エルメート・パスコアール(Hermeto Pascoal)の決定的名曲7選 & ショート・バイオグラフィー
世界が認めてきた音楽の天才「エルメート・パスコアール」が、彼の自慢のグループと、もうすぐ日本へやって来ます。エルメートは今、御年87歳。今回が最後の来日になる可能性は極めて高いです。今回のツアーでは、東京、静岡、大阪、青森の4ヶ所で、コンサートを行ってくれます。
私は本公演の運営を手伝っているわけではありませんが、今、青森県に住んでいるご縁もあり、以下、私なりにエルメートを紹介します。「決定的名曲7選」と「ショートバイオ」の2本立てです。
ぜひ、11月11日、八戸市南郷文化ホールでお会いしましょう!! 同公演は、ゲストが折坂悠太さんです!!!
↓青森・八戸公演 特設サイト。青森・八戸公演のチケットはこちらから。
特設サイトには、手作りのfrue青森満喫マップまでありますよ!
◾️決定的名曲7選
▶︎ Bebê
▶︎ O Farol Que Nos Guia
▶︎ Chorinho Pra Ele
▶︎ Música das nuvens e do chão
▶︎ São Jorge
▶︎ Santo Antônio
▶︎ Intocável
◾️ エルメート・パスコアール|ショート・バイオグラフィー
エルメート・パスコアール(Hermeto Pascoal|アラゴアス州、アラピラカ出身、1936年6月22日 - )作曲家、アレンジャー、マルチインストゥルメンタリスト。
絶え間ない実験から生み出されてきた彼の作品のユニークさは、音楽ジャンルの類型や分類に当てはめることが困難であるということに現れています。エルメートのレパートリーの中で、地方の伝統音楽、国内の音楽、世界の音楽、ポピュラー音楽、クラシック音楽の境界線が濃密に交錯しています。
エルメート・パスコアールは非常に幼い頃から音楽を作り始め、当時より、彼の関心は自然の音に向けられてきました。8ベースのアコーディオン(左手の方のボタンが8つのアコーディオンのこと)で、父親や兄から演奏を学びました。
11才の時には、すでに、ラジオや地元のパーティーで演奏していました。1950年、14才の時に家族と一緒にレシフェに引っ越し、そこで、兄や作曲家のシヴーカと、アコーディオンのトリオを結成しました。
1954年(18才の頃)に、ピアノを習い始め、その3年後に、オルケストラ・タバジャラ(Orquestra Tabajara)に参加するためにジョアン・ペソアに引っ越しました。1958年に、リオに引っ越し、ラジオ局「Rádio Mauá」で楽器奏者として仕事を得ました。1961年にサンパウロに引っ越し、フルートを習得して、様々なグループの一員として、ナイトクラブで演奏しました。
サンパウロでの経験は、楽器奏者としての彼のキャリアを確固たるものにします。この時代に、「Conjunto Som 4」(1964年)、「Sambrasa Trio em Som Maior」(1966年)を録音しました。エラルド・ド・モンチ(Heraldo do Monte)、テオ・ヂ・バーホス(Théo de Barros)、アイアート・モレイラ(Airto Moreira)とのグループ「Quarteto Novo」に参加し、エドゥ・ロボが「Ponteio」を歌って第3位となったTVヘコルヂの1967年の歌謡フェスティバルで、伴奏しています。
「Quarteto Novo」は同年、ジェラルド・ヴァンドレー(Geraldo Vandré)のツアーに参加し、またアルバム『Quarteto Novo』をリリース。同アルバムは、ある種のノルデスチ(北東部)のボサノヴァを創造しており、インストゥルメンタル音楽の記念碑的作品と考えられています。
1969年に、アイアート・モレイラと歌手のフローラ・プリン(Flora Purim)の招きで、エルメートはアメリカを旅して、国際的なキャリアを開始する段階に入りました。
アメリカで、エルメートは最初のソロアルバム『Hermeto』を録音、マイルス・デイヴィスといったジャズ・ミュージシャンの録音にも参加しました。マイルスとの録音は、アルバム『Miles Davis / Live-Evil』の中に収録され、エルメートのペンによる「Igrejinha」「Nem um Talvez」も収録されています。
国際的な音楽界の巨匠たちとの経験を経て、自作曲や非常に実験的な作品が中心となる新たな段階へと進んでいきました。
ブラジルに戻り、1973年にブラジルでの初めてのソロアルバム『A Música Livre de Hermeto Pascoal』をリリース。1976年には、動物、風、水などの自然界の音や、電子機器、やかん、洗面器などの日常的な物の音から「音楽を引っ張ってくる」という最初の実験を行ったアルバム『Slaves Mass』を発表しました。このアルバムの録音するにあたり、エルメートはスタジオに豚を連れて行き、またコンサートにも豚を連れて行きました。
エルメートは、どんな状況や場所でも音や雑音を聞き取ることができ、
それを直後に音楽に変えることができる優れた感性を持っています。最も本能的な宇宙と、言語の形成との間にあるこの変換を、他の誰にもできない彼の才能によって行います。
イタリアの音楽学者 Enrico Fubini は、エルメートのことを「自然で、本能的で、言語以前で、型にはまらない」と指摘しましたが、先の特徴(宇宙と言語の形成との間にある変換)は、この形容と一致しており、エルメートの音楽は、音楽言語や音楽理論に先立つものであり、従って、エルメートの音楽は常に定義することが困難なのです。
エルメートは、サンパウロ芸術批評家協会(APCA)から2回表彰されています。1972年に最優秀ソリスト賞、1973年に最優秀アレンジャー賞を受賞しています。1978年には、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルに参加し、1979年にはアルバム『Ao Vivo em Montreux Jazz』を発表しています。
どんな日常の表現の中にも音や音楽を聴く練習は、エルメートの生活の中での珍しい経験の中で起こります。1981年に、日常的な共存の中で音楽制作を深めることを目的として、リオの自宅に一種のコミュニティを作りました。こうして、「家族のワークショップ(oficina familiar)」を立ち上げ、そこは楽器奏者のための学校となりました。多くの音楽家がそこで学んだ中に、ピアニストのジョヴィーノ・サントス・ネト(Jovino Santos Neto)がいました。ジョヴィーノは長年、エルメートのグループに鍵盤奏者として参加しました。
自然の音、騒音、話された言葉を数え切れないほど経験した後、エルメートは「サウンド・オブ・オーラ(som da aura)」と名付けた音楽概念を確立しました。
1984年のアルバム『Lagoa da Canoa, Município de Arapiraca』で、エルメートはこのやり方を続け、スポーツ実況の声(「Vai mais Garotinho」「Tiruliruli」)、犬の遠吠え(「Spock na Escada」)、オウムの話し声(「Papagaio Alegre」)を音楽に取り込み融合させました。
1992年の『Festa dos Deuses』では、このやり方をさらに深め、ウイラプル(マイコドリ属の鳥)、サビア鳥(つぐみの1種)、鶏、マガモといった鳥の鳴き声や、詩人で俳優のマリオ・ラゴ(Mário Lago)や元大統領のフェルナンド・コロル・デ・メロ(Fernando Collor de Melo )のスピーチで、音楽を奏でています。
1996年から1997年の間、エルメートは1日に1曲作曲することを自らに課し「音のカレンダー(Calendário do Som)」を作り上げ、1999年にその楽譜が出版されました。
このような「自然で本能的」な原点から生まれる音楽のプロセスは、エルメートの「ユニヴァーサル・サウンド(som universa)」という考えによって完成し、音楽をテーマやジャンルで囲ってしまうことができなくなります。
70才の誕生日を迎えた2006年には、ジョヴィーノ・サントス・ネトが編集した15曲入りのスコアブックを制作しました。このスコアブックはWeb上で無料で配布しています。2009年には、この自由主義的な態度を更に進め、エルメートが作曲した曲614曲全ての権利を放棄しました。
エルメート・パスコアールは、現在、87歳。今年の5月の北米ツアー中には、名門ジュリアード音楽院から名誉博士号を授与された。トランペット奏者のウィントン・マルサリスが、エルメートにこの栄誉を授与しました。
エルメート・パスコアールは、音のミクスチャーを作品の中心的要素とすることによりブラジルの文化的多様性と自然を反映し、その音楽のユニバーサル性(普遍性 / 全世界性)を映し出しています。
※エルメートのことを更に知るには、こちらもお読みください!
今回の、八戸市での公演は、青森県出身でブラジルやブラジル音楽と縁のある人生を送っている松橋美晴さんの奮闘で実現しました。彼女が本公演に込める思いを紹介します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?