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逃避海

苦しくてどうしようもなかったから夜中に家を飛び出した。部屋の中にいると、私は何もしていないという実感が全てを包んできて体に力が入らなくなっていた。



時計の針は天辺を回り、外は思い描いた夏の空気そのものになる頃、ようやくベッドから足を下ろしまともな重力を感じる。視界が高くなると天井の低い自分の部屋がすごく小さく見える。小さく見えるのに体はゆっくりとしか動かず息がしにくくて心が折れそうになりながら遊泳を続ける。

チンアナゴが印刷されたお気に入りのトートバッグにいつもの荷物が入っている事を確認し、部屋着のまま車に乗り込んだ。

去年1月の早朝に訪れた海は指先の感覚が分からなくなる程寒くて、乾き澄んだ空気に全部を見通せそうな気がしたけど、散歩をしている犬が数匹で他には何もなかった。
平和がただ広く続いて、波は穏やかで静かに太陽が目を覚ましていくのをただ茫然と眺めた後に犬の足跡を追いかけた。

夏の夜の海には何があるんだろうか、夏だからこんな時間でも人がいるかもしれない。近くのコンビニに手持ち花火が売ってたらいいな、禁止かもしれないけど。朝日が昇るまで居られるかな、でも砂の上に立ったまま何時間も居られる気がしない。

片道1時間半の道程はそんな事を考えながらずっと運転をしていた。期待と不安が入り混じるってのはこういう事なんだ、今まで単純な生活をしていたから忘れていた。

窓を全開にして懐かしい温度の風を浴びながら進んでいく夜はとても気持ちが良かった。

独り言が多い私は、おちゃらけた二人組がうんちくを垂れ流すだけのラジオと会話をして、赤信号でエンジンの音が小さくなる度に、そういえば私は一人なんだ。なんて当たり前の事に少し寂しくなる。

風がまた一つ冷たくなって海が近づいているのが分かった。海の香風で心の帆は膨んで、潮か緊張か分からないような張り付きでまた一つ息苦しくなっていた。街灯が規則正しく並ぶ港町は、海に沿って走る私を見ているようで綺麗だった。

砂浜は音遠くに小さく波の音が聞こえるだけの何も見えない程の暗闇で、空に打ちあがった大量の星と爪を立てたような有明月が浮かんでいた。天気なんてまったく気にもしていなかったが、どうやら今夜は快晴らしく、海を忘れて暫くただ空をじっと見上げていた。

まだ少し遠い波打ち際までとりあえず歩こうと進むと波の音が大きくなっていく。暗闇で海なのかすら分からない景色の中に、爽やかな涼しい夏の夜に似合わない波の轟音が響いていた。視界左端に光る港だけを頼りにギリギリまで寄っていく私は、外から見たら危うかっただろう。

ようやく足元に薄い白波を見る事ができたのに、恐怖から立ち止まってしまっていた。
遠くに漁船かなにかの明滅が見えて、この先に果てしなく私などどうにもならない程の海が広がっていて、それに怯えながらも近づいて、心臓はうるさい程動いていた。
独り取り残されたような感覚になる闇と、決して見捨てないような空のコントラストの間に私は立っている。名前が付かないこの場所で生きている。

圧倒されていた、そして引き込まれていた。

つまらなく死にたい無色の夏、ここに来たのは間違いではなかった。ずっと死にたいを繰り返していた昨日までの夜と違って、意味があるのかは分からないけど持ち合わせる私の全てをつぎ込んで感動をしている夜。喜怒哀楽のどれでもなくて、どれでもある感情が、意味が無ければ生きていけないという焦りを崩してくれた。

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