天敵彼女 (88)
「行ってきます」
「うん……行ってらっしゃい」
奏が寂し気に微笑んでいた。
俺は、玄関扉の前で立ち止まった。
「何かあったら、すぐメールでも電話でもしてね。その前に警察に連絡だよ」
「分かってる」
「必ず連絡だよ。すぐ帰ってくるから」
「うん……」
奏は、短めに返事をした。俺を引き止めない為だろう。
もう行かなければならない。俺は、何となく離れがたいものを感じていた。
「……あと、用事なくてもメールしていいから」
「ありがとう」
俺は、しばらく奏と見つめ合っていた。その内、少し離れた場所から父さんの咳払いが聞こえた。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい……色々ありがとね」
「こんな事位……とにかく、また後でね」
「うん……」
奏は、玄関ドアが閉まるまで、ずっと俺を見送っていた。
昨日まで、俺がまず外に出て安全確認をして、それから奏が玄関の鍵をかけていた。今日は、俺だけが外に出て、少し遅れて鍵の音がした。
学校までたった数分の道のりだが、家を出て数秒で、俺は早くも暇を持て余し始めていた。
それだけいつ来るか分からないストーカー対策で、俺の気持ちが張り詰めていたという事だろう。
昨夜、縁さんからも父さんからも詳しい話を聞くことは出来なかった。
もちろん、俺は二人を問い質したが、分かったのはある筋から元実習生の危険な兆候についての情報提供があったという事だけだった。
俺は、何とも言えないフラストレーションを感じていたが、最終的にはいつまでも続く事じゃないからという縁さんの言葉を信じる事にした。
その後、父さんから、これでもかという位我が家に設置した監視カメラについて、長い説明があったが、俺はほどんど聞いていなかった。
多分、それだけショックを引きずっていたのだろう。縁さんは、あくまで予防的な措置だと言ってくれたが、俺が付いているだけでは奏を学校に通わせられないと判断しての事だ。
俺にとっては、それだけで敗北に近い。正直、父さんの言葉は全て頭をすり抜けていった。特に、操作法に関するくだりは全く覚えていなかった。
翌朝、奏に泣きつく羽目になったのは言うまでもない。
その際、教えてもらった情報によれば、今回設置したのは顔認証システム搭載の防犯カメラで、事前に登録した不審人物を見分け、アラームで警告してくれるらしい。
父さんらしい過剰対策だと思ったが、昼間家で一人になる事もある奏にとっては心強いのではないかと思う。
刺股増設については、父さんから説明がなかったようだ。多分、防犯カメラの事で頭が一杯で、単純に忘れていたのだろう。
とにかく、今日は学校が終わったら、すぐに家に帰ろう。一応、午前中は父さんが家にいてくれるようだが、奏が一人になる時間は短い方がいい。
そんな事を考えている内に、校門への一本道に入っていた。
「叶野さん、おはようございます」
後ろから、甲高い声がした。俺は、声のする方に振り返り、軽く会釈した。
「やっぱり元気ないね。八木崎さんがいないダメージが入りまくってるんだよね? ねぇ、今どんな気持ち? どんな気持ちぃ?」
俺は、やはり声のする方を一瞥すると、軽く会釈した。
その声の主は、肩透かしを喰らった様子で困惑していたが、俺には関係ない。
とにかく、今はそれどころではないのだ。
「何だよ。抜け殻ですか? 折角、寂しいんじゃないかと思って、気を使ったつもりなのにぃ……叶野様、相変わらず冷たい。でも、そこがス・テ・キ」
何故か、俺の眉間に謎の皺が寄っていくのが分かったが、俺はもう振り返らなかった。
もう校門は近い。俺は、このまま二人を置き去りにして、教室に向かうつもりだったが、そうはならなかった。
「……やっぱり私のせいなんでしょうか?」
「えっ?」
俺は、思わず立ち止まった。
振り返ると、早坂が深刻な表情を浮かべていた。
「そんな事ないよ。悪いのはストーカーだから……」
「でも……あの人に私の制服姿を見られてたみたいで……私、制服が出来た時、嬉しくて出歩いてたから……」
言葉に詰まる早坂。
俺は、早坂の目をまっすぐ見た。
「そんな事位で、学校を突き止めたり出来るのは、相手が異常だからだよ。早坂がいてくれている事で、奏がどれだけ助けられたことか……とにかく、心配しなくていいよ。奏は俺が……」
俺は、一人決意を固めていた。
奏を守る為に、俺に取り得る手段を全て行使する事を。
「叶野さん、今すごく怖い目を……」
一瞬、早坂の目に恐れの色が浮かんだ。
俺は、意識して表情を緩めた。
「大丈夫だよ。何かあったら、警察に通報して無理はしないつもりだから……」
「本当ですか? 叶野さんは、一人じゃないの忘れないで下さい。叶野さんに、何かあったら何より奏ちゃんが悲しみますから……」
「うん、分かってるよ。ありがとう」
早坂は、それから俺に何度も無茶な事をしないよう言ってきた。
珍しく佐伯が黙り込んでいたのが印象的だった。
俺は、俺がいなくても、こいつらがいれば奏は大丈夫だと思う事にした。
俺は、一人その時に備え始めた。
ふと、校舎の壁面時計を見上げると、相変わらず狂っていた。
いつもなら、気にも留めない事が、今は何故か愛おしい。
俺は、これから目に映る景色をなるべく記憶に留めておこうと思った。