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「数字」から自由になった私の小さな革命
1、2年前、私はランニングにハマっていた。最初はタイムや距離なんて気にしていなかった。でも、旦那が「便利だよ」と勧めてきたアプリを使い始めると、話は変わった。走った距離やタイムが記録され、速くなるたびに旦那がやたらと褒める。最初は「追い込まれるのは嫌だ」と文句を言いつつも、気づけば距離もタイムもどんどん伸びていき、ついにはハーフマラソンを9分/マイルで走るまでになった。
そのアプリには「フィットネスレベル」なる謎の指標もあった。何を根拠に出しているのか分からない。でも、右上がりに伸びるグラフを見ると、つい「ムフフ」と小さく笑ってしまう。走ることがゲームのようになり、やる気のない日も無理やり走って、少しでも速く――と自分を追い込んでいた。それでも当時の私は「数字がモチベーションになるならそれでいい」と、本気で思っていた。
ところが、あるハーフマラソンで膝を壊し、緊急動物病院の夜勤で生活リズムが崩れると、走ることからすっかり遠ざかってしまった。それでもアプリは使い続けていた。犬の散歩ルートが記録できるのが地味に便利だったから。ただ、もう記録された数字に一喜一憂することはなくなっていた。
その後、夜勤で燃え尽きて無職になった私は、ヨガを始めた。そして驚いた。ランニングをしていた頃、私の体はいつもどこかが張っていてギシギシしていた。でもヨガを続けるうちに、その不快感が消え、体の軸や体幹が整っていくのを感じた。股関節や肩甲骨もどんどんほぐれ、普段の生活で固まっていた部分がやわらかくなっていく。
何よりも衝撃だったのは、運動後にリラックスするという感覚だ。走るときは気合が必要だったのに、ヨガでは頑張らなくていい。ただ、動きと呼吸に丁寧に集中して、変化を感じるだけでいい。ペットや家事から一時的に解放され、頭もスッキリするし、汗もほとんどかかないから外出の予定も気にしなくていい。
「昨日できたことが今日はできない」。そんなこともヨガを通して自然と受け入れられるようになった。気温や食べ物の変化にも敏感になり、私は自然のサイクルの中で生かされているのだと気づく。数字には見えないけれど、ヨガで得た心と体の恩恵は確かに私の中に刻まれていった。
一方、アプリ上の「フィットネスレベル」は、かつての6分の1。数字だけ見れば「悲しすぎる結果」かもしれない。でも、それがどうした? ヨガで感じた効果は、私にしか分からないものだ。それでも私は確信している――「ヨガは一生やめない」。
数字で測れないものがある。これはヨガに限った話ではない。
現代には「効果測定」として、いいねの数やフォロワー数など、分かりやすい数字が溢れている。便利な分析ツールもある。でも、数字に現れないからといって「効果がない」と簡単にやめてしまうのは、あまりにももったいない。だからこそ必要なのは、自分の心と体との対話だ。数字ではなく「自分自身が本当に喜んでいるか」――それを確認することこそが大切だと、私は改めて実感している。
noteを毎日投稿するようになってから、私の生活は一変した。書くことが習慣になると、重いネタも軽いネタも、ある日もない日も発信し続ける。人生にはいろんな日があるし、感じ方もそれぞれだ。それをありのまま発信することは、「どんな自分も受け入れる」という自己受容のステップでもある。そして、そうやって積み重ねた自己受容が、私をリアルな場でも自然と表現できるようにしていく(復職後の課題ではあるけれど)。
こんな気づきを得られたのも、数字に振り回されてきたおかげだ。数字を気にせず、ヨガもnoteも続けられたら、私は1年後、5年後、、どんな自分になっているだろう。今から楽しみだ。
元・会計士の私より。
ちなみに旦那は、いまだにファイナンス系だ。