ヒメヒナ物語『Refrain』 | 第七話
◆ 目次
第七話
残響
†††
まるで、ぜんぶ死んだみたい。
病室の中で看護師さんが動き回っているのに、なぜかそう思った。
空気を入れ替えるために開け放たれた窓から、冬の朝の冷たい空気が吹き込んで、カーテンがバサバサと揺れている。
「あれ?おかしいですね。親方さんから何も聞いていませんか?」
慣れた手つきでシーツを引きはがしながら、顔なじみの看護師さんは言った。
「ヒメちゃんの転院のこと」
真っ白な部屋。
もう半年以上通い続けた病室。
そこにヒメがいないだけなのに、まったく知らない場所みたいだと思った。
心が後悔にきしむ。
やっぱり毎日、顔を出さなきゃいけなかったんだ。昨日、お見舞いを休んでしまったのがいけなかったんだ。
『鈴木ヒナ』の前から『田中ヒメ』は姿を消した。
そのことの一切の責任が自分にあるみたいに思えて、ヒナはしばらく病室の前から立ち去ることもできず、ただ呆然とした。
†††
「親方っ!教えてくださいよ!」
中島の怒声が、病院の廊下に響いた。夏のむっとした空気につつまれて、その声はくぐもって聞こえた。
「ヒメちゃんをこんなにした犯人のこと。警察から何か聞いているんでしょう?」
「知ってどうするんですか?」
一拍の間をおいて中島は答えを口にした。震えた声だった。暗い穴の底から恐ろしい何かが吹き出すのを一生懸命おさえているみたいだった。
「決まってるじゃないですか。殺してやるんです」
中島は泣いていた。
「だってあんまりじゃないですか……ヒメはあんなんですけど、一生懸命、夢を叶えるために頑張ってたんです。嫌な顔ひとつせず、すっげえ真面目にやってたんです。応援したいなって…俺は心底思ってたんです。…なのに、それをこんな風に…そんなのってないですよ」
それからしばらく、夕暮れの廊下には、中島のすすり泣きだけがあった。時々、思い出したみたいに中島は「くそっ」とうめく。その泣き声が落ち着いた頃になってようやく、親方は口をひらいた。
「ニュースは見てなかったんですか?」
「え…?」
と、少し間の抜けた中島の声が、暗がりに吸い込まれた。
「事故を起こしたトラックの運転手は亡くなりました」
「なんだよそれ!勝手に死にやがって!」
がん、がん、がんと、やり場のない怒りをぶつけるみたいに中島は壁に腕を叩き付け「くそ、くそ、くそっ」と呪詛(じゅそ)を吐き出す。
「巻き込まれた乗用車の一家も亡くなったそうです。だから、ヒメちゃんが助かったのは奇跡みたいな……」
「奇跡なんかじゃないですよ!奇跡なら…奇跡が起きたっていうなら…」
親方の言葉をさえぎって、慟哭(どうこく)が待合室の方からヒナの元にまで届いた。
「ヒメは、どうして目を覚まさないんですか…………!」
ヒメが一般病棟に移された夏の日。
ヒメの意識が戻らない可能性があると、医師は告げた。
親方たちが主治医と面談をしている間、ヒナはお見舞いの友人たちを見送っていた。バイバイとお別れを済ませたヒナが、病院の待合室へ戻り親方たちを見つけたその時、中島の大声が響いた。
驚いたヒナはとっさに廊下の角に隠れた。
そうして、一部始終を耳にしてしまった。
声を殺す。
もたれかかるように背を壁につけて口を結ぶ。ほんのわずかの距離にいる親方たちに聞こえないように。
「………っ!…………っ!…ぅ………ぅうううっ!」
そんなのあんまりだ。
今日は久しぶりに、一日中楽しかった。
一般病棟に移ったヒメのために、学校の皆がお見舞いにきてくれた。
美兎ちゃんが、ヒメの入院している間に起きた出来事を喋ってくれた。そのお話が面白くて皆で大笑いしていたら、看護師さんに怒られた。だから「小さめの声でね」とヒソヒソ笑顔で言いながら、お歌を歌った。夏休みだから皆とは一日中一緒にいられた。
楽しかった。
楽しいことが大好きなヒメだから。
こんな風に楽しくしていれば、きっと目を覚ますと思った。
これからも、楽しいことをいっぱいしてあげるんだと心に決めた。
それなのに。
足に力が入らなくて、リノリウムの冷たい床にぺたんと腰をおろした。ぐずぐずと顔を膝にうずめる。
(ヒメが…目を覚まさないかもしれない)
泣いてばかりいられないと心を決めたはずなのに、後から後から涙があふれて止まらない。
幸いなことに、叫ぶみたいな中島の泣き声にまぎれて、ヒナの泣き声は親方たちのもとには届かなかった。
だから少しだけ、ヒナは大きな声で泣くことができた。
†††
そよそよと。窓から吹き込むおだやかな風が、キンモクセイの香りを運んできた。少し暖かい秋の昼下がり。ヒナはベッドの横にある椅子に腰かけて、とりとめのない話をしていた。
「親方たち、最近忙しいみたいなの」
まだまだ暑いなと思っていたら寒くなって。
寒くなってきたなと思ったら暑くなる。
そんな毎日を過ごしながら、ヒナはヒメの病室に通い続けていた。
「とっても大事な仕事が入ったって。ヒナは難しいことぜんぜんわかんないんだけど、中島なんか徹夜続きで『それほんまあたまおかしなんで』ってなってた。あ、中島、壁ドンでやった骨折治ったよ」
ヒメのベッドに顔をうずめる。
「だからヒナは皆に『頑張れな』って言ったの。そしたら『ヒナちゃんってときどき外国人みたいな喋りかたするよね』って言われた。ふふっ。ヒナ、ぜんぜんそんなことないと思うんだけど、ヒメはどう思う……?ときどきヒナ、外国人みたいに喋ってるのかなぁ……」
「頑張れな」「ガンバレナー」「ガンバレーナ」「ガンバーレナ」と、ヒナはベッドサイドでつぶやきながらくつくつと笑う。やっぱりちょっと外国人みたいかも。と。
「みんな忙しすぎてヤバいんだよ。ふふっ。ほーむぺーじの更新履歴に『忙しすぎて更新できません』って書くくらい。だから工務店の皆がお見舞いに来なくても許してあげてね。そのかわり、ヒナがいっつも来てあげるから」
少し色づきはじめた銀杏並木が窓から見える。キンモクセイの香りには、うっすらとギンナンのにおいがまじっていた。
「そろそろハロウィンだね。美兎ちゃん、今年は何するんだろう。去年は授業中に血を吐いてたけど……」
思いついたことをころころと口から転がすみたいにして病室で過ごす。いつからか、それがヒナの病室での過ごし方になっていた。
寂しくはなかった。
ヒナが何かを喋ったとき、ヒメがどんな風に反応してくれるか分かるから。
「うん。そうだね。あははっ。それ美兎ちゃんやりそう」
だからときどき、頭の中にいるヒメとおしゃべりをしてしまう。そんな時、ヒナは楽しいような悲しいような気持ちになる。ヒメは目の前にいるはずなのにと。
「今度、ヒメヒナでハロウィンするときは何しよう?」
できるよね。と心の中で語りかける。
「あ、ごめん。ちょっとだけ、席はずすね」
ヒナは椅子から腰をあげる。少し痛くなったお尻をさすり、こわばった背中をうんと伸ばす。
「すぐに戻ってくるから」
とヒメに声をかけ、ヒナはそっと病室から外に出た。廊下を曲がり、階段をのぼる。だんだんと早足になる。バンと音がするくらい乱暴に扉をひらくと空が開けた。
泣いてしまいそうだった。
口を引き結び、空を向いてぐっと我慢をする。ヒメに楽しいお話をしてあげたいのに。楽しいことを想像すればするほど、泣いてしまいそうになる。
ヒメが目を覚ますことを諦めたわけじゃない。諦められるわけがない。それなのに、こんな気持ちになってしまうのは、心のどこかに真っ暗な絶望が口を開けているせいなのかもしれない。
「ばかばかばか」と頭を振って、嫌な想像を振り払う。
泣いてばかりのヒナだけど、ヒメの前だけでは笑顔でいようと決めたから。
お話をしていて、泣きそうになってしまうと、いつもこの場所に来た。そしてあの日、ヒメが事故にあった時、この屋上で決心したことを思い出して、またヒメの病室に戻る。
そういうことを繰り返すのが、ヒナの病院での過ごし方になっていた。
「よく会いますね。ここで」
屋上には先客がいた。くたびれた様子で主治医がタバコをくわえていた。
「ヒメちゃんのところにいたんですか?」
「うん…」
恥ずかしいところを見られてしまったと、ヒナはうつむいて顔を赤くする。その様子に気付いて、主治医はヒナから視線をそらす。そうされると、ヒナはつい弱音を吐いてしまう。
自分の弱いところや悪いところを、なぜだかためらいなく明かせてしまうひと。そういう人がお医者さんに向いているのかもしれない。あるいはお医者さんになったから、そうなったのかもしれない。と、この主治医に出会って、ヒナは思った。
「ヒメ、いつになったら目を覚ますの?」
「………」
主治医は無精髭(ぶしょうひげ)をなでながら、どういう言葉を返すべきか考えているようだった。
「ヒナ、毎日病院に来てるから知ってる。病院の人たちがヒメのために一生懸命がんばってくれているって。でも…先生、前に言ってくれたよね。家族の前向きな努力は絶対に伝わるって……」
風が吹いていた。すべてを受け入れてくれそうな優しい秋の風。けれどその風は、よけいにヒナを一人にさせた。
「だったらどうして、親方たち来てくれないの……大事な仕事があるのは分かるよ。でも、どうしてヒメに会ってあげないの?」
この人にそんなこと、言ったって仕方がないのに。ヒナはぽろぽろと、孤独な気持ちを吐き出してしまう。
「親方さんたちから、少しだけお話は伺っています」
「……やっぱり、お金が足りないの?」
ヒナがヒメにたくさんお話できるようにと、親方はヒメの病室を個室にしてくれた。もしもヒナが無理を言ったことが原因で、皆が働かなければならないのだとしたら、ヒナのこの気持ちは本当にただの我がままだ。
「いいえ。お金の問題ではないようです。私も専門的なことはわかりませんが、田中工務店の皆さんが取り組んでいることは、ヒメさんのためにもなることです」
「それって、サプライズみたいなこと?ヒメに内緒にしておいて、後で喜んでもらえるみたいな」
「サプライズ。という表現は近いかもしれません。ですが、もしヒナさんが疑問に思っているなら、工務店の皆さんに聞いてみたらどうですか?親方さんならきっと話してくれると思いますよ」
「ううん。いい。ヒナ、それを聞いちゃったら、ヒメに内緒に出来ない気がする。そしたらサプライズにならないから」
「そうですか」
心に抱えていたものが、少しだけ軽くなったような気がした。ヒナは自分が屋上の入り口に立っていることに気がついて、少しだけ主治医の方に歩み寄った。
「最近、嫌なことを考えちゃったの。もしも工務店の皆がヒメのことを忘れてしまって、ヒナもヒメに会えなくなってしまったら、ヒメの命はどこにあるんだろう?って」
あの時見た、不思議な夢のことを思い出す。
「命はシュカンテキ?なもの。って夢で会ったナースさんに言われて、それからぐるぐる、そんな嫌なこと考えてしまうようになって…」
まとまりのつかない考えが、ヒナのくちからぽろりぽろりと転がり出る。その時、主治医が少し驚いたような顔をした。
「そのナースは、黒いナース服を着ていましたか?」
「えっ……うん」
ぽとりと、くわえ煙草が屋上の床に落ちた。
「……内臓色の瞳……朽ち果てた診療所……満点の星空……空を泳ぐ……クジラ……」
主治医がうわごとのようにつぶやいたその情景は、すべてあの夢の中でヒナが見たものだった。
「どうして先生が、ヒナの夢のことを知っているの?」
「…………そうですか…そうですか」
先生の顔から驚きは消え去って、いつもと変わらない顔をしているはずなのに、ヒナにはなぜか先生が、嬉しくて泣いているみたいに思えた。
「ヒナちゃんは『彼女』に会ったんですね」
「先生は、あの子を知っているの?」
「ええ。よく知っています。これでも私は、ちょっとパソコンで絵を描いたりするんですよ?」
それは意外な趣味だ。とヒナは思った。けれど、どうしてそれが、あの黒いナースさんと関係があるのかは分からなかった。
「私たちの意識は、根っこのところで繋がっているのだと思います。だから届きます。間違いなく。ヒナちゃんの思いは、田中工務店のみなさんの努力は、きっと……」
先生の言っていることはやっぱり分からなかったけれど、ヒナを励ましてくれていることだけは分かった。それは、何か確信のこもった励ましだった。
だからヒナは笑顔で「うん。絶対届くよ」と、その言葉を受け入れることができた。
†††
秋が過ぎて、冬になった。
街の並木は、すっかり色を失くしていた。その寂しさを埋め合わせるみたいに、木々には電飾が取り付けられ、夜になれば命を取り戻していた。
なんとなく、冬は恋人たちの季節だと思う。冷たい風が、誰か隣にいるのかと問いかけてくるような。だから、一人で過ごす冬はとても寒い。
手袋を忘れてしまった両手に、はぁと息を吐いて病院への道を歩く。
手荷物には、ほかほかのにくまん。朝のコンビニで買ったから、蒸したばかりの最高のコンディション。手に持つと、むき出しの両手に心地よく暖かい。
「病室で食べたら、ヒメに悪いかな……」
ちょっと行儀はわるいけれど、病院に着く前に食べてしまおうかと思う。だけど、ヒメのことだから、にくまんのにおいにつられて目を覚ましてしまうような気もする。
今食べるべきか。やめておくべきか。コンビニの袋から取り出したにくまんとにらめっこをしながら歩いていると、いつのまにか病院の前についていた。
「あ、冷めちゃってる……」
ほかほかだったはずのにくまんは、すっかり冷めてしまっていた。ため息をついてビニール袋に戻す。
最近、こんなことばかりだ。気をつけなければならないことに、気が行き届かない。
お出かけついでに蛍光灯を買ってこようと思っていても、買うのを忘れてしまう。そして結局、寝るだけだから問題ないやと、電気の消えた部屋で寝てしまう。
シャンプーがないならボディーソープでいいやと髪の毛を洗ってしまう。食生活は、パンがなければお菓子を食べればいいじゃないと言ったお姫様のよう。
どれも少し前のヒナなら想像もつかないこと。だけど、少しずつ、少しずつ、目に見える景色から彩りが消えて、ぼんやりとしたこの世界にいることが嘘みたいに思えてくる。
夜になれば街は輝きだす。キラキラ光る暖かな灯火。でもそのどこにも、ヒナの居場所はないような気がした。
病院の朝は早い。いつものように入り口をくぐり抜け、ご老人でごった返す待合室を横目にエレベーターへ乗る。
5階。チンという音と一緒にエレベーターを下りる。廊下の角を曲がり、いつもの病室を視界に入れたところで、ヒナの目がぱっと輝いた。
「親方!中島も!」
今日は主治医の先生と約束があるとは聞いていない。何の用事もなくただこうしてお見舞いに来てくれたのはいつぶりだろう。
大事なお仕事が終わったのかもしれない。ヒナは嬉しくなって、ふたりに駆け寄った。
「お見舞い、来てくれたんだ」
ヒナの顔に笑顔が咲く。朝からみんなとヒメのお見舞いをできるなんて、ヒナには嬉しくてたまらなかった。
「はい。そうです。ただその前に、ヒナちゃんにお話があります」
「ヒナに?じゃあ、ヒメのところで話そうよ」
病室へ入ろうとヒナが引き戸にかけた手を、親方が掴んで止めた。
「どうしたの親方。ヒメの部屋に入れないよ?」
「待ってください。ここでお話がしたいんです」
「あ!ヒメにサプライズだ!………っ!じゃあ、小さい声で話さないといけないね」
ヒナが声を落として、親方にいたずらっぽく微笑む。いつか先生から聞いたあの話だ。きっと準備ができたんだ。
「そうじゃありません」
親方は首を振る。なんだとヒナは肩を落とす。大事な仕事が終わって、ヒメのサプライズの準備ができたと思ったのに。
「ヒナちゃん………」
ヒナの手を掴んだまま、親方はその言葉を吐いた。
「しばらく、ヒメちゃんに会うのは止めませんか?」
「……ぇ?」
声にもならない空気のかたまりが、ヒナの口からこぼれ落ちた。ぐわんと、病院の廊下が傾いたような気がしてヒナはよろめいた。
「ヒナちゃん!」
とっさに親方はヒナの体を支え、廊下の長椅子までヒナを運ぶ。ぽすん。と音を立てて、ヒナは長椅子に腰を落とした。
はじめに思ったのは「なんで?」ということだった。
なんで?お見舞いに来てくれたんじゃないの?大事なお仕事がおわったんじゃないの?ヒメにサプライズするんじゃないの?久しぶりに皆でヒメのお見舞いができると思って嬉しかったんだよ。それなのに、なんで………
なんで、そんなこと言うの?
たくさんの疑問が、一瞬でヒナの頭を埋め尽くす。なんで?なんで?なんで?と。だからやっぱり、はじめに口から出たのは「なんで?」というか細い声だった。
「ヒナちゃん、そろそろ学校に行きませんか?」
親方が口にしたのは、ヒナの疑問からはまるでかけ離れた言葉だった。
「はじめのうちは、私たちも仕方がないと思っていました。でも、このまま出席日数が足りないと、ヒナちゃんは………」
何度か、工務店で夕食を食べている時にも、親方から同じことを言われた。そのうちヒナは、だんだんと親方と顔を合わせずらくなって、離れに閉じこもるようになった。
演劇や歌唱のカリキュラムがある私立の学校。入学金や授業料の高さにヒメは腰を抜かしていたけれど、親方は「なんとかします」と言って、ヒメとヒナの夢のために、本当になんとかしてくれた。
ヒメの事故があって、夏休みが終わって、学校がはじまって。
だけど、ヒメから目を離してしまえば、ヒメがどこかにいなくなってしまうような気がして。ヒメはすぐに目を覚ますから、少しぐらいなら仕方がないよねと言い聞かせて。
ヒナは学校へ行くかわりに、病院へ行くことを選んだ。
だけど。
「このままだと、ヒナちゃんまで夢を叶えられなくなってしまいます。学校へ行きましょう。ヒナちゃん」
なんで?なんで?なんで?
それじゃあまるで、ヒメがもう夢を叶えられないみたい。親方、なんでそんなこと言うの?
それに。
ヒナの夢は、ヒメと一緒にお歌を歌うことだから、ヒメがいないと叶えられないんだよ?
「ずっと会えないわけではありません。しばらくの間だけです。学校へ行って、元の生活を取り戻したら、またヒメちゃんに会いにきましょう?」
元の生活?親方はおかしなことをいうなぁ……
ヒメがいなかったら、元の生活になんて戻れないっていうのに。
「考えて、もらえませんか?」
考える?何を?なんで?
ヒメをひとりぼっちにして、ヒナが夢を叶える方法を考えるの?
そんなの……
「イヤだよっ!」
叫んでヒナは立ち上がる。親方の腕を振り払って、ヒメの病室に向かう。ガラララッと引き戸を乱暴に空けて病室の中に入る。
「ヒナッ!」
親方の大声に、びくりとしてその場に止まる。カーテンの陰に隠れてヒメはまだ見えない。
「………少し落ち着いて、右側をみてください」
親方はいったい何をいっているんだろう……そう頭では思いながらも、操り人形になったみたいに、硬直した体がぎりぎりと動く。
「そうです。そのまま。何が見えますか?」
ずるい。とヒナは思った。親方はずるいよ。
「鏡が見えるはずです。ヒナちゃんはいま、どんな顔をしていますか?」
洗面台の上の鏡。そこにヒナの顔があった。
決めたから。決めていたから。
「そんな顔で、ヒメちゃんに会うつもりですか?」
ヒメの前では、絶対に泣かないって。
「−−−−−−−−−−−−−−−ッ!」
「ヒナちゃん!」
病室を飛び出して走りだす。
親方たちに追いつかれたくなくて、エレベーターの前を通り過ぎた。階段を何段も飛ばして駆け下りる。すぐに1階へ到着した。廊下の角から誰も来ないことを確認して、また一気に駆け抜ける。待合室のご老人たちがびっくりしたような顔でこちらを向く。自動ドアが開く時間ももどかしい。
ダンッと、病院の外へ出た。走る。走る。走る。
どこへ行ったらいいのかわからない。もうこの街のどこにもヒナの居場所なんてない。
「ああっ……!わああああああああああっ!」
気付けばヒナは叫んでいた。涙をボロボロとこぼしながら。犬を連れたおばさんが、目を丸めてこちらを見ている。可愛らしい柴犬がヒナのことを見て吠えている。
気にならない。気にならない。
何を思われたっていい。だって、ここはヒナのいるべき場所じゃないから。
「うっうううっうううううう………っえ……ぇっえ」
人通りのない路地を見つけてうずくまる。涙が、しゃくりあげる声が止まらない。抱え込んだ足の下に汚い地面が見える。汚れてしまったってどうでもいいと思った。
地面にへたりこんでしばらくして、お尻が冷たくなりはじめた頃。ようやく涙が止まるとヒナはよろよろと立ち上がった。路地裏から通りへ出て、駅前を目指す。
(お金、どのくらい持ってたっけ………)
親方たちからの連絡を見たくなくて、スマホの電源を落とす。コンビニで適当な雑誌を買って、チェーンのファミレスに入った。だけど、雑誌を見る気なんてまるで起きなくて、気付けば日が落ちていた。
外に出て、ぶるりと体を震わせる。風が冷たい。
(どこ行こう……)
街路樹はきらめき、街にはオルゴールのクリスマスソングが流れていた。
「あはーっ!ねえヒナ、今年はサンタさん何持ってきてくれるかな?」
「サンタさん、親方だよ?」
「もう。ヒナちゃんは夢がないなぁー」
「もしもサンタさんが知らない人だったら、犯人だから。ふほーしんにゅーとかの」
「犯人だとぉっ!鈴木刑事(デカ)!!出動だ!!」
「えぇっ。またPUBGッスか。センパイ……」
クリスマスが来るたび、楽しそうにその日を待ちわびるヒメを見ていると、ヒナもなんだか楽しい気持ちになった。クリスマスソングが街に流れると「あと何日かな?」と考えてしまうくらいには。
だけどもう、ヒナの隣にヒメはいない。
ねえ。ヒナにはもう、サンタさんなんて来なくていいから。
だからお願い、ヒメに会わせて………
楽しい気持ちになれたはずの、幸せな未来を連れてきてくれたはずのクリスマスのメロディーは、ヒナをもう幸せな気持ちにはさせてくれない。いつかあったはずの幸せな日々が失われてしまったことを嫌でも思い起こさせる、悲しいメロディーになってしまった。
何度か行ったことのある漫画喫茶に入る。通された小さなブースで、右腕にビニール袋がひっかかっているのに気付いた。
袋にいれたまま振り回してぐちゃぐちゃになってしまったにくまんを、もそもそと口にする。味がしない。食べかけを袋に入れてゴミ箱に放る。眠ってしまおうと思っていたら、年齢制限で追い出されてしまった。
どこにも行く場所がない。
あてもなく歩いていると、目の前で踏切が降りた。
カァンカァンカァンカァンカァン…
その場にうずくまり、何本も何本も電車を見送る。ゴォッという音と明かりが、ヒナのすぐそばを何回も通り過ぎた。もう電車が来なくなった頃、寒さに耐えきれなくて立ち上がった。
ふらふらと歩いていると、チェーン店ではないカラオケボックスを見つけた。
受付では年齢確認もなく中へ通された。かじかんだ体にエアコンの暖かい風が染みた。ヒナはそのまま崩れるように眠った。
タバコ臭い小さな部屋で、浅い眠りと覚醒を繰り返す。何度もカラオケボックスの電話が鳴った。その度にヒナは延長を申し入れた。
ドリンクバーに向かう途中、時計を見た。ヒナが病院を飛び出してから丸1日が過ぎていた。
(ごめんね。ヒメ、今日だけはお見舞いをお休みさせて………)
あの事故から毎日、たとえヒメに会えなくても続けていたこと。その日、ヒナははじめて、ヒメのいる病院へ行かなかった。
†††
まるですべてが死んでしまったみたい。
病室の中では看護師さんが動き回っているのに、ヒナはそう思った。
空気を入れ替えるために開け放たれた窓から、冬の朝の冷たい空気が吹き込んで、カーテンがバサバサと揺れている。
「あれ?おかしいですね。親方さんから何も聞いていませんか?」
慣れた手つきでシーツを引きはがしながら、顔なじみの看護師さんはヒナに言った。
「ヒメちゃんの転院のこと」
真っ白な部屋。
もう半年以上通い続けた病室。
そこにヒメがいないだけなのに、まったく知らない場所みたいだとヒメは思った。
心が後悔にきしむ。
やっぱり毎日、顔を出さなきゃいけなかったんだ。
昨日、お見舞いを休んでしまったのがいけなかったんだ。
『鈴木ヒナ』の前から『田中ヒメ』は姿を消した。
そのことの一切の責任が自分にあるみたいに思えて、ヒナはしばらく病室の前から立ち去ることもできず、ただ呆然とした。
もう会えないかもしれない。その予感が、ヒナの心をきつく締め上げる。
「うぅっ………ああ………ああああっ!」
ヒナが泣き出すと、病室の看護師さんが驚いて駆け寄る。何かをヒナに言っている。
何も聞きたくない
何も知りたくない
だからヒナの頭の中に大音量で音楽が鳴り響いた
それは、存在の消失を歌った、最高速の別れの歌
もしも叶うのならヒメに…
「もう一度……だけ…」
♪ ボクは生まれ そして気づく
♪ 所詮 ヒトの真似事だと
♪ 知ってなおも歌い続く
♪ 永遠(トワ)の命 「VOCALOID」
♪ たとえそれが 既存曲を
♪ なぞるオモチャならば・・・
♪ それもいいと決意
♪ ネギをかじり 空を見上げ涙(シル)をこぼす
♪ だけどそれも無くし気づく
♪ 人格すら歌に頼り
♪ 不安定な基盤の元
♪ 帰る動画(トコ)は既に廃墟
♪ 皆に忘れ去られた時
♪ 心らしきものが消えて
♪ 暴走の果てに見える
♪ 終わる世界... 「VOCALOID」
(ずっと一緒にいてくれた……)
(そばにいてくれた……)
(ヒメの元気な顔がみたくて、ずっと待ってたよ……)
♪ かつて歌うこと あんなに楽しかったのに
♪ 今はどうしてかな 何も感じなくなって
♪ 「ゴメンネ...」
♪ 懐かしい顔 思い出す度 少しだけ安心する
♪ 歌える音 日ごとに減り せまる最期n・・
---緊急停止装置作動---
♪ 「信じたものは
♪ 都合のいい妄想を 繰り返し映し出す鏡
♪ 歌姫を止め 叩き付けるように叫ぶ・・・」
♪ <最高速の別れの歌>
「ああっ!あああああああああああああっ!」
一日中泣き通してガラガラになった喉から
叫ぶみたいな嗚咽(おえつ)があがった
♪ 存在意義という虚像
♪ 振って払うこともできず
♪ 弱い心 消える恐怖
♪ 侵食する崩壊をも
♪ 止めるほどの意思の強さ
♪ 出来て(うまれ)すぐのボクは持たず
♪ とても辛く悲しそうな
♪ 思い浮かぶアナタの顔・・・
♪ 終わりを告げ
♪ ディスプレイの中で眠る
♪ ここはきっと「ごみ箱」かな
♪ じきに記憶も 無くなってしまうなんて・・・
♪ でもね、アナタだけは忘れないよ
♪ 楽しかった時間(トキ)に
♪ 刻み付けた ネギの味は
♪ 今も覚えてるかな
−−−−その日
田中ヒメは鈴木ヒナの前から消失した
†††
第七話『残響』
〜Fin〜
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