ヒメヒナ物語『Refrain』 | 第四話
第四話
星に願いを
†††
まぶしい……
まぶたの奥に赤色はもう見えない。
夢に出てきたナースさんの処置が効いたのかもしれない。
バタバタと、何人もの人が慌ただしく廊下を行き交う音がする。
「ヒメ!」
跳ねるみたいに飛び起きると、瞳のなかで、像がかたちを結んだ。
声を飲む。
その姿を見たら、息ができなくなってしまった。
ベッドにのせられ、目の前を運ばれて行く真っ白なヒメの顔。体にかけられた毛布の下からは何本ものチューブが伸びている。酸素マスクを被されたその顔に、くるくると笑うヒメの面影はない。
まるで……
まるで魂が抜けてしまったみたい。
駆け寄って、ヒメに声をかけたいのに。言いたかったことが、たくさんあったはずなのに。
その姿を見たら、頭は真っ白になってしまって、金縛りにかかったみたいに体が動かない。
「……ヒメ」
肺に残った最後の空気を絞り出すみたいにそう呟いたのは、ヒメが目の前を過ぎてからずいぶんと経った後だった。
「ごっほごほ。ごっほごほごほ」
体が呼吸を忘れていたことに、内臓が叛乱を起こす。こんな時にまで生きようとする本能を恨めしく思う。
涙が、止まってくれない。
†††
「ご家族の方ですか?」
「いえ。ですが、田中ヒメの保護者は私です」
「なるほど。本来はご家族のみとなりますが、お顔を見られますか?絶対安静のため時間は限られますが」
診察室の端で、耳だけが音を拾う。ヒメの手術は20時間を超える大手術だったらしい。
「ヒナちゃんはどうしますか?」
「……行く。ヒメに会いたい」
ごわごわした緑色の上着を羽織り、マスクとキャップを被って病室に入った。
透明なビニールシートの向こうにヒメの顔が見えた。泣かずにいるのが精一杯で、そこからの記憶は曖昧 (あいまい) だ。
「家に帰りますか?」
…親方の声が聞こえた。
気付けば昼を過ぎ病院の待合室はずいぶんと騒がしくなっている。
「ううん。病院にいる」
「一度休んだ方がいいと思いますが……」
「……ううん」
「……分かりました。私と中島は一回家に帰って必要なものを持ってきます」
「うん」
「これ、私の財布と携帯電話です。こんなこと言いたくありませんが、何かあったら中島から電話します。持っておいてください。あと、売店に着替えが売っているそうです」
「うん」
必要なことを告げると、廊下に立ち尽くすヒナを心配そうに振り返りながら、親方と中島は病院の自動ドアの向こうに消えて行った。
†††
ひとりぼっちになりたくて、屋上のすみっこに居場所を見つけた。
「ヒメ……」
心からあふれ出す後悔が、涙に変わって止まらない。
「それは、患者さんを心配して泣いてるのですか?それとも、自分がかわいそうで泣いてるのですか?」
タバコをくわえた医師がこちらを見ていた。よれよれのシャツを着て、くたびれた表情で無精髭をなでている。
たしか、診察室でお話をしてくれた主治医の先生だ。
「女の子に酷なことを聞くようですが、戻ってきた保護者の方が探していましたよ。これ以上、ご家族に心配をかけるのは良くありません」
「ごめんなさい……」
携帯電話を見る。着信はない。
もしも電話をしたら、ヒメに何かあったと、ヒナを心配させてしまうと思ったのかもしれない。また親方に苦労をかけてしまったと思う。
「長く医者をやっていると、色々なご家族を見ます。悲しみにくれるだけのご家族もいれば、患者さんの回復のために必要なことを行うご家族もいます」
先生はタバコをふかしながらそんなことを言う。
「悲しい出来事です。どちらが良いとか悪いとか、そういうことではありません。ですが、不思議なことに、ご家族の前向きな努力は、きちんと患者さんに伝わっているような気がするのです」
ヒメは意識がないのに、そんなこと……
「だまされたと思って、信じてみませんか?それなりに医者をやっている人間の経験則です」
「でも、ヒナにできることなんて」
「特別なことをやる必要はありません。患者さんのためにあなたにできることをやればいいと思います」
「…………」
「何かできることを、考えてみてはいかがでしょう」
そう言って先生は、携帯灰皿でタバコを消して、病院の中に入って行った。
†††
(ヒナにできること……)
携帯電話で中島に連絡をいれたあと、ヒナは屋上で夕焼け空を眺めていた。
地平線が紫色にけぶり、陽はもう沈もうとしていた。
生死の境にいるヒメのために、ヒナができることなんて何もないような気がした。
玄関から出るとき、ヒメは振り返って言った。
「いつもありがとね。ヒナ」
その背中を、どうして追いかけることができなかったのだろう。
あの時も、あの時も、あの時も。
もしヒナが、違うことをしていたら、帰っておいでと言ってあげたら、こんなことには、ならなかったはずなのに。
後悔だけが体を満たして、お腹の底が震えた。
はじめはゆっくりおおきく。
それから、小刻みに激しく。
お腹の底が震えるたび、胸の方へ、黒くて、冷たくて、重たくて、どろどろしたものがせりあがってきて、ぎゅっと心を締め付けた。
胸を抱く。
このままここでへたりこんでしまったら、凍えてしまって、もうどこへも行けないような気がした。
だから……
だから、その名前を呼んだのかもしれない。
いつだって、太陽のような暖かさをくれたその名前を、救いを求めるみたいに口にしたのかもしれない。
「ヒメ……」
言葉にだすと、涙がポロポロとこぼれた。
「ヒメ、ヒメ、ヒメっ」
涙をこぼすみたいに、言葉を落とした。
それはまるで魔法の言葉だった。ヒメの名前を口に出すたび、胸の奥の方が暖かくなるのを感じた。
笑顔だ。
笑顔だ。笑顔だ。笑顔だ。
いつだって、ヒナが思い出すのは、ヒメの笑顔ばかりだ。
ぽっと胸に光が灯った。こころを締め付けていた黒くて冷たいものが、おびえるみたいに、ゆるゆると、ほどけていく。
ほどけた心が、ほっと息を吐いたみたい。ふいに、歌のフレーズが口をついた。
「…こんなもんじゃない ♪」
ヒメと歌ったお歌はたくさんあるけれど、その中でも特別な一曲。
大きなステージではいつだって、この曲が標(しるべ)となって、ヒメとヒナに進むべき道を教えてくれた。
「yeah……ah……huh……♪」
どこまでも、どこまでも伸びていく声。
まっすぐに光を放つ、暗闇の海の中の灯台みたいに、向かうべき道を示してくれたのは、いつもヒメの歌声だった。
その光がアリーナにさせば、いつだって、ざわめきは熱狂に変わった。
ステージにスポットライトが当たるまでの、わずかな時間。
ヒメの魂からほとばしる光が、ホールを鼓動させる瞬間を、誰よりも近く、ヒメの隣で見ていたから。
だから−−−−
「ラララ ラララララ ラー♪」
ふたりで奏でたメロディを、いまはひとり、紡ぎはじめる。
こんなことをしたって意味なんてないのかもしれない。
だけど、意味なんてなかったとしても……
何かを届けたいと魂が声をあげている。
胸が震えて、身体が叫びだそうとしている。
この衝動に従わないなんて、きっと間違っているから。
「劣等上等 BRING IT ON ……」
魂の求めに応じて、身体がメロディを奏ではじめると、ヒメへの思いがあふれ出した。
(ヒメ…)
「あはー!ねえ、ヒナ。やっと一緒にお歌を歌えたねっ!」
(ヒメ、ヒメ、ヒメっ………!)
それからの日々のこと。
キラキラとした思い出たちが、
ケラケラと笑った日々たちが、
夕闇にとけて消えていく。
ヒナの声はだんだんと力強さを増し、メロディーが熱を帯びて行く。
♪ ママ、やっぱあたしは
♪ こんなところじゃ終われない
♪ ぬるくて気が触れそう
♪ ごっこ遊びも芝居もさよなら
♪ ずっとこのままなんてさぁ
ヒメに伝えたい思いがある。
ヒメに届けたい願いがある。
ヒメに届いてほしい祈りがある。
この胸にはもう、きっとそれしかない
だから……
だったらっ……!!!
声を、思いを、願いを、叫ぶように振り絞る。
−−−−ずっとこのまま泣いてなんて
「いらんないよっ!」
♪ ダッダッダ あたし大人になる
♪ 酸いも甘いも噛み分けて今
♪ パッパッパ 変わる時代
♪ 悪いことばかりじゃないでしょう
♪ 過去も、罪も、罰も、すべて
♪ 素手で、愛で、生き抜いてやり返すわ
夕暮れの屋上にひとりぼっち。思いよ届けとヒナは声をあげる。
何の根拠もない。だけど今これだけが、ヒナにできること。
この声が届けば、きっと奇跡が起きると信じ、歌を歌うこと。
「 愛ある時代−−−−−っ!!」
思いを歌にのせて、魂の震えるままに声をあげて、心の求めるままに、体を叫ばせ、渾身で歌いあげる。
「はぁはぁはぁ…はぁ…」
肩で息をして、ペットボトルのコーラを口にふくむ。
気付けばまた陽は落ちて星の光がふりそそいでいた。
この星の向こう……
歌を歌えばいつだって
ヒメと繋がっている気がする
思いを歌に込めて
届けられる気がする
ヒメに届くかな
届くといいな
星空の下ヒナはまた
メロディーを口ずさみはじめる
「星に願いを………」
♪ 輝く星に 心の夢を
♪ 祈ればいつか 叶うでしょう
♪ きらきら星は 不思議な力
♪ あなたの夢を 満たすでしょう
♪ 人は 誰もひとり
♪ 哀しい夜を 過ごしてる
♪ 星に祈れば 淋しい日々を
♪ 光り照らして くれるでしょう
†††
第四話『星に願いを』
〜Fin〜
†††
「う、うーん」
頭の下に何か柔らかいものがある。
「ステージ、拝見しました」
優しい表情が、ヒナの顔の上にあった。
「一晩中歌い続けるなんて、田中は愛されていますね」
その人−−−−長い黒髪のクラス委員長は、
「みと…ちゃん……?」
驚いた顔のヒナを見て、いたずらっぽく微笑んだ。
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