インターネットの分断は止まらないよ、という話(諦念)
※この記事は2018年3月にTwitterに連投したものに若干の(主に前振りの)加筆をして転用している。まあ何せ四年前の文章なので内容的には古いかも知れんのだが、今↓こうやってTwitterを引用したら『表示できません。Twitterで見てね!』となっているのを見るにTwitter自体も『分断されたインターネット』の側に急転回している昨今であり、本当にこういう方向(アプリ単位で分断されたSNS)にしか向かわんのだなあ、と思いを強くしてしまったので、改めてnoteに残す。
https://twitter.com/hmmr03/status/977792591042289665?t=1TKAMaFV3b2-MIyrSHAqBw&s=19
本題に入る
俺はこう見えても90年代半ばにはfj.*を読んだりもし、httpの世界が広がるや個人サイトを作ったりもし、あめぞおや2ちゃんやよつばに出入りしたりもしてきた年期の入ったインターネット老人なのであるが(余談だがパソ通経験は無い。パソ通まで遡るとそれはもうインターネットじゃねえだろと思うわけよ)、これだけ年期が古いとかつてインターネットでは『オープンであること』『どんな環境からもアクセスできること』が重んじられていたことを覚えているわけよ。Googleが現れたばかりの頃どれだけ歓喜と衝撃をもって迎えられたか(そして独占企業となってから変質したか)覚えているわけよ。XHTMLがどんだけ高尚な理念を掲げて現れたか(そして結局時流に駆逐されたか)知っているわけよ。
で、そういう身からすると、インターネット分断――アプリ単位のSNSに人々が、情報のやりとりが囲い込まれていき、『外部』からは検索の手も及ばない状況――ってのは愕然とはするが、しかしもう後戻りはできないんだろうなあとも思うわけ。
正直、こんだけ長いことインターネット老人やってると『論理だって話せば分かってもらえる』ということには絶望しかなくて、寧ろ『これもうインターネット分断による棲み分けの方向に向かうしかないんやろな』と思うことの方が多い(※それが良い・正しい、と言いたいわけではない。単なる諦めである)。
例えば『ウェーイ系ばかり集まるSNS』と『ギークばかり集まるSNS』と『セレブばかり集まるSNS』とが互いに言及することなく存在してて皆その範囲しか見ないとすれば、HTTPという技術基盤はインターネットと共通でも、最早見えてる光景はインターネットとだいぶ違うものになりますわいな。そういう意味での『インターネット分断』の懸念は数年前Facebookの勢い盛んなりし頃からちらほら言われ続けているのだけど、『もういっそ互いに分断されてそこから出てこない方が心穏やかで居られるのではないか……?』と思うようなことも、まあ、あるっちゃああるわけですよ。
『インターネット分断が懸念されてる』というのはどういうことかというと、例えば全てのSNSで検索エンジンのクローラを含む非ログインユーザーをブロックするようになったとしたら、それはもう『情報を横断的に利用できる』というインターネットの利益を放棄したようなものではないか、と言うのですよ。
ただ、インターネットを利用しながら『●●は見たくない・聞きたくもない』というユーザーが現に結構な規模居るし、そういうのは『実際●●という物の見方もあってですね』という話にすら拒否感を示す。そういうユーザーが増えれば、『いっそどこか別のSNSに分断されててくれ』と言いたくもなる。互いに互いの発言・表現を嫌い、炎上させあい、時には法の介入すら望む。そんな出会いしか出来ないのなら、互いに分断されるなりフィルタしあうなりして『互いに見ない』しかなくなるのかな。技術的手段による分断の方が『表現自体の法的規制』よりはマシには思えるし。
……そういう諦めである。