【ショート版】日々是紅茶㊱「朝の一杯はノンフレーバーで野性を」
今日はさっそく紅茶日記ライト版。つまり穂耳のぼやき。
毎朝の一服のお茶は、紅茶。
お茶を飲まなくても禁断症状はないけれど、紅茶があると嬉しい。
この生活、何年続いてるかな。
はじめは体質改善のためでもあったかもしれないけれど、今はこの時間が単純に好きなのだ。
一日をはじめるお茶は、試飲も兼ねてフレーバーなしのそのままのお茶をなるべく楽しむようにしている。
茶葉や淹れ方による違いが分かりやすいので、実験したりレポートを作るのに適した時間だからだ。
静かな一人の時間が持てるし、なにより朝が一番感覚が冴えている気がする。
寝坊したときや朝がバタつく日は、ティーバッグのお茶にもお世話になる。
けれどよっぽどのことがなければ、朝も私はリーフで淹れたい。
何より、紅茶を淹れる工程の中にこそセラピー効果はあるなと感じるているからだ。
熱湯を注ぎ蒸らしに入っている間、茶葉が開いていく様子や水色の変化、ポットの蓋を開けたときの立ちのぼる香りと淹れた後の茶殻の香りの比較。
その過程を見ずにしてタイマーが鳴ったら、既に出来上がっている紅茶に口をもっていくのは、何だかもったいないなと思ってしまうのである。
そして、紅茶も含めお茶は本当に植物の力を人の手で凝縮したものだなと実感する。
「これはどこの部位の香りなんだろう?」とか思いを馳せながら、ごく私的にイメージを膨らませて妄想表現してみる。
「(くんくん)この茶葉はより樹木らしい香りがする」
「(くんくん)干し草のような香りがする」
「(くんくん)青々としてハーブのようだ」
「(くんくん)このスパイシーさは発酵の強弱なのか?土なのか?」とか。
その時間も楽しいのである。
フレーバーティーは分かりやすく香りを着けた人の意図したイメージをダイレクトに受け取りやすい。
それは楽しいことでもあると思うし、個性を敢えて出さないで脇役に徹する茶葉の役割もあるかもしれないと思う。
ただ、私はこの繊細なチャノキ本来の内側から放つ淡い機微のある香りを一時でも感じようとする時間を持つことを大切にしたい。
例えば、枯草の上や砂浜を裸足で歩いてみるとか。
都市生活に慣れていてたまにすると、ドキッとするような自然と触れる体験のような、そうしたちょっとした野性味を私は朝の一杯のお茶から取り込んできたように思う。