかしら。内容は同じだろうけど。

解説の前にオレたちのナイススティックで腹ごしらえ


北前船の登場以前

戦国時代の海運は敦賀を境に東西二分していた

戦国時代末期の近江商人は蝦夷(北海道)の松前藩に進出し、ニシンの大規模な経営をはじめた

近江商人は松前からニシンを海運で敦賀まで運び、そこから陸運で京都や大阪へ運んで売りさばいた

1700年代半ば、ニシンの不漁がつづき近江商人の経営が振るわなくなる → 新たに他所の商人が進出する 

大阪で綿花の栽培が盛んになり、ニシンを加工した魚肥の需要が高まる → 北海道から大阪までの航路を行き交いながら、さまざまな商人がさまざまな産物を買いつけて別の場所で高く売る「買積」の経営を始めたのが北前船のはじまり

北前船のはじまり


ニシンと綿花栽培


場所請負と近江商人


「北前」の語源

「北前」はもともと京や大阪、瀬戸内から見て、北のほうにあたる日本海海域を指すことば → 新潟では北前船とは呼ばなかった

新潟では「廻船」と呼ばれていたが、後世になって語感やイメージから「北前船」が一般的になった

新潟から大阪まで早ければ20日、遅ければ3〜4ヵ月 → 天候や風によって大きく差が出る


北前船の船員

● 炊(かしき)∶15〜17歳、見習い、ご飯(まかない)作り。

● 平水夫(ひらかこ)∶炊を2〜3年経験すると一人前として、一般船員の平水夫になる。

● 三役(さんやく)∶知工(ちく・事務長)、表(おもて・航海長)、親父(おやじ・水夫長)の三役。早い人で30代前半で就任。

● 船頭(せんどう)∶船のオーナー、または雇われ船頭。


船箪笥(ふなだんす)

佐渡の小木産が有名

水に放り投げると浮くとか??(←真偽は不明)


「新潟湊の真景」

新潟湊は水深が浅い

大型船は沖に停泊して、小舟(瀬取り)で運ぶ


廻船問屋・前田屋

廻船問屋 → 北前船と取引をする

新潟町の北前船主、小澤家

小澤家は「観徳丸」「幸運丸」の2艘で経営

北海道で米を売ってる間に相場が下がったため、相場が上がるまで停泊し、その間もう1艘で運航

明治に入ってから鉄道が普及 → 明治20年代から北前船は下火 → 北前船主は経営を多角化


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