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認知意味論の観点からの歌詞の解釈

1.はじめに

少し前に読み終わった認知意味論の入門書が非常に面白かったので、今回はその考え方を応用して、ある楽曲の歌詞(の一部)を解釈してみたいと思います。取りあげる楽曲は、レミオロメンの『粉雪』です。

(1)粉雪舞う季節はいつもすれ違い
人混みに紛れても同じ空見てるのに
風に吹かれて似たように凍えるのに
僕は君のすべてなど知ってはいないだろう
それでも一億人から君を見つけたよ
根拠はないけど本気で思っているんだ
些細な言い合いもなくて同じ時間を生きてなどいけない
素直になれないなら喜びも悲しみも虚しいだけ
粉雪ねえ心まで白く染められたなら
二人の孤独を分け合うことができたのかい
(以下略)

レミオロメン『粉雪』(作詞:藤巻亮太)

本楽曲はさまざまな評論が可能であると思われ、またすでにそのような研究はいろいろな場でなされていると思いますが、ここでは本楽曲の主題というよりも、その中の1フレーズが、どのようなことをどのように意味しているのか、という点に絞って考察していきたいと思います。問題となるフレーズは上の歌詞の太字にした部分、

(2)それでも一億人から君を見つけたよ

です。

2.「一億人」とは何を指しているのか?

この「一億人」とは一体何を指しているのでしょうか? この歌詞では、文脈から、粉雪の降る冬の季節に、何らかのすれ違いによって、恋人と別れたか、あるいは上手くいかなくなってしまった主人公が、その恋人に「君」と呼びかけていると考えられます。その「君」(=恋人)を「一億人」の中から見つけたと、(2)は言っていることになります。

さて、以上のような文脈を背景に、この「一億人」という表現を見てみると、多くの日本語話者は自然と「日本人全員の人数(の概数)」を連想するのではないでしょうか。

私たちは学校教育などを通して、日本人の総人口が約一億人であることを学習します。認知意味論の用語で言うならば、これは「日本人」という語についての「百科事典的知識」であると言えます。

(3)日本人の総人口は約一億人である。

(「日本人」という語についての百科事典的知識)

この(3)では「日本人」という語と「約一億人である」という表現が、「一方を見たり聞いたりすれば、多くの場合に他方を連想する」という意味で「近接的関係」にあると言うことができるでしょう。

ある語が、近接的関係にあることを原因として、その百科事典的知識に含まれる他の対象を意味するように、意味が拡張する仕組みを認知意味論では「メトニミー(換喩)」と言うそうですが、(2)の歌詞を見聞きした日本語話者の多くが、そこに含まれる「一億人」という表現から「日本人の全員」を連想するのも、「メトニミー」の仕組みによるものだと考えられるでしょう。

3.聞き手のセクシャリティの問題

しかし、問題はこれで終わりではありません。というのも、もし「一億人」が「日本人の全員」を意味しているとするならば、そこには男性も女性も含まれているはずです。

(2)の歌詞は、文脈から、主人公が恋人を「一億人」から見つけたという意味になりますから、この歌詞は、このままの形では、

(4)主人公が恋人を、男性も女性も含めた日本人の全員のうちから見つけた。

ということを意味していると解釈するほかありません。すると、この歌詞の主人公は、男性も女性も恋愛対象となる「バイセクシャル」というセクシャリティを持つことになるでしょう。もちろん、そのように解釈することも十分可能ではありますが、それに限定する必要もないと思います。

そもそも楽曲は不特定多数の人によって聞かれるものですから、その聞き手のセクシャリティを限定する解釈は、その楽曲の受容の幅を狭めてしまうおそれがありますし、作詞家もその点は十分に考慮したうえで、どのようなセクシャリティの人にも受け入れられるように作詞していると考えられます。

では、主人公がバイセクシャルではない場合、(2)の歌詞の「一億人」という表現はどのように解釈することができるのでしょうか?

4.二重の比喩が用いられた表現

主人公が異性愛者か同性愛者であった場合には、(4)の解釈を取ることはできません。では、どのように解釈したらよいのでしょうか?

ここで「シネクドキ(提喩)」という比喩の一種が問題となります。「シネクドキ」とは、ある表現が、もともと指示していたカテゴリーの下位カテゴリーをも指示したり、反対に、もともと指示していたカテゴリーの上位カテゴリーをも指示するように意味が拡張する仕組みのことです。前者は「類から種へのシネクドキ」、後者は「種から類へのシネクドキ」と呼ばれます。

例えば、「花」という語はもともと、桜の花だけでなく、梅の花や菊の花、タンポポの花といった対象を含んだ一般的なカテゴリーを指示していたと考えられますが、「花見に行く」という表現の中で使われる場合には、一般的なカテゴリーではなく、その下位カテゴリーである「桜の花」を専ら指示しています。その意味で、「花見」という表現で「桜の花を見ること」を指示するのは、「類から種へのシネクドキ」であると言えます。

また、聖書の「人はパンのみにて生きるにあらず。」という言葉に含まれる「パン」という語は、もともとは食品の一種を指示する語が、「食べ物一般」あるいは「物質的充足一般」を指示するように、拡張されて用いられている例であり、「種から類へのシネクドキ」であると言えるでしょう。

話を戻しますが、(2)の歌詞の中の「一億人」は、たとえ「メトニミー」であると解釈したとしても、本来は、「男性も女性も含んだ日本人の全員」を指示するはずです。しかし、例えば、異性愛者や同性愛者の人がこの言葉を「日本人の男性/女性の全員」を指示していると解釈したとしても、決して不自然ではないでしょう。(異性愛の男性である私も、初めてこの歌詞を聞いたときには、「一億人」=「日本人女性の全員」と解釈していました。)

その理由は、「男性も女性も含んだ日本人の全員」という表現が指示するカテゴリーに対して、「日本人男性/女性の全員」という表現が指示するカテゴリーは、前者の下位カテゴリーに当たるものであり、それゆえ、前者から後者への意味の拡張は「類から種へのシネクドキ」と見なすことができるからです。

つまり、異性愛者や同性愛者にとって、(2)の歌詞は「メトニミー」と「シネクドキ」という二重の比喩が用いられた表現であると言うことができるでしょう。

5.比喩による婉曲性

さらに、この歌詞にはもう一つ重要な特徴があると思われます。それは表現の「婉曲性」という特徴です。

ある対象(あるいはカテゴリー)を指示するとき、もともとそれを指示する語を使ってそれを指示するよりも、もともとはそれを指示していない語の意味を拡張させることによって、当の対象(カテゴリー)を指示することがあります。このような時、意味を拡張して用いられた語はしばしば「婉曲性」を帯びることが知られています。

例えば、ある人が死んでいたことを表現するとき、単に「彼は死んでいた」と表現するのではなく、「彼は冷たくなっていた」のように表現することがあります。これは、

(5)「死ぬ」(「生命活動が停止する」)⇒「体温が低下する」

(「死ぬ」ことについての百科事典的知識)

誰かが「死ぬ」と、すぐにその人の体温が低下する(「冷たくなる」)という時間的な近接関係にもとづいて、「冷たくなる」という語の意味を拡張して(「メトニミー」)、「死ぬ」ということを表現するからです。

また、このように表現された「彼は冷たくなっていた」と「彼は死んでいた」という表現を比較すると、前者の方が後者よりも、より「婉曲的」に感じられるでしょう。

この場合には「メトニミー」という一種類の比喩(意味拡張)しか用いられていませんが、それらが重複して用いられる場合もあります。そのような時、「婉曲性」の度合いは、

(6)意味拡張なし⇒1種類の意味拡張⇒2種類の意味拡張⇒・・・
低い           (婉曲性)             高い

というふうに、上図の左から右にすすむにつれて高くなる傾向にあるようです。

婉曲表現は、一般的には、「人の死」にまつわる事柄や、性的な事柄、排泄に関する事柄などに使用されることが多いですが、そうでなくても、発話者にとって(恥ずかしいなどの理由で)言いづらい事柄に使用されることがあると思います。

上の(2)の歌詞は、主人公がバイセクシャルだと考えた場合には、1種類の意味拡張、異性愛者か同性愛者だと考えた場合には、2種類の意味拡張が行われており、いずれの場合にも「婉曲表現」になっていると考えられます。これはおそらく、「日本人全員/日本人男性/日本人女性全員の中から一人、君を恋人として見つけた」という言い方に、主人公がある種、気恥ずかしさのようなものを感じていることを表現しているのではないでしょうか。

6.おわりに

以上、レミオロメン『粉雪』の一節の解釈について長々と考えてきました。その結果、当該の歌詞は、さまざまなセクシャリティの人が共感できるような歌詞になっていることが分かりました。もしかすると、この楽曲が多くの人々に受け入れられたのも、そこに理由の一端があるのかもしれません。

また、本稿を執筆するに当たり、次の文献に全面的に依拠しました。認知意味論の基本的概念の丁寧な説明から、その応用に至るまで論じていて、とても参考になる入門書です。

・籾山洋介著『実例で学ぶ 認知意味論』(研究者、2020)

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