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ブラタモリ日記その36 「博多 #17」 セレクション(2015.9.19)
今回のブラタモリセレクションは博多。北陸に住むボクとしては、博多と福岡と北九州の違いがいまいちわからない。知ってることといえば、せいぜい福岡は黒田長政が領主となったときに、自身の出身である岡山県福岡にちなんで名づけたということくらい。
番組では那珂川(なかがわ)を境に東と西に分かれて、東側の博多は町人の町、西側の福岡は武士の町と軽く説明があったが、どうにも物足りない。そこで自分で調べてみた。するとそこにはまたいろいろと名称で揉めた歴史があるんだな。
まず、もともとの地名は博多だったようだ。そこへ前述したとおり、江戸幕府の開府にともない長政が領主となり福岡城を築城。城のまわりを福岡と呼ぶようにした。おそらくこれがのちに混乱をきたすきっかけになったのではなかろうか。
明治になり廃藩置県により福岡県が誕生。それにともない市政制度で、福岡市にするか博多市にするかで揉めに揉めたようだ。結局なんと1票差で福岡市となる。そして対案として駅を博多駅と名づけたそうだ。なんてったって1票差、そうでもしないと博多派は納得しないわな。
それからというもの、さまざまなところで博多という名称が使われていくのだ。ここに博多派の執念をみる。ま、もともとが博多だったのだからそうなるのも致しかたなかろう。他県の人間からしたら混乱するだけだけど……汗
ついでながら、さらに調べると福岡県に福岡駅という駅は存在しないのだが、なんと富山県に福岡駅という駅が存在するらしい。なんやねんッ。どんだけ混乱させんねんッ。
まあ、ここはさすがに福岡県と富山県、日本人でまちがえる人はいない。ところが外国人で福岡県に行こうとして富山県の福岡駅に着いたというケースが発生するらしい。マヂかッ、福岡県に行こうとして富山県……もはや絶望しかないな。ナンマイダ、ナンマイダ。
また番組をみていて気になった点がもうひとつ。タモリさんの子どものころの話だ。タモリさんが大博通りを歩いていると、とつぜん4〜5歳の記憶を思い出す。
むかし大博通りのところに池があったというのだ。子ども心に、どうしてここに池があるのだろうと思ったそう。それはのちほど聖福寺の古図で確認できるのだが、4〜5歳の子どもが池を見て、どうしてここに池があるのだろうとふつう考えるか??
さらにタモリさんが高校生のころ、櫛田神社の急な階段を見て、なぜここにこんな急な段差があるのだろうと思ったそう。ひぃ~、高校生が神社の階段を見て、なぜって考えるか??高校生なら、うりゃ~ッて叫びながら二段飛びなんかして終わりだよ、ふつう。
こうしてみると、タモリさんは子どものころから着眼点と発想力がほかの子とちがうんだな。ボクなんか4〜5歳のころの記憶なんてほとんどなくて、なすがまま、なされるがまま、なんも考えてなかっただろうし、高校のころにいたっては、腹へったー、なんかくれー、マージャンしてー、この3つしか考えたことなかったわ。う〜ん、ますますタモリさんに興味がわいてきたな。
「博多誕生のカギは “ 高低差 ” にあり」
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東側が「博多」、西側が「福岡」
博多 → 町人の町
福岡 → 武士の町
博多と福岡のあいだに石垣(高さ8m、長さ800m以上)
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太閤町割(たいこうまちわり)豊臣秀吉
天正15(1587)年、焼け野原となった博多を、石田三成と黒田官兵衛が中心となって区間整理をした
大博通り(たいはくどおり)→ 太閤町割の基準
もともとは砂丘、弥生時代からどんどん陸地が広がった → わずかな高まりを基準(5〜6mくらい)
昭和52(1977)年から博多の発掘調査が始まり、二千年にわたる遺跡の存在が明らかに
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櫛田神社 → 天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757年)創建と伝えられ、博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)などの祭事がとりおこなわれる
櫛田神社の周辺はかつて港だった → 日本最大の貿易都市 博多
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博多鋏(はかたばさみ)→ 江戸時代、刀鍛冶職人によって博多に広まった
町筋にはうなぎの寝床のような家屋が密集 → 博多織や博多人形などの職人が暮らしていた
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鴻臚館(こうろかん)→ 平安時代の福岡にあった外交・交易窓口施設
平和台球場を取り壊したところから、鴻臚館の跡が出てきた
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聖福寺(しょうふくじ)→ 建久6(1195)年、栄西(ようさい)によって創建。日本最初の禅寺。境内は国指定の史跡となっている
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創建当時は博多のなかでも一番高い場所
800年のあいだに周辺が高くなる
銅鐘(どうしょう)→ 11世紀、高麗時代の朝鮮鐘。小早川隆景が寄進した(国指定重要文化財)
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聖福寺古図 → 室町時代末期の博多の町並みを描いたとされる。唯一現存する古図
左上の蓮池が、タモリさんの記憶にあった池
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博多遺跡 → 弥生から江戸までずっと途切れることなく、人々が生活しつづけた → 複合遺跡
複合遺跡 → 2つ以上の時代の生活面からなる遺跡
博多遺跡は弥生から近代まで重層的な構成
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甕棺墓(かめかんぼ)→ 大きなかめをひつぎとして埋葬する墓。九州北部の弥生時代の層から多く発掘される