ブラタモリ日記その57 「東海道“五十七次”の旅 ▼ 第二夜 京都競馬場と石清水八幡宮へ」 (2024.11.3)
さて、第二夜は淀宿から。淀の宿場町はなんと淀城の敷地内にあるという。そして家康が淀で本当に作りたかったのは淀城のほうで、宿場町はオマケだとか。
その淀城。番組では「徳川が築いた淀城」と言っていたが、「あれ?徳川?? 淀城って秀吉が築いて茶々を住まわせた城じゃなかったっけ??」と疑問が浮かぶ。
そこで調べてみると、どうやら茶々が住んでいた城は淀古城(よどこじょう)と呼ぶそうだ。しかも築城主は秀吉ではない。秀吉はもとからあった淀古城を改修して、茶々を住まわせたという。そして番組で紹介された徳川の淀城とはわずか500mほどしか離れていない。
現在の淀城は番組にもあったように、江戸期に入ってからの1623(元和9)年に徳川が築城。いっぽう淀古城はもっと古くからあって築城年は不明。史料をたどると少なくとも室町時代にはあったようだ。
そしてここがややこしくなる原因なのだが、秀吉の時代では淀古城を淀城と呼んでいたようなのだ。で、現代になって徳川の淀城と区別するために、秀吉の時代の淀城を淀古城と呼ぶようにしたという。
ということは、徳川が築いた淀城は「シン・淀城」っちゅうことじゃな。ややこしいんだけど、でもこういう成り立ちや経緯を調べるのもまた歴史のおもしろいところなんだなぁ〜。
さて、タモリさん一行は石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)へ。こちらの桜門、徳川の家紋である三つ葉葵がなんと参拝者からは見えないウラ側に刻まれてあるそうだ。「隠し葵」という。
番組を観た方なら上の画像でもなんとなくわかると思うが、ここに家紋が刻まれてると知ってないとわからんな。しかも参拝者からは見えないウラ側。
やっぱウラっておもしろいなぁ〜。うん、やはりウラなんだよ。物事の本質や真実はだいたいウラ。なんでもウラを見るとおもしろいのだ(持論)。
また、この石清水八幡宮は京を守るためにまつられた神社だという。そして織田・豊臣・徳川といった名だたる武将らにあつく信仰されたとか。西国から見ると、ちょうど淀は京への玄関口、重要な関門にあたるからだ。
………
と、そこで疑問なのが、秀吉はなぜそんな重要な場所である淀に茶々を住まわせたんだろ……。自分の後継者を産もうとする大事な側室だぞ。淀城と淀古城の間はわずか500mほど。ほとんど同じ場所と言っていい。
いや、これはド素人の勝手な想像だけどね。きっと秀吉の時代では淀はそれほど重要ではなかったのではないか。淀古城は大坂城と伏見城の間に位置する。どちらも豊臣の城。その間にはさまれた淀古城はむしろ安全な場所だったということかな?
ところがだ。家康の時代になると天下の中心は江戸に移る。伏見城は廃城となり、一転して淀は京や江戸を守る重要な場所となる。そこで徳川は「シン・淀城」を築城……と、素人なりに推測したのだが、これでいいんかな?? 知らんけど。
「東海道“五十七次”の旅 〜行けばわかるさ徳川の思惑〜」
京都競馬場のコースの内側には池 → 巨椋池の名残り
巨椋池(おぐらいけ)→ 京都南部にかつて存在した巨大な池。昭和のはじめに干拓された。
巨椋池周辺は湿地帯
淀という地名は「水が淀む」
第三コーナーの高低差は堤防の痕跡 → 秀吉が築く
淀城 → 水城 → 宿場町は城郭の中
家康が本当につくりたかったのは淀城。宿場はオマケ
淀城は徳川の権威をしめすための城 → 徳川の思惑
石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)→ 平安時代(860年)に創建
現在の本社は徳川家光によって1634(寛永11)年に建造された
参拝者から見えない位置に徳川の家紋が隠されてある → 隠し葵(あおい)
大政大臣となった秀吉が奉納
「豊臣大政大臣」と刻まれている
黄金の雨樋(あまどい)→ 長さ21.7m → 織田信長が奉納
金と銅を混ぜた合金でつくられている
黄金の雨樋一本で御本殿の建て直しができるくらい高価
なぜ石清水八幡宮は織田・豊臣・徳川といった武将らに厚く信仰されたのか
① 京都盆地がぐるっと見える
② 2つの山に囲まれた地形が、京都を守る重要な関門の役目となる
石清水八幡宮は京都を守るためにまつられた神社
京都への関門の目の前に置いた城こそ徳川の淀城
西国の外様大名が反旗をひるがえして江戸に向かって攻めてきたとき、地形の関門と淀城で守る → 徳川の思惑
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