おいしさを越えた何か
私は、セイロンティーを主軸にした紅茶教室をしています。
昨年は、まずセイロンティーを知っていただき、興味を持つきっかけの扉を開いてもらえたらと、家庭で楽しめるアレンジなどをご紹介することを中心に紅茶教室をしてきました。
なぜ紅茶?なぜセイロンティー?は以前の記事でも書いていますが、読み返してみて、私が伝えたいことを伝えられてなかったな~と思ったので、改めて書いてみました。
セイロンティーが私の好みにあっていて美味しいお店に出会うことができただけにとどまらず、実際にスリランカに行ったこと、お茶摘みを体験できたことが更に関心を持って学びを深めたことの理由として大きいと思います。
もちろん、ブレンドしなくても何も足さなくても十分美味しいセイロンティーに魅力があるのはもちろんです。
でも私にとって、紅茶、とくに「セイロンティー」だったのは、偶然私の人生にスリランカとのご縁が織り込まれたから。
そして実際にスリランカに友人がいると思ったら、自然と私にできることはないか?と考えるようになりました。昨今のスリランカのデフォルトニュースにも静かに心を痛め、出会った彼らの顔が目に浮かびました。
もしかしたら、初めての紅茶の旅がインドのダージリンだったらダージリンを主軸にしていたかもしれないし、中国だったら、雲南やキームンなどを主軸にしていたかもしれません。
そんな自然なご縁でセイロンティーを学び、お付き合いを深めていく中で、私なりの経験を交えながら紅茶を通じて心が豊かになるような時間を提案できたらと思っています。
私が、お茶を思うとき、一番心に留めているのが、植物と人との相互関係についてです。
植物からの恵みを受け取っているという点では、ハーブティーや漢方茶などとお茶(ここでは「茶の木」から作られる紅茶や緑茶を含めた「お茶」を厳密には指しています)は、同じなのですが、私の中では微妙に意味合いが違っています。
ハーブやスパイスティーなどは、本来自生している植物を採集してシンプルに乾燥させたり煎じたりして楽しみ、暮らしに取り入れることが一般的なように思います。
一方、茶の木から作られる「お茶」は、試したことがある方はご存知かと思いますが、通常摘み取ってそのまま煎じてもとっても苦い味で正直飲みにくいです。
チャノキの葉は、色々な工程を経て、人の手を介して初めて、あの香りと美味しさと健やかさを私たちに与えてくれます。
もっと言えば、チャノキの葉の場合は、採集というよりも摘採と表現されるようにあえて新芽をつかったり、人間が部分的に選別して摘み取ったものです。(一部番茶など除く)
そしてお茶摘みとは同時に、枯れたり弱った枝を剪定してメンテナンスするという意味合いも込められています。スリランカではこの茶摘みをほぼ9割伝統的に「手摘み」で行っています。
紅茶教室をやってみて、気付いたことがありました。
それは「紅茶教室」という響きから一般的に連想されているものと、私がお伝えしたい共有したいこととは乖離があるんじゃないかということ。すべてがというわけではないのですが、とかく「キャッチーであること」を求められたり、あれ・・?と思ったことが度々ありました。
そうしたことを自分の言葉で分かりやすく楽しく伝える力がまだ未熟なように思います。
でも、今年は私なりにでも少しずつ伝える努力もしていきたいなと思っています。
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