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天敵彼女 (96)
俺は、信じられなかった。
一体何があったのか?
自分一人では手に負えないという奏に連れられ、ここに来てからしばらく経つが、俺はひたすら黙食を強いられていた。
何度か奏に話しかけようとしたが、俺は目の前の異様な雰囲気に圧倒され、顔を上げられなかった。
今思えば、部屋まで俺を呼びに来た奏に、ろくに事情を聞かないままここに来たのは失敗だった。
余りにも情報が少なすぎて、頭の中が全く整理できない。
今朝、父さんと一緒に出かけてから、帰ってくるまでに何かあったことは間違いないが、それにしてもこれは想定外だ。
目の前にいるのは、朝とは別人のようになった縁さん(目がハートマーク)と、縁さんにひたすら迫られて困惑する父さんだった。
「や、八木崎さん、子供の前なので……」
「聞こえません」
縁さんが椅子を引きずり、更に父さんに近づいた。
この二人の関係性に重大な転機が来ているのは間違いないが、それにしても縁さんのグイグイぶりがすごい。
一時も父さんから視線を外さず、常に目で何かを訴えているように見える。
「こ、 困ります。本当に、こういうのは、あっ……ちょっと」
縁さんが父さんの顔を両手でつかみ、自分の方に向けた。
俺は、この時点で一刻も早く自分の部屋に帰りたくなっていた。奏は、食欲すら失せた様子で、ずっとフォークでニンジンをつついている。
「やめて欲しいですか?」
縁さんがウルウルした目で父さんをまっすぐ見た。
何だ、この地獄は?
早く誰か何とかしてくれと思っていると、父さんが食い気味に答えた。
「は、はいっ!」
それに対して、縁さんが更に食い気味に言った。
「じゃあ、縁って呼んでください!」
俺は、二の腕に衝撃を感じた。
ストレス値がMAXになった奏が俺を小突いたらしい。
もしかして、俺に何とかしろという事なのか?
それはまずい。本当に無理だ。
困惑する俺を嘲笑うように、中年バカップルの暴走は続く。
「えっ、でも、そ、それは……」
「じゃあ、やめません。はい、あー……」
「わ、分かりました。ゆ、縁さん」
「はいっ」
すごい嬉しそうだ。この人、子供いるんだよな?
まるで少女のような縁さんの表情は、俺にとって精神的ブラクラそのものだった。
血のつながりのない俺ですらこれなのだ。実の娘のストレスはいかばかりだろう?
そんな事を考えていると、奏がニンジンをフォークで突き刺し始めた。
「お願いですから、こういうことは……」
「どうしてですか? こういうの嫌なんですか?」
縁さんがこんなに悲しい事はないというような表情になった。父さんは、あからさまにうろたえ始めた。
「いえ、そんな訳では……」
「じゃあ、いいじゃないですか……はい、あーん」
「ちょ、ちょっと……」
俺は、自分の親が、親代わりの女性にあーんされる一部始終を目撃する羽目になった。
父さんは、すごく照れていたが、満更でもない様子だった。その感じが、ちょっと寂しかった。
次の瞬間、俺のポケットが震えた。
ビクーンとする俺。恐る恐るポケットをまさぐると、スマホにメールが届いていた。
(何とかして)
それから俺は、テーブルの下にスマホを隠し、ひたすら既読スルーを続けた。さすがに、目の前で俺達がスマホでやり取りしていたら怪しまれるかもしれないからだ。
(おじさまに何か話しかけて)
奏からの指示が徐々に具体的になっていく。俺は、うろたえ続ける事しか出来なかった。
その間も、縁さんが父さんにやたらとベタベタしている。
頼むから、これ以上刺激するのはやめてくれ! そんな願いが縁さんに届くはずもなく、また奏からメールが来た。
(一瞬でいい。二人の気を引いて! その隙に、うちのは私が始末するから)
だんだん、奏のメールがとげとげしくなってきた。
無理もない。夕食の支度中から、ずっとこれを見せられてきたのだ。
俺は、意を決して父さんに話しかけた。
「ねぇ、出先で何があったの?」
「えっ、ああ……」
父さんは、ホッとした様子で俺の方を向いた。縁さんが残念そうに父さんを見送る姿が印象的だった。
「ま、まぁ、先方のご家族と話し合いを……」
そう言い終わるかどうかの所で、縁さんが話に割って入って来た。
「本当にカッコよかったのよぉ……キャー」
それからは、まともに話が通じる状態の父さんが何か言う度に、完全に冷静さを失った縁さんが茶々を入れる展開が続き、結局話の内容がほとんど頭に入ってこない感じだった。
疲れ果てた俺のポケットでまたスマホが震える。
(仕方ないね。お母さんにとって、これが初恋なんだろうから……)
俺は、隣でため息をつく奏に,初めてメールを返した。
(じゃあ、仕方がないね)
(うん、でも、いいなぁ)
俺は、ハッとして奏を見た。
縁さんが父さんを見つめる視線には、得体の知れない熱が込められている気がした。
今の縁さんは、父さんの為ならどんな障害でも乗り越えるに違いない。
俺には良く分からないが、きっとそれが恋なんだろう。
シングルマザーで、女社長で、いつだって理知的な縁さんが、訳の分からない情熱に突き動かされて、周囲を困惑させている。
それは、おかしな事なのかもしれないが、人生には必要なのかもしれない。
少なくとも、目の前の縁さんは俺が見た中で一番幸せそうな顔をしている。
そんな気持ちに、奏をしてやれたことがあるだろうか?
その瞬間、自分に何が足りないのかはっきりと分かった気がした。
「ちょっと出かけてくる」
俺は、気が付けば立ち上がり、ふらふらと歩き始めていた。
「ちょっとどこいくの?」
奏が何か言っている気がしたが、俺はそのまま家を出た。
外はもう真っ暗だった。
もう絶対に行かないと決めたのに……俺は、気が付けばある場所に向かっていた。
(大丈夫? おじさま達も心配してるよ)
奏からメールが来た。大丈夫とだけ返信した。
無謀かもしれないが、今はこうする事しか思いつかない。俺は、スマホをポケットにしまうと、夜の街を走り出した。