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ヒューマノイド∽アイドロイド∅ガール (6)

「どどど、どうぞ……」

 震える手で鈴里依舞の前にコップを置いた僕は、何かに急き立てられるように振り向くと、意を決しておっさんの間合いに入った。

 既に、ここは攻撃が届く距離だ。さすがに自分で用意しろと言った手前キレはしないと思うが、それでも全く安心できない。

 おっさんが上機嫌なのはあくまでも鈴里依舞の前だけ。ここには、給湯室という名の拷問室がある。

 なるべく後で怒られる事のないように、一瞬一瞬をやり過ごさなければ……僕は、もう一度トレーを確認した。

 さっきから随分手が震えていたが、コップが倒れたり、ジュースがこぼれたりはしていないようだった。

 今の僕は、とあるプレッシャーがもたらす緊張感に、身も心もやられている。何か粗相をやらかす前に、早くこの危険物をおっさんに押し付けなければと思った。

 僕は、コップを掴んだ。おっさんは、まだにこやかだ。

 それにしても、おっさんにオレンジジュースの違和感が半端なかった。

 額に汗がにじむ。おっさんの身体が動く度に膝が震えた。

「どどどどっどど……うぞ」

 もう滅茶苦茶だった。自分でも、このキョドり方は万死に値するレベルだと思う。

「しゅ、ししし、失礼します」

 息を止め、コップをおっさんの前に置いた。まだ、怒鳴られてはいない。どこも痛くない。

 多分、大きなミスはなかったのだろう。直視は出来ないが、おっさんの刺すような視線も感じない。

 これは、セセセ、セーフだろう? 

 ようやく、来客に飲み物を提供することが出来た僕は、超緊急避難的におっさんから距離をとった。

 あからさま過ぎて、さすがにキレられると思ったが、おっさんは微笑んでいた。

 幸い、おっさんはもう「きれいなおっさんモード」になっているようだ。一応、トレーを鳩尾付近に構え、僕は声を絞り出した。

「ご、ごゆっくり……」

 おっさんの反応――ほぼシカト。僕は、慎重に間合いをとり、おっさんの視界の外に出た。

 これで僕から注意がそれる。やっと休める。そんな事を考えていると、いきなりおっさんが僕を呼んだ。

「おいっ! 平間」

「ひゃっ! ひゃいっ!」

 もう噛んだとかどうでもよかった。僕は、既におっさんの顔すらまともに見られない状態だった。そんな僕に、おっさんは微笑みかけた。

「何固くなってんだよ? お前、こんな若い子に緊張とか、情けない奴だなぁ……」

「えっ? あっ、あああ、はっ、はいっ! すみませんっ!」

 おっさんの目は笑っていなかった。さっきまでのキョドり方は、女慣れしていない童貞野郎特有のものであり、決して給湯室であったことが原因ではない。

 分かってるな? この野郎と、おっさんが言っているようだった。

「ききき、緊張してましたか? えへへ……」

 僕は、汚ったない嘘でその場を取り繕った。おっさんが釣られて笑ってくれているのかどうかは分からなかったが、少なくとも圧が少し弱まった気がした。

「まあいい。お前も話をちゃんと聞いておくようにな」

 さっきまでが嘘のような穏やかさだった。おっさんは完全にTPOにあった優しいおっさんだった。

 僕は、思った。束の間の平穏がやってきたと……。

 もちろん、粗相があれば後で血祭りだが、鈴里依舞という少女がいる限り、おっさんは良い人偽装を続けるはずだ。

 ここは安全地帯。ここは安全地帯。焦るな、焦るな、冷静になればやり過ごせるはずだ。僕は、ガチな緊張を漂わせ、和やかな会談の様子を見守った。

「依舞、大きくなったなぁ……母さんは元気か?」

「元気です」

「そうか……どこか母さんの面影がある。いくつになった?」

「十四歳です」

「もう、そんなになるのか? 早いもんだなぁ……」

 おっさんの表情がオヤジ的な何かになった。僕には、よくわからないが、鈴里依舞はおっさんと家族ぐるみの付き合いらしい。

 僕は、いきなり直立不動の姿勢になった。鈴里依舞とおっさんのつながりの深さ=ハードルの高さだと思ったからだ。

(コン、コンッ、コンッ)

 そんな中、突然誰かが扉をノックした。僕は、思わずビビって叫びそうになるのを必死でこらえた。

「誰だ?」

 おっさんの問いかけ。ものすごく長い間をあけてから、消え入りそうな声がした。

「あ、わ、私……です……し、しつ……れい……します」

 僕は、思わずおっさんの様子を伺った。

 とりあえず、キレてはいない。僕なら、間違いなく罪状――腹から声が出ていないで死刑だが、この人は大丈夫らしい。

 おっさんは、普通に入室を促した。

「おうっ、早く入れっ!」

「……………」

 しばしの沈黙の後、あからさまに気弱そうな女の人がドアの隙間から顔を出した。

 余りの影の薄さに僕は度肝を抜かれたが、さっき鈴里依舞に挨拶を忘れておっさんに怒鳴られた事を思い出し、とっさに挨拶をした。

「お、お疲れ様です」

「……ひっ」

 女性は、か細い悲鳴をあげ、ドアの陰に隠れた。どうやら驚かせてしまったらしい。

「すすす、すみませっ!」

 やらかした。こ、こ〇される――思わず、女性を迎えに行こうとした僕を制し、おっさんが言った。

「悪いな、知らない奴に急に大声出されて驚いたよな? 大丈夫か? しんどくないか?」

 女性は、しばらく躊躇った後、ようやくドアの隙間から顔を出した。

「……だ、ぃ……じょ……です」

 何だか、見ていてこちらが辛くなる感じだった。身体が小刻みに震えているし、あからさまにメンのタルを病んでいる印象だった。

 いくら追い詰められていたとはいえ、いきなり大きな声を出したのは悪手だった。

 このまま女性が帰ってしまったら……一瞬で嫌な想像が頭の中を駆け巡った。

 お願いです。復活してください。お願いします。僕は、女性が元気を取り戻すよう心の底から祈った。

 それから、長い沈黙が続いた。

 おっさんは、なかなか入室しようとしない女性を黙って待った。恐らく数十秒は経過していただろう。

 僕は、おっさんをこんなにも待たせることの恐怖を身をもって知っている。

 確実に、数十回は死ねる時間だ。

 早く早く早く! もう喉がカラカラだ。こうなったら、無理矢理にでも……そんな事を考えていると、ようやく女性が入室した。

 幸い、おっさんはまだキレてはいなかった。僕は、いつでも逃げ出せる態勢のまま、事の成り行きを見守った。

「おう、久しぶりだな」

「……は…い」

「もういいのか?」

「……は……ぃ」

「そうか?」

「…………」

 嫌な予感がした。さっきから全く会話が弾んでいない。

 このままでは、悪・即・斬を地で行くおっさんがストレスを溜める可能性がある。

 そのはけ口になるのは、間違いなく僕だ。何か膝が震えてきた。

「どうだ、調子は?」

「…………」

「まあ、ゆっくりだな」

「…………」

「無理しなくてもいい。徐々に慣れていってくれればいいと思ってる」

「…………」

 女性は、さっきからずっと無言だった。さすがに、おっさんの眉間に皺が寄り始めた。

 こういった場合、このヤ〇ザの判断は、クソほど速い。

 案の定、おっさんの声のトーンが変わった。

「まだ、早かったか? やめるか?」

「…………」

 女性の重苦しい沈黙。そろそろ察してやれよと思ったが、おっさんはそれでも話し続けた。

「俺は、無理強いはしない。あくまでお前の意思を尊重する……どうする? やめるか?」

「…………」

「どうした? 何でもいい。何か言ってみろ。俺は、お前の気持ちが知りたいだけなんだよ」

 徐々に背中が丸くなって行く女性。誰とも目を合わせないようにしているのか、ずっと床を見つめていた。

 僕は、これでは埒が明かないと思った。このままでは、おっさんの極めて短い怒りの導火線に着火してしまう。

 おっさんのため息。思わず悲鳴を上げそうになる僕。

 女性は、もう外界に反応しなくなっていた。

 そんな絶望的な沈黙を破ったのは、やはりおっさんだった。

「分かった。今日はよく来てくれた。ここまで来るのだって大変だったろう。ありがとな」

「…………」

「また、連絡する…気を付けて帰るようにな」

 嘘だろう……おっさんの有り得ない優しさに僕は驚愕していた。鈴里依舞といい、この女性といい、どう考えても何かがおかしい。

 このおっさん、女の前では別人格なのか? そんな僕の隣でかすかな声が漏れた。

「……だ、大丈夫です。や……、やれます」

 気が付けば、女性が僕のすぐ隣にいた。

 一瞬、何が起こったのか分からず、立ち尽くす僕。目の前では、おっさんが話の都合の良い部分だけを驚異的な感度で拾っていた。

「そうか? じゃあ、いけるな? よしっ!」

 一人で納得するおっさん。歪みない鬼畜感が漂う中、おっさんはさっさと次の話題に入った。

 何だか、決定事項をただ読み上げてる感じだった。

「依舞、こいつらがお前の世話をする二人だ。この建物内は平間、そして帰りは……城ケ崎が家までお前を送り届ける。お前ら、分かったな?」

「は、はい」

 すげぇ気乗りしないまま返事した僕は、隣で城ケ崎と言うらしい女の人がガン泣きしている事に気付いた。

「無理です無理です無理です無理です……私にそんな事。無理です無理です無理です」

 ああ、これは最高にアカンやつや――まるで将来の自分(破壊後)を見るようだった。僕は、今にもわめき散らしそうな城ケ崎さんから距離を取ろうとした。

「参ったな……」

 おっさんの呟き。僕は、慌てて元の場所に戻った。こうなると城ケ崎さんよりもおっさんだった。

 溜息をつくおっさん。さすがにこれはキレる。

 立ち尽くす僕。益々ヘラっていく城ケ崎さん。状況はどんどん悪化していた。

「ちょっと待ってくださいっ!」

 そんな中、鈴里依舞が立ち上がった。

 今更何が出来るというんだ? さすがに、きれいなおっさんでも、そろそろキレるぞ――そんな僕の心配をよそに、鈴里依舞はいきなり城ケ崎さんの元に駆け寄った。

「大丈夫。大丈夫だから……」

 僕は度肝を抜かれた。鈴里依舞に抱き寄せられた城ケ崎さんは、すっと表情を和らげ、いきなりおとなしくなった。

 あんなにヘラってたのに、信じられないリカバリー具合だった。

「城ケ崎さん、私鈴里依舞です」

「……は……はい」

「これからよろしくお願いします。いいですか?」

「……ごめんな……さい。もう、大丈夫……です。よろしく……おねがい……します」

「良かったです。じゃあ、はいっ! 握手っ!」

 鈴里依舞が右手を差し出した。何だか、城ケ崎さんの表情が引き締まった気がした。

 多分、これでいいんだと思うが……一人不安に駆られていた僕は、思わずおっさんの方を見た。すげぇ満足そうに微笑んでいた。

 この時点で、話は九分九厘纏まったと言っていいのだろう。既に、誰かが異論を挟む余地はなかった。

 それにしても、何が起こったんだ? あれだけのカオスが一気に収束した。

 相手は、ヤ〇ザとメンヘラだ。もう一人は、完全に空気でしかない。ただの無能(涙)だ。

 普通なら今頃、ブチ切れたおっさんが城ケ崎さんを追い返し、ギリギリ残った理性で鈴里依舞にちょっと待つように言い残した後、僕には地獄の給湯室が待っているはずだった。

 なのに、どうしたことでしょう? 僕は今、何にもされていない。多少メンタルを削られた事を除けば、城ケ崎さんが入室してくる以前のコンディションをキープ出来ている。

 それもこれも、どう見ても中学生くらいの女の子が、場を収めてくれたからだ。

 あんな事、何十年かかっても僕には無理だ。この先、どんなにおっさんと長く一緒に仕事をしても、絶対にあの状況は打開できる気がしない。

 なのに、あんなに簡単に……。

 僕は思った。この子何者だ、と。

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