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否定できるし、否定できない。

意見や助言、クレームや罵倒、格言や教訓、宗教や信仰、〇〇論や〇〇主義、など小さな言葉から大きな言葉まで、割と断定気味で又は押し付け気味で話す人やメディアが多いような気がする。

「ような気がする」「だと思う」「と考えている」などと毎度つけるのも面倒なので、コミュニケーションやメディアにおいて便宜上省くのはわかる。だけど省き癖が脊髄反射で行われるようになって、いつしか「かもしれない」要素はなくなって「だ!」という形で知らず知らずに何かを否定してしまっているんじゃないかと心配になる。

ということで断定と否定について考えてみたくなった。




正直、断定は仕方ないと思っている。この記事含めてこれまでのぼくの言葉だって漏れなく、断定はないと否定することはできない。そもそも人は赤ちゃんの頃から断定を繰り返して人はいろんな言語や思考を獲得して、物事の特徴を理解して分類して認識して、、、成長する。

・これは「パパ」。
・これは「ママ」。
・これは「あか」。
・これは「ブーブー」。
・これは「わんわん」。

赤ちゃんなので間違って覚えたり知らないで言葉にすることもある。「パパ」や「ママ」は血が繋がっていないかもしれないけど、それでも血縁上の意味ではなくて家族としてのパパやママだと後に理解する。「あか」は赤だけど、垢やアカウントという意味があることや赤の色の種類を後に理解する。「ブーブー」や「ワンワン」は子供が話す言葉で、大人になると車・自動車・カー、犬などと呼ぶことを次第に理解する。


もう少し大きくなってきたら、

・もらったら「ありがとう」と言う。
・やってしまったら「ごめんなさい」と言う。
・食べる時は「いただきます」と言う。
・食べた後は歯磨きをする。

こうやって状況に相応しい言葉や行動を覚えていく。同時にそうしない「ダメなんだ」と漠然と覚える。だから家族や友達がそうしなかったら「ダメだよ」って注意(否定)する。でもなぜダメなのかは分からなくて、次第に理解する。


・感謝の気持ちを伝えるために「ありがとう」と言う。
・謝罪の気持ちを伝えるために「ごめんなさい」と言う。
・生き物の命や作ってくれた者への敬意や感謝を込めて「いただきます」と言う。
・歯磨きをしないと口の中で菌がわいて汚いから歯磨きをする。

どんどん行動の理由を理解していく。
が、やはりそこには依然として断定が含まれていることが分かる。

これらの箇条書きを別の視点で否定し真偽を問うことはできる。例えば、歯磨きを食後10分後と30分後、もしくは就寝前の歯磨きと汚さはどう違うのか。チョコレートをやケーキを食べた場合と、素うどんを食べた場合、ガムを食べた場合などと汚さは同じなのか。歯磨きをしたら何分何秒どのように磨けば、歯磨きをしたことになるのか。歯磨きをしたとして汚くないラインは個人の感覚ではないか。電動歯ブラシと歯間ブラシで磨かないと汚いという人が現れたらどうか。

だがそれは難癖というか野暮というかナンセンスというか、空気や行間を読んでほしいと思うだろう。ぼくが中学生なら「めんどっ」「ウザっ」と言うだろう。

なぜウザいか。
たぶん「そういうことじゃない」からだ。

大人モードに戻って言うなれば、互いの意図や背景と、状況の文脈に齟齬があるからだ。なのに現代では、顔の知らない仮名の人物や表面しかしらない人物と、箇条書きにされた言葉や切り取られた映像とか現実であーだこーだと争いあう節がある。お互いに違う視点で・違う目で見ているから仕方ない。建設的に意見を積み重ねるような話であればいいとは思うのだが、それにも限界はあるように思う。突き詰めてみると見解・価値観の相違がある。そういった深いところの話になればなるほど相容れなくなる。それに、人数が多くなればもうカオスだ。

大人になってくるとそれなりに賢くなって、奥にある核は至ってシンプルな感情・感覚なのに、理性を纏って高貴を装い、相手を否定できるようになる。この理性が厄介なのだ。経験を重ねて悟れば悟るほど自分の考えが硬く武装されて、自分から見える達観した世界を客観的な世界として疑いようもなく理性的に他者に押し付ける。理性を被っているにすぎないことを自覚していないからタチが悪い。中身はもっと柔らく素朴なものだと思う。

宗教から科学の時代になったのはいいが、科学の皮を被って結局自分の信仰を押し売りしているように見える。科学は相関性や再現性の度合いなどから仮説の正しさの可能性を求めるもので、その可能性が100%になって初めて立証され真理とみなされる。だからそれまではあくまでも全て仮説にすぎない。100%になりきれていない、帰納的なもしくは演繹的な真理もどきの仮説でそれぞれの世界はできている。

どんな物語の教訓も、偉人の名言も、社会の道徳も、たぶん100%ではなくて、それらの反例となる状況をあげることができる。例えば、殺生ですら食事や正当防衛などを理由に肯定される。建築界では有名な2つの言葉、「Less is more. 」「Less is bore.」。ことわざにも「〜。されど〜。」と反対の教訓がつくことが多い。要はケースバイケースなのだ。文脈次第で正しさは揺れる。

どんな人に向けて、どんな人が、どんな状況・文脈で、どんな言葉を使うかで、解釈される意味は変化する。

その言葉は嘘か、欺瞞か、詭弁か、
それとも誤解か、無知か、適当か、
あるいはバカか、ネタか、ボケか、
はたまた煽りか、釣りか、皮肉か、
ただの受け売りか、純粋な信仰か、、、、

相手がどういう意味で言っているのかによって、否定できるか否定できないかは変わるし、否定したくなる場合や否定しても意味がない場合がある。でもそれはあくまでも自分が解釈した意味でしかない。仮に全て本人に説明してもらえたとしても、新たなその説明の意味の解釈次第で真相が揺れる。あちこちで人狼ゲームが始まってしまう。




そろそろ終わろう。

「否定を少なくするためには」ということでまとめてみる。

・断定は仕方ないという認識
 _子供の頃そうであったように。
・断定した意味や理は更新していくという認識。
 _子供の頃そうであったように。
・言葉の核は素朴な感情や感覚であるという認識。
 _だいたいは「それってあなたの感想ですよね?」のように感想レベル。
・最もらしい言葉でも基本は仮説であるという認識
 _水曜日のダウンタウンの企画のような「〜〜説」ぐらいの。
・ケースバイケースという認識
 _お互いご都合主義。
・文脈と意図を柔軟に考えること。
 _平行線は交わらない。

こういった認識や考え方があれば、世の中は少し寛大になって少しは分かり合えるんじゃなかろうか。


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