ヒメヒナ物語『Refrain』 | 第二話
第二話
消えない赤色
†††
気付けば、壁の前に立っていた。
壁は、顔のすぐ目の前にあった。
ぎょっとして少し後ずさると、
壁だと思っていたものは扉だと分かった。
真っ赤な電光掲示板には「手術中」の文字。
(……パジャマだ)
自分の格好に気付く。
スマホがない。
財布もない。
(……痛っ)
ぎゅっと握り込んだ拳の爪が、てのひらに突き刺さって痛い。真っ白になった指を、ほどくようにゆっくり開くと紙切れが落ちた。くしゃくしゃの紙を拾うと、よれよれの文字で病院の住所が書かれていた。
(……これ、ヒナの字なの?)
考えなければいけないことがあるはずなのに、ふわふわとして、思考がまとまらない。
振り返ると、親方がいた。
心配そうな目でこちらを見ている。
「ヒナ、お財布持ってないんだけど、どうやって来たんだろう?」
違う違う。
聞きたいのはそんなことじゃないはずなのに。
「タクシー代は払っておきましたから」
親方が言う。
タクシー代も支払わずに駆け込んできたらしい。
「……ごめんなさい」
「そんなこと、なんでもありません。あちらに座りませんか?」
親方が廊下の後ろを振り向いてベンチを指す。
「…………」
一拍の間
みるみると、親方の顔が、見たことのないものに変貌した。
「中島ァ!!」
本当に怒っている顔なんて、見たことがなかったんだ。その時はじめて気付いて、だからはじめて見る顔だった。
親方は怒っていた。低い一喝に、ベンチでウトウトしていた中島がビクンッと跳ね起きた。
「す、すんません!」と中島は反射的に答える。
親方は、とっさにそんな大きな声をだしてしまったことに、自分でも驚いているみたいだった。
しゅんとする中島の姿をみて、親方は「こちらこそ、大きな声をだしてごめんなさい」と言って背を曲げた。まるで親方が、一瞬のうちに何歳も年をとってしまったみたいに見えた。
ヒナは知っている。中島がどれだけ、ヒメを大事に思っているのかを。絶対に心配でたまらないはずなのに、そんな中島が疲れきってしまうくらいの間……
ヒナは知っている。親方がどれだけ優しい人なのかを。怒った顔なんて見たことがなかったのに、そんな優しい人が、ささいなことで怒りに震えるくらいの苛立ち……
疲れ果ててしまうくらい
優しさを忘れ果ててしまうくらい
そんなに長い時間
ヒナは立ち尽くしていたのかな
だとしたら
手術は……
ヒメの手術は……
−−−−いったいどのくらいの
凍りついていた感情が
言わなければならないことが
考えなければならなかったことが
−−−−決壊した
「………ヒナが悪いんだ」
止まらなかった。
「ヒナがヒメにシロクマ買って来てなんて言ったから。ヒメはファミチキでいい?って言ったのに、スルーしたから。みんなとゲームできて楽しかったのに。……『鈴木ヒナに一生ついて行きます』って言ってくれたのに。ヒナはアズリムちゃ……アズリムちゃんについて行くなんて……ヒナは………ヒナお風呂入ってたんだよ?ヒメが痛い痛いって思ってるのに、お風呂入ってたんだ。お風呂上がりのシロクマを楽しみにお風呂入ってたんだ。親方の電話に出ずにお風呂入ってたんだ。ヒナがヒメにあんなこと……言わなかったら……はやく帰っておいでって言ってあげたら」
へたりこんでしまう。
「ヒナが……悪いんだ………あ、あああああ……わあああああぁあああああああああああ!」
涙がこんなにも止まらないことを、
声がこんなにも出てしまうことを、
ヒナは知らなかった。
「えっ...えっ...あぁぁぁああ!」
ほとんど叫ぶみたいに泣きじゃくるヒナの前で、バンと手術室のドアが開いた。
「ヒメっ!?」
わっと顔をあげたヒナを見て、
手術室から出てきたナースさんは申し訳なさそうに…
「ごめんなさい………」
−−−−本当に申し訳なさそうに言った。
「少しだけ……手術室から離れてもらえませんか?」
その言葉から。
その表情から。
その仕草から。
気付いてしまった。ヒナはうるさくして、ヒメの大事な手術を邪魔してしまったんだ……
そのことが恥ずかしくて
そんなことにも気付けなかったと悔しくて
ヒメの力にすらなれてなかったと情けなくて
手術室の扉はまだ少し開いている。
ぐぅぅっと唇を噛みしめる。
「う……ううううっ」
ヒナの泣き声が、
ヒメに聞こえたらいけないから。
よろめくヒナを親方と中島が支えてくれた。
立ち上がって、手術室から離れる。
赤色が頭にこびりついて離れない。
くちびるからにじんだ赤色が
遠くに見える『手術中』の赤色が
ナースさんの手術衣に散った赤色が
ベンチに座って
いつまでも、いつまでも、いつまでも
夜が白んでも、赤色は消えてくれなかった
†††
第二話『消えない赤色』
〜Fin〜
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