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心の奥が見えた、たった一瞬

いつものように犬と散歩をしていると、一軒の家から突然「Are you Jack?」と声が飛んできた。Jackは、私が連れている黒い犬の名前だ。振り返ると、そこには以前、一度だけ会話を交わしたことがある家主が立っていた。

それは夏の日だった。家主はドライブウェイに水を撒きながら、「Beautiful dog!」と笑顔で声をかけてきた。この辺りの人たちは、皆わりとフレンドリーだ。軽い挨拶くらいなら人見知りの私でも自然と返す。けれど、その時の私はまだ少し擦れた心を抱えていて、「アジア人の私に声をかけてくれるなんて珍しいな」と、少し驚いたのを覚えている。

そして今日。その家主はJackを見つけるなり、迷いなく名前を呼んだ。3ヶ月以上前、ほんの一度しか会話をしたことがないのに。Jackは、見知らぬ男性に対しては慎重だ。それなのに今日は、尻尾を大きく振って、ためらいもなく彼のもとへ飛びついた。高い声で笑顔で接する人には、Jackは最初から心を許すことがあるのだ。

「名前を覚えていてくれてありがとう。」
そう言うと、家主は少し笑いながら、「その耳ですぐにわかったよ」と言った。Jackの耳は、ひらひらと薄くて、彼のチャームポイントだ。私は自然と「犬は飼ってるの?」と聞いた。犬を扱うその手つきや、Jackの様子を見ていたら、尋ねずにはいられなかった。

その瞬間、彼の表情が一瞬だけ赤らみ、曇った。ほんの一瞬だったけれど、その歪みは隠しきれていなかった。
「今は飼っていないよ。でも、ずっと犬を飼っている人生だったよ。」
彼はそれだけ言った。

何か言いたいことが喉の奥に詰まったような、その顔を見て、私は「ああ」と胸が詰まるのを感じた。そして慌てるように「Jackが懐いてるから、そうだと思った!」と明るい声で返して、その場を立ち去った。けれど、歩きながらなぜか泣きそうになっていた。

彼の表情が、頭から離れなかったのだ。あの顔は知っている。緊急動物病院で看護師をしていた頃、何度も見た表情だ。ドクターが安楽死の話をしている時に見える飼い主の顔。静かに震える声で「お願いします」と言う、その瞬間の顔。ペットの前足に針を挿し込むとき、視界の端に見えた、痛みと愛と別れが混ざった、あの表情だ。

きっと彼も、愛犬を亡くしたのだ。そしてもう、飼うことができなくなっているのだろう。もしかしたら、その犬はJackに似ていたのかもしれない。いや、全然違うのかもしれない。私のただの妄想かもしれない。でも、もしこれが妄想だとしても、あの二分足らずのやりとりでここまで感情を揺さぶられてしまう私は、少し繊細すぎるのかもしれない。

それでも、彼の言葉や表情が、なぜこんなにも心に触れたのだろう。話し手の心が開かれていると、受け取る側もそれを感じるものなのだと思った。彼が言葉を発するたびに、周りの空気が明るくなり、まるで、彼の気持ちが自然と私の中に吹き込んでくるみたいだったから。


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