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ブラタモリ日記その15 「大阪 #53」 (2016.11.5 放送)
「江戸は武士が多くて商人が少ない。逆に大阪は武士が少なくて商人が多い」
番組冒頭でタモリさんが口にした言葉だ。これはまあ、なんとなくボクでも想像できることだ。それでは具体的にどれくらい武士が少なかったかというと、江戸時代の大阪には武士はなんとわずか2%ほどだったというのだ。1806年の古地図を見ても、武家地はごくわずかだったそう。これには驚いた。大阪は本当に商人の都だったのだ。
また大阪城から天王寺方面へ向かって、上町台地という台地が広がっていたという。そして台地のふもとは、広大な湿地帯だったというのだ。そこでふと思い浮かんだのは大坂の陣だ。
なるほど、だから大坂の陣は台地の上である大阪城から天王寺のあいだが戦場になったのか。では台地のふもとの湿地帯って、どれほどの湿地だったんだろう。馬がなかなか進めないほどの湿地??という疑問がわいてきた。
そこでなんとなくブラタモリの過去放送リストをみたら、なんと次の #54 が「大坂城 真田丸スペシャル」ではないかッ。観たい……観たい……再放送してくれんかな………
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大阪はなぜ日本一の商都に?
江戸は武士が多くて商人が少ない。逆に大阪は武士が少なくて商人が多い。
江戸時代の大阪は武士が2%くらい
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上町台地(うえまちだいち)の先端が大阪城
「大坂は凡そ日本一の境地なり」(大坂は日本一の場所)織田信長
上町台地に大阪城 → お城を作るには三方が低いので防御しやすい(名古屋城も江戸城も大地のヘリ)
上町台地のヘリに船着き場 → 京都からは淀川、奈良からは旧大和川を通してつながる都への玄関口
中国、東南アジアから瀬戸内海を通じて船がくる → 国際貿易の拠点
織田信長の大阪を商都にする計画を豊臣秀吉が引き継ぐ
上町台地のまわりが湿地帯のため、台地の上に城下町
両側町 → 通りをはさんだ両側を単位とする町組
顔をつきあわせていて違う町内というのは不自然なため両側町にした
町境の路地に排水溝 → 背割(太閤)下水
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上台地の両側を埋め立てて船場という町をつくる → 秀吉が道を直線につくる
船場の西側は町民が町をつくる → 豊臣政権が滅亡したため
北側の中之島に130の藩の蔵屋敷 → 各藩の大名が年貢米や領内の特産物を売るために置いた倉庫兼邸宅 → 日本中の財が大阪に集まる
江戸時代には日本一の商都といわれた
織田信長から始まり、秀吉が城を建てて城下町をつくり、町人がさらに広げる