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他人の態度に揺さぶられないために:コミュニケーションにおける自分軸
私は大局的に物事を考える視点を持っていると自負している。しかし、不思議なことに、対人関係については、どうしても苦手意識が抜けない。特に移民として生活していると、この苦手意識が一層浮き彫りになる場面が多い。
アメリカに移住してから、人との距離感や文化的な違いに戸惑うことが少なくなかった。言葉の壁、文化的背景の違い、自分の存在意義をどう示すべきか——そうした問題が絡み合い、対人関係が複雑に感じられることが多々ある。そして、そんな状況の中で、私はずっと「何か大きな勘違いをしているのではないか」という感覚を抱えていた。
最近、その答えに少し近づけたと感じる出来事があった。近所の移民の方々との関わりを通じて得た気づきである。私は犬を飼っているのだが、その犬がきっかけで、近所の中国人とアルゼンチン人のご家族と親しくなった。彼らも移民であり、私より英語は流暢だが、会話の端々に共感や安心感を覚えることが多い。
彼らとは気軽に話せるのに対し、近所に住むアメリカ人ご家族との会話には、いまだに苦手意識を覚える。彼らは温かく親切で、私たちを夕食に招待してくれるような気さくな人々だ。しかし、ジョークやテンポの速い会話についていけず、相槌を打つだけで精一杯の自分に気づくたび、自信をなくしてしまう。
こうした経験を通じて、「移民同士の方が話しやすい」と感じる理由を考えた。それは、完璧なコミュニケーションを目指すのではなく、お互いの不完全さを受け入れ、共通点を見出しながら話しているからではないか。英語という共通言語を使ってはいるものの、文化や背景の違いがあるため、一つひとつの言葉に対する過剰な期待やプレッシャーがない。その自由さが、私に安心感を与えているのだ。
そんな中、私はアルゼンチン人のご近所さんと特に親しくなり、互いの犬を遊ばせる機会を作るようになった。彼らの庭に放たれた犬を迎えに行き、私の裏庭で一緒に遊ばせる。これは私にとっても、エネルギーを持て余している愛犬にとっても良い時間だった。でも、そんな中で小さな違和感を感じる場面も出てきた。
例えば、私は犬を送り届けた際に、動画を添えて“今、○○を裏庭に連れ返したよ!”等と一言伝えるのだが、彼らの返信は“Thanks”のみだったりする。時にはスペルミスを含む簡単な返事もあり、どこか適当に扱われているように感じることもあった。忙しい彼らの生活を考慮すべきだと思う反面、私の労力や思いやりが軽んじられているようで、もやもやした気持ちになった。
その時、ふと気づいた。このもやもやした感情は、「相手の態度や反応」が気になってしまっているという点で、アメリカ人との会話で感じる苦手意識と、根本的には同じなのではないかと。
異国で生活する中で、自分の存在や行動が軽視されているように感じる場面は少なくない。特に、ネイティブの文化に馴染もうとする中で、私は無意識のうちに「自分がどれだけ大切にされているのか」を過剰に気にしていた。
結局、どちらの場合でも、相手の態度や反応が私の自己肯定感を左右しているのだ。
私は先日、以下の記事を書いた。
以前、私は「他人と接すること」を「自分の居心地の良い状態を変える必要のあること」「自分らしさを少しねじ曲げなければならないこと」だと無意識に思っていた。だから気づいたら「他人が苦手」になっていた。しかし、自己肯定感が育ち、「誰も私が私を好きだという気持ちに影響を与えない」という感覚が湧いてきたとき、その認識は変わった。「他人」の存在や発言が、私の自己肯定感を揺るがすことはない、と気づいたのだ。
この気づきを、「他人とのコミュニケーション」そのものにも適用できるのではないか。移民であることを意識しすぎると、私は孤独感、疎外感、誤解などを恐れ、「うまく立ち回ること」ばかりを考え、自分自身を見失っていた。しかし、本当に大切なのは、自分が望む関係性を築くために、コミュニケーションにおいても自分の軸を保つことではないか。
英語が完璧でなくても、相手に迷惑をかけているように感じても、私はここで生活し、働き、夢を叶えようとしている。相手の態度や言葉に一喜一憂せず、自分らしく、自然体で、自分らしい関係、深く長い人間関係を育んでいきたいと思っている。だからどんな時も、誰が相手でも、相手の態度に関係なく、私は誠実で率直なコミュニケーションをはかろう。
そう意識するようになってから、かのアルゼンチンの家族と面と向かって話す機会があった時、普段彼らの犬の面倒を見ている私に対する感謝の気持ちや、一人で複数の犬を面倒を見ることへの気遣いなど、丁寧な言葉でコミュニケーションをとってくれた。適当な対応に腹を立て、同じようにそっけなく返すのではなく、自分の軸を保って接してよかったと思った。改めて、自分軸の大切さを思い知った。