「關」 今、言語を超えて ~ 松島 ・瑞巌寺を歩く
45歳になった記念に、ゆかりを感じ思い入れのある、瑞巌寺を参拝。
松島一帯の霊場は坂上田村麻呂が開き、伊達政宗が発展させた。
寳玉家の開祖は定かではない。寺院である寳玉山を相馬の地で開いたのは、
田村氏の一族である大越氏であり、その最後の別当を当家が引き取り、
亡くなるまで面倒を見ている。寳玉を名乗る以前の姓、
いかなる所以で当家が寳玉山を引き継ぎ、
家紋に仙台笹を用いるようになったのかはわかっていない。
大越氏は相馬家との縁により、相馬の地に入ったとされるが、
ちょうど政宗公の時代に当たる当時、田村家、大越家に対する立場をめぐり、
そこに入り込んでいた相馬・伊達の間で内乱が起こり、戦にまで発展している。
大越氏が相馬に入る際、愛姫の母の実家がある当家の近くを、
政宗公が通りかかる際に、寳玉家の開祖も、
同行して相馬入りしたのではないかと言われる。
寳玉家の開祖は、大越家とは別に、
伊達の流れを組む者だったのではないだろうか。
家紋の笹に乗る露の数を変更している、と伝わっているため、
正式に伊達家より下賜されたものである可能性が高い。
大越氏の入来した相馬北郷牛越は、
のちに相馬氏にとって不運が相次ぎ鬼門とされた。
加えて伊達家の影響力も感じ取っていただろうから、
相馬家と大越家の距離はそれほど、近くならなかったのではないか。
ここに大越家の別当を引き取り、大越家が興した寳玉山を、
当家が受け継いだ理由が、ぼんやりと見える気がする。
時は過ぎ、戊辰戦争の戦線が北上すると、当時の当家別当、圓應は、
相馬藩の奥州列藩同盟において結成された、羽黒派の僧兵部隊・金剛隊に加わり、
討幕軍の北上に備えたのだが、藩自体が恭順の意向を示したため、
討幕軍はそのまま相馬藩を通過、北上し、圓慶も刃を交えることはなかった。
寳玉家の古い墓は、盛り土に石を置いただけの簡素なもので、墓碑銘もない。
相馬藩に対するインテリジェンスとして、
当家が存在した可能性は高いように感じる。
ただし、黒脛組と呼ばれる伊達の忍者部隊は、
それほど身分が高くなかったようだから、家紋を下賜されるとは考えにくい。
忍者は場合によっては土葬すら許されず、自らの身を闇に葬る。
今日見た瑞鳳殿付随の宝物殿に、面白い図版があった。
政宗に怯える猿の図版だ。
秀吉は来訪する大名に猿をけしかけ、困惑する様子を面白がる趣味があった。
政宗は猿の飼育係を買収し、予め猿を痛めつけておいた。
これにより猿は怯え、政宗は秀吉に威厳を示したのだという。
出羽三山の僧兵隊はピーク時に8000人あまりいたという。
僧兵部隊は秀吉の刀狩りにより力を削がれるが、
この通り政宗は秀吉に完全には恭順しておらず、
僧兵隊も技を伝え維新まで一定の力を温存していたのではないか。
多くの寺院は廃仏毀釈の際、北辰明神を祀ることにより、
神社として生き延びた。
その証拠に寳玉山の寺院屋根には、北辰明神の象徴である九曜星が残る。
維新を経て、日本という国の苦難は今日まで続く。
恐るべきことだが、死生観を持たずに、
今後を生き延びることは不可能であると考える。
瑞巌寺は、本堂の左側に君主用の玄関があり、
右側に僧侶たちの庫裏がある。
庫裏の入り口付近に、高村光雲作の正観音像があり、
少し進むと「關」の字が書かれた衝立がある。
「關」カンは関所の関である。修行の入り口の重要性を解くとされる。
唐時代の翠巌令参(すいがんれいさん)禅師は、
あるとき「私の眉毛はまだあるか?」と、仲間の禅師3人に尋ねた。
間違った仏道を解くと眉が抜け落ちるといわれるからだ。
これに一人が「盗人は疚しく落ち着かない」と答え、
一人は「眉毛は大いに残っている」と答えたが、
最後のひとり、雲門は一言、「關」と答えた。
他の三人が請け合う姿に、雲門は、
まかり通さぬと「關」をもうけたというの逸話である。
言語の示すものは月を指す指に等しいと釈迦は言った。
言語に帰さぬものを持って私たちは「關」に入り、
「關」より言語によって為すのである。
帰途「關」に入りて見る、太平洋上の月の眩さ。