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人間関係への苦手意識の突破口かもーー自分と他人の尊厳を見つめ直して
言葉を紡ぐのは、本当に難しいと感じる。たくさんの言葉のイメージが頭に浮かんでも、それを形にして人に伝えようとすると、最初に抱いたイメージがするすると消えてしまうことが多い。それでも、全く発信しなかったこの10年の間に比べ、2024年は大きな進歩だった。note、Threads、YouTube、Instagramといったプラットフォームで、自分の思いを発信し始めたことは、私の中の素直な承認欲求を認め、それを受け入れた証拠だ。自分のことを他のやるべきことと同じくらい、いやそれ以上に大切にし始めた証でもある。
一週間前に投稿をした後、何度も次の投稿を試みた。しかし、一度躊躇すると翌日には全く違う考え方をしている自分に気づき、どのタイミングの自分が本当の自分なのかが分からなくなる。それがさらに投稿をためらう理由となっていた。けれど、今回は消えてしまう前に、どうしても書き残しておきたいことがある。それは、「他人」に対する自分の認識の変化だ。
言語化するのは難しいけれど、これまで私は「他人と接すること」は、「自分の居心地の良い状態を変える必要のあること」だと無意識に思っていた。どんなに話しやすい相手であっても、その人と話す時の自分は気を遣い、言葉を選び、エネルギーを消耗していた。だから、仕事でバーンアウトしたときは、全エネルギーを自分自身に使いたくて、誰とも話したくない状態が数か月続いた。
その後、自己肯定感が育ち、少しずつ「他人」に対する意識に変化が生まれた。まだ苦手意識は残っていたが、自分の状態を維持したまま他人と交流できる希望が見え始めていた。そして先日、犬を散歩している時に、ふと「誰も私が私を好きだという気持ちに影響を与えない」という感覚が湧いてきた。この気づきは衝撃的だった。
私は先日、自分の発信が原因で無意識に人を傷つけていたことに気づいた。それをきっかけに、自分が過去にどれだけ無意識に他人を傷つけてきたかを振り返り、愕然とした。「自分は気を遣って生きている」と思っていたが、それは実際には自分を守るためであり、本当に他人を思いやることはほとんどできていなかったことに気づいた。人を気遣っているつもりでも、軽率な発言で傷つけたり、小さな仕返しのような行動をしていた自分が恥ずかしくなり、一瞬自分を最低な人間だと思った。
しかし、バーンアウト後に内観を続けたことで、こじれた自分も、それをほぐそうと努力する自分も好きになれた。不器用な自分、内観をやめなかった自分、本当の自分を見つけようとしぶとく頑張った自分を認められるようになった。そして、発信を通じて自分を表現する度胸のある自分にも気づいた。その先には、誰かのためになることをしたいという新しい気持ちも芽生え、自分の可能性を感じられるようになった。
ここまできて、「他人」に対する自分の認識を振り返ると、他人の存在や発言が私の自己肯定感に影響を与えないことに気づいた。そして、私が私を大切に思うのと同じように、他人もその人自身を大切に思っているのだと理解した。だからこそ、相手を尊重するために言葉や行動を選ぶことは、自分を押し殺すことではなく、むしろ自分を大切にする行為とつながっていると感じた。「他人」と交わることは、自由に、自分らしく生きるための障害ではなく、その一部になり得るのだ。
この発見は、私にとって人間関係の中での大きな突破口だった。そして、この気づきが、これからの私の発信活動や、動物看護師としての働き方にどのように影響を与えるのか、具体的にはまだわからないけれど、確かな変化が訪れると感じている。
スピリチュアルに、自分らしく生きること。それを目指して内観を続けた結果、本当に自分らしい道が見えてきた。その一方で、それを進める自分が「他人の生き方を否定してしまうのではないか」という不安を抱いていた。いま必死に組織の一員、もしくは家庭の一員として生きる多くの人の生き方を否定することになるのではないかと恐れていた。しかし、今回の気づき──
他人の存在や発言が私の自己肯定感に影響を与えない
私が私を大切に思うように、他人もその人自身を大切に思っている
「他人」と交わることは、自分らしく生きる障害ではない
これらの考えを、私が誠実に、うまく伝えることができれば、生きづらさを感じている誰かに希望の光を届けられるのではないかと思った。まだその方法はわからないけれど。