ブラタモリ日記その31 「燕三条 #246」 (2023.9.9)
いやはや、ブラタモリ日記のアップが遅くなってしまった。というのは、今回放送されたブラタモリ燕三条はブラタモリらしさがなく、普通の民放の旅番組と変わらないと感じたのだ。そのため、自分で「ものづくりの街、燕三条」の歴史を調べていた。
そこでわかったことは、燕と三条、仲悪いんじゃないかってくらい歴史観がちがうのだ。つまり、ものづくりの発祥の歴史において、なんとお互いの主張に食い違いがあり、真っ向から対立しているのだ。ひぃ〜。
だからなのだろうか。いつものブラタモリらしさがなく、かんじんの歴史についてサラッと流し、普通の旅番組と同じような番組構成になったのは。
番組の最後に「合併すればいいのに」ってタモリさんが口にしていた。まあそこまでしなくても、ものづくり発祥の歴史くらいは統一して発信したほうがいいように思うのだが、なかなかそうもいかない事情があるのだろう。
当初はこのブラタモリ日記に、自分で調べた「ものづくりの街、燕三条」発祥の歴史も記す予定だった。しかし、燕と三条のどちらの主張が正しいかなんてド素人のボクには判断できるはずもないので、やはりやめておく。
燕と三条…いろいろと根深いんだなぁ〜
「燕 vs 三条 ものづくりの町 発展のカギとは?」
ノーベルカトラリー → ノーベル賞晩餐会で使われているカトラリー
三条燕 IC (昭和53年) 燕三条駅(昭和57年)
信濃川はかつて3年に1度は氾濫をおこしていた
五十嵐川からは燃料となる木炭、信濃川からは原料となる鉄が運ばれてくる
燕三条のものづくりは和釘から始まる
三条商人が全国津々浦々、行く先々で求められている製品の形を調査
大正時代、弥彦山に開かれた銅山街では、ひと月50トンの銅を採掘
銅製品のおかげで燕のものづくりが進化 → 洋食器の制作
大河津分水路 → 明治3年着工、海側の山をけずり信濃川の水を日本海に逃がす分水路を建設
氾濫する川の水を海に逃し、崩した山の土で土壌を改良
弥彦神社 → 2400年以上、創建年代がわからないくらい古い神社
もともとは参道の折れ曲がるところに本殿 → 火災で焼かれ大正5年に今の場所に建て直された
弥彦競輪 → 本殿建て直しの記念事業として、日本初の陸上400mトラックがつくられる → 昭和25年、競輪場に
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