天敵彼女 (100)完
すぐ近くで、誰かが喚いている。
俺は、少しだけじらした後に、救急箱から虫刺されの薬を取り出した。
それから、それをすぐ渡すかどうか悩んでいると、さっきから喚いていた奴が、俺に懇願した。
「それ塗ればマシになるの? だったら、ちょうだいちょうだいっ!」
「ああっ、うっとうしい!」
そいつが誰なのかは言うまでもないだろう。
佐伯だ。
俺が奏と付き合い始めた事を知り、謎の舞を踊り、庭を走り回っていた佐伯だ。
その佐伯は、結構蚊に刺されていたらしく、謎のハイテンションが収まったタイミングでかゆみに悶え始めた。
正直、馬鹿な奴だと思ったが、こいつはこいつなりに、俺の幸せを喜んでくれていたのだからと、怒る気にはなれなかった。
「かゆいいいい! まじか? こんなの初めてぇ!」
「いいから早く薬塗っとけ! くれぐれも言っとくけど、掻くなよ! 余計ひどくなるからな!」
と言っている先から、佐伯が手足を掻き始める。俺は、佐伯の手を掴み、虫刺されの薬を握らせた。
「はいっ、薬っ!」
「でも、かゆいし!」
「だーかーらー、掻くなよっ! 薬塗れって!」
「背中届かなーい! 叶野君、塗ってぇ!」
「わぁ、馬鹿。こんな所でシャツ脱ぐなよ!」
「いいじゃん! 二人っきりなんだし!」
「やめろっ! 分かった! 塗ってやるから、背中向けろ!」
俺は、震える手で佐伯の背中に虫刺されの薬を塗った。
それからしばらくして、買い物に行っていた父さんが帰ってきた。
父さんは、すっかり料理恐怖症を克服し、ほとんど俺が手伝う余地がない程、手際よくバーベキューの下ごしらえをした。
気が付けば、縁側でぐだぐだし始めた俺と佐伯だが、エンジン音に気付くとどちらからともなく走り出した。
駐車場に着くと、うちの車の隣に縁さんの車が停まっており、少し離れた位置に早坂の家の車があった。
「こんにちは、早かったですね」
そう声をかけると、縁さんが返事をした。
「ええ、道が空いていたみたいで……」
俺は、もう次に何を言うのか分かっていたが、一応縁さんの言葉を待った。
縁さんは、やたらとソワソワした様子で、俺に耳打ちをした。
(しゅう様は?)
(台所です)
俺がそう呟くと同時に、縁さんは「しゅう様」の所に向かった。
ちなみに、「しゅう様」というのは、言うまでもなく父さんの事だ。
それまで苗字にさん付けでお互い呼び合っていた父さんと縁さんだが、昨日縁さんのゴリ押しで「縁さん」「しゅう様」呼びになる事が決まった。
当然、父さんは「様付け」には強硬に反対したが、縁さんはお構いなしに「さん付け」の中に「様付け」を紛れ込ませていった。
それでも、父さんは出来れば「さん付け」にして欲しいと懇願したが、それなら私の事を「縁」と呼び捨てにして欲しいという縁さんの要求をどうしても飲めなかった父さんは、家族の前だけという条件で折れた。
ちなみに、「しゅう」というのは父さんの名前の漢字一字から来ている。かつて、この家に住んでいたおばあちゃんは、そこから父さんを「しゅうちゃん」と呼び、縁さんは様付けになった。
縁さん曰く、頼りがいがあってかっこいいからだそうだ。
俺は、もうあの二人の事について、何も突っ込まない事に決めていたので、縁さんをスルーしてすぐ奏の元に向かった。
「待ってたよ。朝からそんなに時間が経ってないのに、不思議だね」
「うん、私も……今日は楽しみだね」
「そうだね」
俺は、奏の荷物を受け取り、奏は俺の腕を組み、一緒に歩き出した。
「こんにちは、今日は呼んでくださってありがとうございます」
早坂の母親が俺達の所に挨拶にきた。早坂は、父親と一緒にいた。
「奏ちゃん……叶野さんも、おめでとうございます」
早坂は、本当に嬉しそうに微笑んでくれた。
俺は、それに対してどう答えたのかよく覚えていないが、最後の方で何とか素直な気持ちを言葉にすることが出来た。
「……早坂にも色々迷惑かけちゃったけど、今回の事で自分の気持ちに気付くことが出来た。うまくいくか……いや、奏と一緒に仲良くやっていくつもりだから、これからもよろしくね」
早坂は、一瞬驚いたように目を見開いてから、大きく頷いた。
「こんにちは、今日はよろしくお願いします」
そうこうする内に、早坂の親父さんもこちらに来た。
「こんにちは……お、お久しぶりです」
「うん、久しぶり。今日はありがとう」
「いえいえ、娘さんには本当に俺も奏もお世話になりまして、今日はそのお礼です」
「そうか……この子は、本当に奏ちゃんが大好きだから……あっ、ごめん。また後で」
親父さんは、早坂に呼ばれたのか、話の途中でどこかに駆け出して行った。例の家出騒動があった事もあり、若干気になっていたが、早坂との父子関係がうまくいっているようでホッとした。
「みなさん、今日は急なお誘いにも関わらず、遠い所までお運び頂きありがとうございます」
それから、ホスト役の父さんがみんなに挨拶をして、家の中に案内した。佐伯は、いつの間にか早坂ファミリーに合流してワイワイやっていた。
俺は、極力父さん達の方は見ないようにして奏と一緒にいたが、何故か背筋が寒くなり振り返った。
「こんにちは」
秘書さんが、俺の顔をガン見していた。幸い、まだ酒は入っていないようだ。
俺は、一瞬後ずさりそうになったが、ギリギリでその場に踏み止まった。
「こんにちは……」
それから、秘書さんの謎の目力の強さに圧倒されながらも、俺はその場に留まり続けた。
正直、この人は苦手だが、奏と一緒にいるなら関わらない訳にはいかない。
それなら、慣れていくしかないと俺が耐えていると、秘書さんの表情がふっと緩んだ。
「合格! 奏をよろしくね」
「は、はいっ!」
俺は、緊張の糸が切れたのか、しばらく呆然とした。
その間も、秘書さんと奏の会話は続く。
「樹利亜ちゃん、ありがとね」
「いいのよ。それより良かったわね」
「うん、ありがとう」
照れ臭そうに微笑む奏。
その顔を見た瞬間、俺の中に訳の分からない感情が沸き上がるのを感じた。
俺は、今でも男と女は天敵だと思っている。
どんなに長く一緒にいたとしても、それは変わらない。
でも、俺と奏は人生を共に歩んでいくことを決めた。
だから、沢山考えて、違いを克服していかなければならない。
その上で、二つの人生をそれぞれの思う形に近付けていけるよう、共に手を取って、歩んで行きたいと思う。
結果がどうなるにせよ、奏との時間を精一杯大切にしたんだと言えるよう、俺は生きていくつもりだ。
それが俺達にとって、幸せな結末であることを祈りながら、ここにいる人達と共に……。