三子の魂、百まで〜幼少期のマイルド虐待が一生付きまとう〜
結婚して子どもを持つまで全然気が付かなかったんだけど、夫は確かに被虐待児。振り返れば婚姻届を出した途端に態度を変えた義母に不信感が募ったあの時、あの時に気づくべきだった。でも、まさかそんな酷いことをされて育ったのにニコニコ生きてる人がいるなんて想像ができなかったんだよね。
拳を振り上げなければ暴力じゃないという誤解
夫は拳を振り上げたり、平手打ちをしたりしなければ暴力じゃないと思っている節があって、日々、子どもたちにマイルドな虐待を繰り返しています。
遡れば最初の暴力は娘が2歳の頃、ちょうどイヤイヤ期真っ盛りの頃に何でもかんでもイヤだイヤだと言っていて、私はそのイヤイヤを楽しんでもいたんだけれど
夫が対応している時になんでかぎゃーっと泣くことがあって、まだ言葉も拙く泣いている理由はイヤイヤの延長なんだと思っていて気づくまで1ヶ月くらいかかった。
娘を抱き上げた夫が胴を捻り潰しているなんて思いもしなかったから。
拳を振り上げるとか平手打ちするとか、蹴りを入れるとかはわかりやすい見つけられやすい暴力だなと思う。
夫がしていたそれは陰湿すぎて本当になんともかとも。
私も信じられなかったし、それを母に相談した時も信じてもらえなかった。それくらい夫の見た目はとても優しい人。
この時私はすでに第2子を妊娠していて、離婚しようかとも思った。
実母に相談してそばにいるときにそれが起こって、ああ言う時抱き上げて胴体にぎゅっと力を入れて捻り潰していると伝えたらそれはいけないことだと夫にも伝えてくれて話し合いをした。
最初離婚を勧めていた母が急に態度を変えた日があった。
「お母さん協力するから頑張ってみたら。子どもたちの父親は夫さんしかいない、夫さんを切り捨ててしまうのは簡単だけれど、悲願の家族を手に入れた彼がその願って願ってやっとここにある家族から見捨てられたら立ち直れないと思う。父親が健康ではないってことは子ども達にとって不幸だし、その子どもたちの不幸はあなたを苦しめてしまうと思うから。」という。
そんなこと言って先に死んじゃったので、なんともだけれど
何度も何度も話し合いを重ねて、痛みを伴うことをしてはいけないと伝え続けてきていて、それでもイライラして突き飛ばしたり、強い言葉で罵ったりする。衝動的にカッとなってやってしまうそうです。本当に怖い。それは立派に暴力。拳で殴らないけど、それは立派な暴力で血が出るような怪我をすればあなたは警察と児童相談所のお世話になる。そう話してもなかなかやめられない。
「ぶっ殺したくなるから歯磨きして?」 ←これも立派な暴力で虐待
拳や平手打ちをしなければ暴力じゃないと思っている部分の根底にあるものはなんなんだろう。考えても仕方ないことだけれど親にされてきたことが根深く夫の心に突き刺さっているように思えてきた。
それを抜いたら血が出てしまうのかな。
整備した竹林から芽を出したチャノキ
言葉でしか修正できないと心に刻んで欲しい
子どもを育てるって未熟な状態でこの世に飛び出てきたこの子達の脳を発達させることなのではと思ってやってきた。なのに、育児の最大の協力者でいてほしい、buddyでいるはずの夫は暴力で抑え込んで解決しようとする。
人間の心って脳だよね。脳って人間の全て。
息をするのも心臓を動かすのも、腕を動かすのも声を出すのも全ては脳が司っていて、脳ありきで人は生きている。
この脳を育てるには言葉で丁寧で大切な言葉を紡いで行くしかないのだけれど、このやり方だけは自分がやってもらってないとできないみたい。
何か不都合が生じた時、自分の思ってたことと違う時、周りの人にそれを伝えることすら許されてこなかった人には、当たり前に言いたいことを私に言う、これは違うと言える我が子が憎い存在になり得る様子。
これが虐待の連鎖なのかと軽く衝撃を受ける。
実際には憎いという感情よりも、その姿をみることでわかって欲しかった自分のトラウマと根底で結びついて呼び覚ましてしまうのではないかと精神科の先生は言っていた。
日常で何気なく発せられる子どもたちの自由で伸び伸びした姿に傷ついていたとしたらいくつ心があっても持たない。
そうか、だから記憶を飛ばしたり無かったことにするんだ。ってところに行き着いたのが最近のこと。
でもさ、私には寄り添ってくれる夫がいない。そんな中、私だけ寄り添い続けること。それが続けば夫にほとほと疲れてしまうんだ。そろそろ、本気できづこうよ。変わろうよ。
あなたは親から怒られ続けてきて何を得た?
100点を取らないと叱られる家にも書いたけれど、怒られてばかりいる家庭で育ったようで。他の話を聞いてもゾッとするようなことばかり。
人間も動物だから怒られる=自分の存在を否定されることはやっぱり怖い。怖い思いをするのは生き物にとって生命を脅かすことだからそこを避けて生きようとする。それは自然な流れだと思う。
怒られないように生きるようになると自分の気持ちよりも先に”怒られないかどうか”が基準になる。
自分の気持ちに蓋をしているうちに自分の気持ち=他人の気持ちになってしまっていることにも気がつけずにいる。そんなパターンが夫なんだと思えて仕方がない。
母親に殴られていじめられて生きてきて、夫は何を得たんだろう。
そこから逃げずに考えてくれるようになれば、子どもに対するマイルドな虐待を止めてくれるのではないかとまだ期待している。
私が怒ったあの日を境に二人の関係性は変わってしまった
私たち夫婦、結婚する前から二人でyogaのジムに通っていて、妊娠してからも通っていたのだけれど
出産してから二人では行けなくなって、それでも当たり前のように自分だけ毎週土日はyogaに行ってしまう夫に私が文句を言ってから私たちの関係性は変わったと思っている。
子どもが産まれてから8ヶ月、毎週土日、朝から一人でyogaのジムに行ってしまう夫に「家族の時間とか私がyogaに行けるようにとかは考えてくれないのか」と問うことがそんなにダメなことだったんだろうか。
家族なら夫婦なら私に言われる前に気づいて欲しかったし、言われても「ごめん」て思えたならそう言ってくれて、お互いに順番で行けるようにしたりとか相談できたはずなのに、0−100志向の夫は全く行かなくなった。
あの時、私はどうしたらよかったの?
褒める育児が推奨?流行?しつつあるけれど・・・
褒めるって本当に大切なことで、些細なことでも褒めてあげると子どもは喜びます。育児において褒めるという行為は大切、子ども自身のやる気が変わってくる。モチベーションが上がる。
絶対に褒めた方がいい。特に未就学児は褒めてなんぼ。でもその褒めって大それたことではなくて、ほんの些細な声かけだったりする。
お風呂で体を洗うこととか食器を洗うとかそういったある程度、流れを教え込んだら自分でできるようになることは褒めて褒めて褒め尽くす。そうするとうまくなっていく。
例えば、入浴の時は「今日は体洗える?」から聞いてみる
疲れている時に頑張らせるのは難しいので、できるだけ本人のコンディションのいい時にする。「洗えるよ!」と返ってくれば「さっすがーーー!」と返す。この本の些細な”褒め”が子どもを育てる。
信頼できる大切な大人と心が通じ合ったと思える瞬間が子どもを育てる褒めだと思っている。
洗い始めたら洗い方のいいところをどんどん言語化して伝えている。髪を洗うとき目に石鹸が入りそうな時は注意ではなく状況説明の方が否定的にならずいいような気がする。
「あ、事故が起きそう!石鹸が目に近づいている!」とか実況しつつ、「先に流した方が良さそうです」などど客観的なアドバイスも伝えてみたり。
こんな風に私が接していても夫の子どもを煽てる力も、コミュ力も一向に上がらない。なんでなんだろうと思っていた。悔しいからできないの?私がうまく子どもと付き合っていて良好な信頼関係を良好な依存を維持していることが悔しいのかとか勘繰っていたのだけれど、実はそんなドロドロしたものではなくて。
どうやら褒められない。褒めてしまうと小さくてかわいそうだった自分がむくむくと浮上してきてしまうから。
褒めることができないジレンマ
褒められて育ってない人は褒めることがとても苦手な方が多いような気がしてならない。→主観です。
でも、児童精神科の医師と話しているうちに褒めることができない背景が見えてきた。
心底、残念に思うほどにコミュニケーションが苦手なのが夫。
まず自分の気持ちが見えてないから、何もかもが遠い誰か第三者の当たり障りのなさそうなところを狙おうとする。それで外れても「いや、本当は〇〇だと思ったんだよ。俺はわかってた。でも一般的には**かなと思っただけ」という逃げ道を常に用意している。
それでは誰かに信頼されるのは難しいだろうと思う。議論を重ねても言い訳で覆されることがあるなら、そもそも議論することが無駄で無意味。
結婚する前とか結婚してからも子どもが産まれるまでは、笑い合ってきたし楽しく暮らしていたと思う。好きなところもたくさんあった。
でも、私が毎週土日yogaに行くことを咎めてから、本音を聞くことが一切できなくなった。あんなにやりたいこと色々あって前向きで優しくて思いやりも感じてきたんだけど。全く別の人に思える。
そして私が夫を褒められないから、夫は子どもたちを褒められないという出口の見えない日々。
虐待が影を落とすこと、一生付き纏うことを実感しています。
殴られて育った人、意地悪を言われて育った人が自分の子供にまっすぐな愛情をかけること難しくなることもわかった。
だけど、やめよう。この不幸の連鎖を止めるのは誰でもないあなたなのだから。
雑木林が好きです。めちゃくちゃに色々生えてるのが好きです。
みんな太陽を求めて少しずつ曲がりながらそれでも生きています。
まっすぐではなくてもいいから、故意に誰も傷つけない。
人もきっと同じ。