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江戸時代日記 その2 『幕府は「百姓・町人」とどう向き合ったのか?』
第2回は「武士と百姓・町人の関係」についてである。とりわけわしが個人的に注目したのが武士と百姓の関係じゃ。
百姓といえば、領主(武士)から虐げられるイメージがある。たしかに映画やドラマなどではそんな場面が描かれることが多いように思う。しかし本番組はそれを否定する。
考えてみればそうかもしれない。江戸時代は天下泰平の世として約260年も続くのだ。もし百姓がヒーヒー虐げられるような世の中だとしたら、果たして260年も続くだろうか。
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たしかに百姓一揆はポツポツと起きとった。しかし歴史的な戦争や大きな反乱・革命が260年もの間まったく起きなかったというのは世界の歴史をみても稀有な例である。
しかもそれだけじゃあない。なんと江戸時代に入ってからその百姓がつくる米の生産量が飛躍的に伸びたというのだ。平和が維持され、なおかつ生産性が上がる。おぉ〜、いいこと尽くめじゃないか。それが果たして百姓が奴隷のように虐げられて可能なのだろうか、ということである。
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では、百姓たちが虐げられていたのがウソだとしたら、江戸時代の平和と生産性向上のヒミツとはどんなものなのだろう。それはまずひとつに豊臣秀吉の時代におこなわれた兵農分離があるようじゃ。
武士を城下町に集め、百姓と区別したのが兵農分離。武士が城下町に集まっていれば城の防御や兵の動員に都合がいいし、百姓は百姓で耕作に専念できる。たしかにそうじゃな。仕事というのはうるさい上司がいるとどうにもはかどらないもの。なぜならいちいち上司の顔色をうかがって仕事をするようになるからだ。
また百姓の中からひとり、責任者の庄屋(名主)を決めて自治に任せたという。そして年貢の納入や犯罪などを連帯責任としたのだ。おッ、いやこれはね、今わしは古文書を勉強しているところで、こういったことはすごくよくわかる。すべて記録されてるんだな、古文書に。
このように村から武士がいなくなったことによって百姓は耕作に専念できるようになるのだ。しかも年貢にはノルマを課したり、犯罪は連帯責任を負わすことで、領主が目を離していてもちゃんと年貢が納められるという仕組みが完成する。その結果として米の生産量も上がるのだ。
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またこんなこともある。納める年貢の量の変化だ。秀吉の時代は2公1民といって、収穫量の 2/3を年貢として納めなければならなかったそうだ。百姓には収穫量全体の 1/3しか残らないのだぞ、キビシィ〜ッ。
それが江戸時代に入ると5公5民(収穫量の半分が年貢)、さらに4公6民(収穫量の2/5が年貢)と、次第に年貢の量は減っていくのだ。百姓の利益がないと飢饉のときに村が潰れてしまうのと、勤労意欲が向上しないからだとか。厳しいだけではダメなんだなぁ〜。
ようするに、エラい人がギラギラ睨みをきかせる奴隷的スパルタをやめて、村単位のひとつのチームとして考える。つぎにリーダーを決めてノルマと連帯責任を負わせる。そんであとはすべて村の自治に任せるのだ。
また年貢(税金)も取りすぎることなくちゃんと百姓にも利益(収入)が残るようにする。すると村の団結力は上がるわ、生産性も上がるわ、領主がいちいち目を光らせるよりそっちのほうが良くなったっちゅうこっちゃな。なるほどッ、現代の国や会社に当てはめるとまたおもしろいのぉ。
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番組はこれだけではない。武士と町人(職人・商人)の関係にも触れている。これがまたおもしろいのだ。年貢の免除を条件に職人や商人を城下町に集めた話、町人が年貢米を換金する役割をしていたことから貨幣の仕組みが発達した話、物価高と米価安によって武士の実質賃金はマイナスとなり借金漬けになった話などなど、めっちゃおもしろいぞ。
ようするに武士は表向きはエラそうにしてるのだが、百姓を怒らせては年貢にひびくし、町人からは借金をしてるしで表立って強くは言えないようで、持ちつ持たれつっちゅう関係だったようじゃ。とりわけ借金はねぇ〜、返済が滞ると立場がコロッと逆転するからね。だから江戸時代は商人の存在感が圧倒的になってくんだな。なるほどッ!
『幕府は「百姓・町人」とどう向き合ったのか?』
戦国時代は下剋上 → 秀吉が終止符、刀狩りをして武士と農民のちがいを明確にする
家康が新たな社会秩序を目指す
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【武士と百姓の関係】
武士は名字帯刀を許され、城下町に屋敷をかまえる
百姓は村で暮らし、農業など第一次産業に従事 → 生産高のおよそ半分を年貢に納める
人口比率 (江戸時代末期)
武士 約 7%
百姓 約85%
↓
人口の約8割を占め年貢を負担する百姓は幕府を支える重要な存在
兵農分離 → 領主である武士を城下町に集め、村に残って年貢を納める百姓と区別分離していく
百姓には刀狩り
領主からすると、領地を維持し拡大するには常備軍のように城下町に集まっていた方が都合がいい
百姓から年貢をたくさん取るには徹底した検地をおこない、耕作に専念させた方がいい
庄屋(名主)→ 村をまとめ運営する村役人のひとり
庄屋を責任者に取り立てて、村の内部に委ね、自治に任せる → 村請制(むらうけせい)
村請制 → 村単位で年貢などを納める制度
村から武士がいなくなるので耕作に専念する環境が整えられた → 生産性が次第に向上した
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」
神尾春央(かみおはるひで 1687−1753)江戸中期の勘定奉行
秀吉の時代は2公1民(収穫高の2/3を年貢として納める)
↓
次第に軽減
5公5民(収穫高の半分が年貢)
4公6民(収穫高の2/5が年貢)
百姓の利益がないと飢饉のときに潰れる
取り尽くされると勤労意欲が向上しない
厳しいだけではダメ、神尾春央のやり方は後に批判される
初期は検見法(けんみほう)→ 役人が現地で収穫高を調査し、年貢の量を決める → 役人を派遣するコストがかかるし、農民も役人をもてなす負担がかかる。また役人へのワイロなども起きる
定免法(じょうめんほう)→ 過去数年間の年貢を平均し、一定期間同額の年貢を納める
定免法は力のある農民ほど米がたくさん残る → 階層分化を広げる → 百姓のあいだで貧富の差が広がる
領主が領主としての務めを果たしているかぎりは、百姓も自分たちの務めを果たすという観念があった → 役割分担
村の連帯責任になっているのがポイント
階層分化が広がり争いも起きる一方で、村としてのまとまりも強くなる
村としての存続を計らざるをえない仕組み
農業生産力の向上で人口が急増
慶長5(1600)年 → 約1200万人
享保6(1721)年 → 約3000万人
現代も30年くらい前とくらべて格差は広がったといわれている一方で、スマホの普及・衛生環境の向上・ハラスメントはやめようという意識の広がりなど、全体としての生活水準はゆるやかに向上
四季耕作子供遊戯図巻(しきこうさくこどもゆうぎずかん)→ 農村の一年を季節のうつろいとともに描いた作品
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【武士と商人の関係】
天正18(1590)年、徳川家康 江戸に入る → 全国から職人や商人を集める
大工、鍛冶屋などさまざまな職種の人たちが集まり、町人の町ができて大いににぎわう
なかには呉服商の越後屋のように一日千両を売り上げる大商人もあらわれる
町人(職人・商人)に年貢はなかった → 年貢の免除を条件に集めて城下町を形成した
そのかわり、人足役(労働)を幕府や藩に納める
人足役 →
・役所で肉体労働や雑用をする
・町の治安維持、消防、防火
・大工や鍛冶の仕事を城主に奉仕
(米) (米)
百姓 → 武士 ↔ 町人
(お金)
年貢米をお金に換える役割を果たしていたのが町人
札差(ふださし)→ 武士が受け取った米を換金する業者
米の換金によって貨幣の仕組みが発達した
経済力を考えると町人の存在感が圧倒的になっていく
最初につくった町は日本橋や京橋あたり → その外側はもともと村だったが、町がどんどん大きくなっていった
18世紀、江戸の人口は約100万人に(武家 約50万人、町人 約50万人)
武士は町人なしでは生きられない
耕地面積の拡大 → 米の生産量が急激に上がる → 人口はゆるやかに増加 → 米価は安いが、他は物価高がすすむ → 米を換金しても世間の物価よりも安い → 実質賃金マイナスのため、多くの武士が借金漬けに
武士の返済が滞る → 商人が訴える → 商人の立場の上昇
相対済し令(あいたいすましれい)→ 金銭の貸し借りを伴う訴訟に幕府は介入しないとして当事者同士で解決するよう命じた法令
お金を貸しても貸し倒れになるリスク → 武士と町人は微妙な関係で、単に大名や武士が上から威張っていたというわけではない → 統合と交流
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(とうとおおでんまがいはんえいのず)
東都大伝馬街繁栄之図 → 江戸で一番の繁華街・日本橋から近い大伝馬町(おおでんまちょう)
江戸時代の体制というのは、ある種の原則とか建前はしっかりあったわけだが、そこから外れた社会の実態や原則から逸脱した部分に注目すると、江戸時代のおもしろいところが見えてくる