ばいばい地元
22年間生まれ育った土地、川崎を今日で去ることになった。川崎駅から徒歩30分。角地の三階建て一軒家。夜になると暴走族が家の前を通りすぎていく我が家。一階は母が経営する生花店、二階に母と姉妹の部屋とリビングを詰め込んで、ボロボロになりながら23年間なんとかそこに立っていてくれた。
解体業者の人に、家財の処分費用と引っ越し代金で86万とります!と元気よく言われて家族三人で戦慄。2月の土日を全部使って、必要なものを父のトラックで運んだ。自分で呆れたが、わたしの荷物はほとんどが本と服だった。11箱ぶんの本たちと、10箱ぶんの服で、新居の5畳のわたしの部屋は大変なことになった。これから地獄の片付けである。
7年ぶりの再会、絆を意識的に保ちながら三人で協力し、なんとか86万を払わず良いことになった。
母の遺影は和室にある。賃貸でも、お線香はあげていいのだろうか。匂いがついたらまずいとかあるのか。でも、お線香はあげずにいられないので毎日あげる。
最後の運び込みの際、車の中がいっぱいになってしまってわたしが乗る場所がないため、「わたしだけ電車で新居に帰宅」を提案。父と姉を見送って、振り返ったとき、見慣れた我が家を見上げた。
よく晴れた日の夕方は、雲が薄く、途切れ途切れになって、それがわたしをやけに感傷的にさせた。
改めて見ると、家、クソボロボロだった。色んなところに亀裂が入っていて、気がつけなくてごめんね、と思って少し泣いた。
車がお店の前にとまっていると、お母さんが家の中にいるのだと分かる。車があるのとないのじゃ気持ちが全然違う。お母さんが乗っていた車は、母の友人がこころよく引き取ってくれた。車があって、母が店にいないとき、物音をたてずに二階まで上がって、母を驚かせようとしていた。まあ驚くことはなかったけど、母はいつも笑顔でおかえりを言ってくれた。
まだあの頃は祖母も生きていた。家の目の前に建っている標識のポールに縄跳びをくくりつけて、おばあちゃんと二人でよく縄跳びをした。わたしが跳べないと、おばあちゃんは「ペケ」と言った。その響きが可愛くて、よく覚えている。
何年か前は駐車場だったお隣は、今は立派なマンションが建っている。4歳上の姉が、嫌々ながら遊んでくれたとき、駐車場の中で鬼ごっこをしたりした。迷惑なガキどもである。
父のことはよく覚えていない。けど、掃除をしていたら父が作ってくれた竹細工のおもちゃがたくさん出てきたから、よく遊んでくれたんだなあと思う。
我が家の階段には、わたしと姉が描いた絵が、画廊のように飾られていた。学校から持ち帰ってくる度に、母は嬉しそうに壁に貼っていた。
わたしの部屋はもともと祖父が使っていた。喫煙者だった祖父のおかげで部屋はヤニカスまみれだった。小学生のころ泣きながら必死に壁を拭きまくったのを思い出した。
思い出すことはたくさんある。きりがない。覚えていられなくなったらどうしよう、と考える。でもこれもきりがない。
写真を何枚か撮ってから、少し辺りを散歩した。
小さい頃、よく遊びに行った公園に立ち寄った。今日は日曜日だったから、家族連れが多くいた。そんなに大きな公園ではないし、わたしの記憶では、家族みんなで、お父さんお母さん兄弟姉妹揃ったような家族連れを、その公園で見たことなんてないのだけど、今日は珍しく三組くらい居た。わたしはこの土地で育って、物事をななめに見る荒んだ性格になったと思っているのだけど、今日公園で遊んでいた、小さなひとたちは、そんなことないように。この公園で遊んだ彼らが、川崎という泥みたいな町で、健康に育ってくれますように。家族といっしょに育っていけますように。親孝行をたくさんしろ。後で後でと思ってると、筆舌に尽くしがたい後悔で身動きがとれなくなるよ。頑張りなさい。ヤンキーになるなよ、ヤンキーに負けるなよ。少年院入るなよ。煙草は吸うなよ。言葉は丁寧に使いなさいよ。たくさん勉強して大きくなりなさい!
母が車を運転していたときには、わたしはいつも助手席に乗っていた。姉と三人のときは後部座席だった。後部座席に乗ると、上手く前の二人の会話が聞こえなくなるのが嫌だった。後ろに乗ると必ず眠くなるわたしを、母と姉は面白がった。
川崎駅行きのバスで、一番後ろの助手席側の窓際に座った。全部、全部が思い出だった。母が毎日駅まで車で送ってくれた道、母が病気と分かってから自転車で通った道、終バスがなくなって徒歩で帰った道。わたしにも、田舎はあった。川崎というのがめちゃくちゃ癪だけど。
多摩川のほうまで歩けなかった。お大師さまにも挨拶をしなかった。家にはしっかりお別れをしたけど、なんだか中途半端な気持ちもする。二度と来れないわけじゃないけど、あそこはわたしたちの家じゃなくなる。生活圏は治安の良い場所に移った。寂しい気持ちが蔓延して飲み込まれそうになる。
「川崎駅の時計台前で」
家族とも、友達とも、たくさん交わした言葉だ。
きっと言わなくなる。今日見たら時計台ショボくて笑った。
感慨に浸って時計台の写真を撮っていたら、おそらく地元の中学生に「あの人なんで写真撮ってるんだろww」と言われたので、やっぱ川崎最悪だなと思った。黙れクソガキども。川崎の教育による弊害を2年後くらいに思いしれよ。元気に育ちなさいよ。勉強はしっかりして。
さよなら川崎。最低なわたしの地元。
22年間ありがとう。