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天敵彼女 (74)
あれから数秒……俺は、うなだれ、目をつぶっていた。
自分が小さく思えて、とにかく情けなかった。毒母がいなくなって、もう随分経つのに、俺は相変わらず弱いままだ。
過去の辛い話をしてくれた奏に、微笑み返すことすら出来なかった。
俺は、いつまでヘタレて生きていくんだろう?
奏はとっくの昔に前を向いて歩き始めているのに……俺は、胸に手を当て大きく息を吸い込んだ。
まだ、少し心がざわついていたが、何とか抑え込めそうだった。
今頃、奏が心配しているだろう。早く復活しなければと思った。
俺は、何度も大丈夫だと自分に言い聞かせ顔を上げた。ゆっくり目を開けると、真剣な表情の奏と目が合った。
今度は、俺から微笑みかけようと、頬に力を入れた。何とか表情筋が動いてくれたようだ。
ホッとした様子の奏。俺達は一言二言、言葉を交わし、また黙り込んだ。 俺は、まだ少し動揺していた。
どうやら、奏がアノ人物の話をした事で、俺の中の嫌な記憶が呼び覚まされてしまったようだ。
あれは、毒母が当時間男だったアノ人物と一緒に、家に乗り込んできた日の事だ。その時、俺は階段の途中から下の様子を伺っていた。
それは、リビングで何が起こっているのかを知る為というよりも、いつ毒母が帰るのかを知る為だった。
俺は、父さんが心配だった。毒母一人だけでも大変なのに、二人がかりで苛められたら本当に可哀そうだと思った。
それでなくとも、毒母は間男がいる事で強気になり、玄関で散々な態度をとっていた。
俺は、出来ればそのまま帰って欲しかったが、あの二人は図々しくも家に上がり込んできた。
子供の俺にも良くない状況なのは分かっていた。俺は、何とか父さんと一緒にリビングに入ろうとしたが、毒母に怒鳴られ、自分の部屋に引っ込まざるを得なくなった。
あれからもう随分になる。俺は、毒母に怒鳴られる覚悟で一度様子を見に
行こうと思った。
「……じゃあ、さよならっ!」
次の瞬間、唐突にリビングドアが開いた。俺は、慌てて物陰に隠れた。
「ああ、せいせいした。今日はありがとねぇ、これからどこ行くの?」
毒母がかわい子ぶった高い声を出した。正直言って気持ち悪かった。俺は、毒母がおかしくなったのではないかと思い、恐る恐る様子を伺った。
「えっ? だーからー、この後どうするって言ってるの? もうバカ……」
それは、衝撃的な光景だった。目の前に、父さん以外の男に色目を使う毒母がいた。
俺達の前では、いつだって不機嫌で、常に攻撃的な態度を崩さない毒母が、知らない男にしなだれかかり嫌らしい笑みを浮かべている。
あの女にとって、この家は何だったのか? 自分で選択して、ここに来たはずなのに、全ての責任を俺や父さんに転嫁して、自分だけが身勝手極まりない遊びに興じている。
俺は、心の中で何かが崩れていくような感じした。気が付けば、俺はひどい吐き気に襲われ、その場にうずくまっていた。
その時の事は、どうやら俺の中で最強クラスのトラウマになってしまったようで、今でもふとした拍子に毒母のアノ顔がフラッシュバックする事がある。
俺にとって、自分に好意を向けてくる女子はフラバを誘発する危険な存在だ。特に、男に媚びるタイプの女子は最悪だ。
俺が女子の告白を断り続けるのは、酷いフラバに襲われるからだ。同じ理由で、奏と男女として向き合う事も出来ないでいる。
俺は、いつになったら毒母の呪縛から解放されるのか?
今のままでは、出来るかもしれないし、出来ないかもしれないとしか言えない。そんな事に、奏を付き合わせる訳にはいかない。
だから、奏の幸せの為に俺は……考え込む俺の手を奏が握った。
「少しずつだよ。少しずつ一緒にね」
「う、うん……」
俺は、奏の手の温かさを感じた。それからは、俺達は普通に話をした。
その中で、食事はどうなっているんだろうという話になった。
そう言えば、父さん何してるんだろうと俺はスマホをチェックした。
あれから、返信がない。何やってるんだと思っていると、父さんからメールが来た。
「あっ、父さんそろそろ帰ってくるって……話、大丈夫? あと五分くらいらしいよ」
「そう……じゃあね、これだけ言わせて」
奏が俺の目をまっすぐに見た。俺は、何故かドキドキした。
「あの人の親権変更でうんざりしていた所に、ストーカー騒ぎもあって、私本当に何もかも嫌になりかけてた。あの人達は、私の意思を無視して、都合良く私を操ろうとした。不自然な位優しい態度をとるかと思えば、突然怒り始めて攻撃して来た。余りにも理不尽な事が続いて、私は人が信用できなくなりそうだった。でも、おじさまと峻は違った。私にも、母さん以外の家族がいるんだと思えた……峻、私を守ってくれてありがとね。本当に感謝してる」
「う、うん……」
奏は涙ぐんでいた。俺は、奏が泣いているのを見るのは本当に久しぶりだった。
「久しぶりだけど、いい?」
「いいよ」
俺は、立ち上がった。少し遅れて、奏も立ち上がり、俺の目の前に来た。そこから、奏がお辞儀をするように上半身をかがめると、丁度俺の胸の位置に奏のおでこが当たる。
理由は、良く分からないが、昔から泣き顔を見られたくない時に、奏はこうするのだ。
「……ごめんね」
「うん……」
こうやって奏に胸を貸すのはいつぶりだろう? 奏は、しばらくの間俺の胸に顔をうずめていた。
「……ありがとう。おじさま、もう帰ってくるんでしょう?」
「うん、多分……」
「何だか、お腹空いたね」
「そうだね。もう大丈夫?」
「うん、もう大丈夫だよ……私、顔洗ってくる」
「分かった」
俺は、奏がいなくなった部屋で天井を見上げた。
まだ胸の辺りがぽかぽかしていたが、それだけじゃない感じもした。それは、本当に不思議な感覚だった。
暖かいはずなのに、どこかひんやりもしている。思わず、胸元に手をやると、シャツに奏の涙のシミが出来ている事に気付いた。
俺は、恐る恐る目線を落とした。幸い、黒いシャツを着ていた為、それ程色の違いは目立たなかった。
ホッとした俺は、思わずソファに身体を埋めた。
「峻、おじさま帰って来たよー」
奏が呼んでいる。俺は、慌てて立ち上がると、玄関に向かって歩き出した。