【移住】第0章から第1章へ【4月からの進路】
おはようございます。はじめましての方ははじめまして。
2月頭から愛車のサンバーでぷらぷら中国地方に向け旅を始め、
埼玉、山梨、静岡、愛知、三重、京都と転々とし、
足場が解体された清水寺の新年初みくじで「凶」が出て、
鳥取から島根を、四国を一周し、広島の離島 大崎上島を訪ね、無事に岡山に到着。
岡山から千葉に向けて発つ最後の日の朝、ワンコに太ももを思いきり噛まれ、
出発後すぐに凍結路で滑って衝突事故を起こし、
愛車が廃車になりました。(誰も怪我人はいません)
相変わらず元気です。愉しくやってます。井関耕平です。
自己紹介とこれまで
改めて簡単に自己紹介をさせていただきます。
千葉県千葉市出身、20歳です。
2020年に千葉市の自称進学校(ほんましょうもない)を卒業後、
栃木県那須町で発明家の藤村靖之博士が主宰する「非電化工房」で1年間住み込み弟子として修行し、
お金や組織、エネルギーに依存しない生き方、
技術と仕事と暮らしを分離しないで生きる技術や哲学を学びました。
2021年の春に非電化工房を卒業後、
岡山県久米南町上籾地区という里山の限界集落で、
一級左官技能士を持つ左官職人であり、藁と土などで家を作る自然建築ビルダーであり、博士であり、アメリカ人であり、パーマカルチャーデザイナーであり、猫好きのカイルを中心に様々な活動をしている「パーマカルチャーセンター上籾」で9ヶ月間、研修生として過ごしました。
パーマカルチャーの基本的な原理原則から技術的なデザイン手法まで
里山で暮らすための適正技術から本格的な左官・大工技術の習得
意図的なコミュニティ、自分や他とのつながりの探求
など、他にも数多くたくさんのことを学び実践し経験しました。
高校を卒業して2年、密度高く濃度の濃い時間を過ごさせてもらいました。
ある意味修行でもあり、ある意味放浪でもありましたが
いよいよ地に足をつけ、自分で観察し、自分で考え、自分で行動し、自分を表現する道が決まりました。
様々な技術や知識、人の繋がり、人間性など広く大きい土台を築いたまさに下積みの第0章から、築いた土台に実践と経験を積み上げて自分バージョンにしていく第1章に入ります!
20年間お世話になったみんな、これから出会うであろうみんなに報告させていただきます。
これからのこと
本題のまえに
報告させていただきますとは言いましたが、実はどう書けばいいか分かりません。分からないというより不安です。
言葉とは、受け手の状態や意識によって解釈が大きく変わってしまうものだなとよく感じます。
「発信力が大切」とよく言われますが、本当に大切なのは「受け手の消化吸収力」だと思っています。
もちろん発信にメリットもありますが、リスクもあります。
まだ実践していないことの内容や思想を文字にして発信することにとても不安を感じています。
でもそういった不安や恐怖だけではなく、いろんな人に自分の道を知ってほしい、応援してほしいという願望もあります。
非常に複雑な心境の中で、いまこの瞬間に自分の内側から湧き出た言葉を文字として書きます。
もし興味や関心、好奇心を持ったり、話を聞きたい、応援したいと思ってくださった方がいらっしゃったらぜひ会いに来てください!
いつでも気軽に連絡を待っています!
どうかお手柔らかに、かるーく読み流してくださいませ。
本題
この20年間の中のありがたいご縁で、チャンスが転がり込んできまして
2022年4月から
福島県大熊町での農業事業の立ち上げに参加することになりました。
大熊町と聞いてピンときた方とさっぱりわからない方といると思いますが
下の画像をみていただければ分かるでしょう。
3.11の東日本大震災で爆発被害のあった福島第一原子力発電所の所在する町です。
事の経緯につきましては、2020年にいわき市でのご縁が全ての始まりになります。
当時いわき市で活動していた同世代の仲間の紹介で、 Tさん というひとりの百姓と出会いました。
そのTさんこそが今回自分にチャレンジする土俵とチャンスをくださった人物で、これから一緒にプロジェクトを進めていきます。
簡単に自分の言葉でTさんとのご縁と農業のことを書かせていただきます。
出会ったばかりの頃の彼との会話で、忘れられない言葉があります。
Tさんがちょうど今の自分と同じくらいの年齢だった頃に、
モンキーセンターというところで
手足に障害を持って生まれた、自力で餌も食べられず、自力で群れにもついていけず、自然淘汰されるしかない大五郎という猿を見たそうです。
当時その原因と思われる説明のひとつが、輸入自由化によって流通した外麦を飼料として食べさせていたです。
大五郎と出会いこう感じたTさんは、
味や見た目、収量や収入などの生産ベースの農業ではなく、人の命をつくる食として消費者に責任のある農業、生命ベースの農業をと、「世界の農業改革」を掲げ、子々孫々の命を救うために40年間本質を見つめた農業をされていらっしゃいます。
熊本でイチゴを通じて本質追及を30年以上され、その後日本企業の海外農業プロジェクトで中国で農業指導に。
そして日本に戻ってきて福島被災地で農業を始めるタイミングでご縁があったわけです。
今や、慣行農法はもちろん有機栽培、オーガニックでも安全とは言えない野菜が多いそうです。(関連著書:『野菜が壊れる』)
それでも多くの消費者は「安いもの」「扱いやすいもの」を求めているのが現状で、意識の高い方たちも「生産地」「栽培法」「ブランド」「ストーリー」などを基準に野菜やお肉などを手に入れていると思います。
Tさんは「いつか必ず ‘’効果があるかないか” という基準で作物が評価される時代がくる」と仰っていました。
その時代がいつ来るかは分かりませんが、そのときのために、これからの世代のため、手足を持たずして生まれてきた大五郎のために
「食べた人の生命や身体がプラスに発展する機能性を持った農作物」をつくり、医療と連携してエビデンスを確立する。
世界からチェルノブイリのように思われているこの地で
「食べた人の生命や身体がプラスに発展する機能性を持った農作物」を育てる。
世界のどの地でも、本当に安全な医療品質の作物を育てる。
この品質ギャップに未来農業の指針が定まり、世界が動き出すと信じて、
これからの世代の安全と健康、農作物の評価基準、一次生産の世界、消費者の意識、社会構造、被災地というレッテルや風評被害
すべてが良い方向に進むと信じて、
「世界の農業改革」をめがけて、これから福島県大熊町で活動します。
色んな質問が予想されますが、実際自分もまだ分からないことだらけです。
本当はもっと色々想いもあって伝えたいこともありますが、阿多違うタイミングで書きたいとおもっています。
とにかく今年一年、現場を見て触れて感じて観察し続けて、
またいろいろご報告できたらなと思っています。
個人的なこと
まずは長々と読んでいただきありがとうございます。
文章を書くことの難しさに打ちひしがれました。
自分は、身に起こるすべてのことに意味があると思っています。(事故ったことも)
まさかこうなるとは思っていませんでしたが、原発のすぐそばで暮らすことになったのも必然で何か意味があるのだと思っています。
学生時代にたくさんの人に出会い、友達に恵まれたことも
3.11のとき、那須地域の住民に呼びかけプロジェクトを立ち上げ、放射能問題に取り組んだ藤村先生のもとで修行し、暮らし方やエネルギーについて学んだことも
岡山で、パーマカルチャーを学んだことも、多彩な建築技術に触れたことも、近い価値観や想いをもつ仲間とパートナーに出会えたことも
全て繋がっていて意味があります。
エネルギーや食のこと、原発の横からだからこそ伝わる何かがあるはずです。
この世界は、生かすものは生かされる世界だと自分は思っています。
本当に人を生かすことに繋がるこのプロジェクトに関わらせてもらえることは必然であり、使命だなとも感じています。
そこにいるだけで人々が、仲間ができて、フェアで、自由を感じれて、クリエイティブな気持ちになれて、体も心も元気で、誇り高く、愉しく生きることがあたりまえにできる場所をつくりたいです。
自分だからできることを一生懸命にやりながら、本質的な衣食住生活技術を探求し続け、仲間に助けてもらいながら、人のため、自分のため、淡々と粛々と地に足つけて暮らしていきます。
これからも何卒よろしくお願いします。
すぐにとは言えませんが、いつでも玄関口を開けとく準備はしますんで、ほんま気軽に連絡ください!
まあとにかく達者がいちばん。みなさん達者で。
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